大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十 第五回内國勸業博覽會工事 三十八歳―四十歳 3 望樓(ぼうろう)

大阪の大景觀

近畿地方に於ける山紫水明、風光明眉の地としては誰しも京都や奈良を擧げるのだが、共に盆地で大景觀を味ふのには狹苦しくて物足りない感じがする。その意味からすると、山河襟帶、平野あり、海ありの大阪の方が遙かに勝つてゐる。もし大阪平野の中央に好適な高臺(たかだい)があつて、そこから四圍(しい)の風光を賞し得たならば恐らく天下の絶觀であらう。しかるに大阪はもと淀川や大和川流域の三角洲で沮洳(しょじょ)の地、纔(わず)かに攝、河、泉を繫ぐ蜿蜒(えんえん)たる大阪城域一帶の丘陵はあるが、平地面より十四、五米突の高さに過ぎない。まして今は家屋櫛比(しっぴ)して眺望の餘地がない。最近まで大阪城天守閣の廢墟たる石疊上(平地面より約一二〇尺)の展望によつて或る程度の慾望を充し得たに過ぎなかつたのであつて、これも未だ以て理想的高さとは稱し難かつた。大阪市當局はこゝに見るところあり、最近御大典記念として平地面上約二百尺の五層天守閣を再建せられ、これによつて長く捨てられてあつた大阪平野の大景觀を拾ひ得るに至つたのは洵に歡喜に堪へない。

故人の達觀

しかし博覽會當時にあつては、現在のやうに市中到る處に高層建築も無ければ天守閣の五層樓も無く、又新世界の通天閣も無かつたのである。故人は大阪平野の大景觀を既に知つてゐた。これを世人に紹介もし、鑑賞もさせたいといふ熱望から、博覽會の開催を機として美術館の傍に百五十尺(平地面より約一七〇尺)の望樓を築造したのである。會期は四ケ月の短期とはいへ構造は木造である。百五十尺の木造高櫓は恐らく我が國に於ける前代未聞のものであり、その強靭を期する爲には材料の精選は勿論、荷重、強度の計算並にその施工等に萬全の注意を拂つて構築したものである。さうしてその昇降にはエレベーターを使用したもので、恐らく我が國最初の試みといつてよく、その構造は中山説太郞氏の考案にかゝり、中々面白い話題が殘つてゐる。(現新世界の通天閣はこれを模倣したものである)果せる哉、この奇拔な試みは、大阪人は言はずもがな、雲集した天下幾多訪客の感興をそゝり、登臺者は日々陸續(りくぞく)として絶え間なく、陶然として悉(ことごと)く大阪の風光に醉つたものである。大阪は風光鑑賞上に錦上更に花を添へる歴史的感興が甚だ稀薄のやうに思はれてゐるが、よく調べて見ると左程貧弱ではない。無論奈良や京都のやうに豐富ではないが、相當の史實を有つてゐるまして猫の額のやうな部分的の小さな感じでなく、天空海濶ともいふべき曠々(ひろびろ)とした大景觀は大阪獨得のもので、試みに當時の望樓より見た大阪四圍の景觀を東、西、南、北に分つて畧記(りゃくき)して見よう。蓋(けだ)し想ひ半に過ぎるものがあらう。

東方の眺望

東……菜種花咲く黄金の波の河内平野を隔てゝ生駒、葛城の山系が北より南に走つてゐる。これが大阪の東山だ。葛城連山の中央部には金剛山が三角形の巍峨(ぎが)たる山角を現してゐる。概して東方は古戰場が多い。その金剛山はあまりにも有名で、大楠公が我が國要砦戰としての範を垂れた古戰場、山容千古に渝(かわ)らず大楠公の孤忠を偲ぶとき覺えず敬虔の情が溢れて來る。

葛城と生駒山系を割つた谿谷を河内平野に流出する大和川の出口は、大阪夏の陣に後藤基次、薄田兼相の兩驍將(ぎょうしょう)が戰死した激戰地の道明寺で、その北方河内平野の中央にある若江は、側面より東軍を衝かんとして花と散つた木村重成戰士の地である。化して路傍の土となり年々春草を生ずで、諸將の英靈今何處に瞑(つむ)るだらう。

眞東、暗峠より北に方つて草香山がある。神武天皇御東征の折、長髓彦と戰はれて利あらず、軍を返させ給ひし孔舍衙(くさか)の坂の變名である。

更に生駒北部山麓の平地に四條畷がある。小楠公が高師直の大軍と戰つて憤死した古戰場で、別格官弊社四條畷神社は炳として千載にその壯烈を物語つてゐる。

望臺直下にはこれ亦大阪夏の陣に大阪方の總師たりし眞田幸村戰死の茶臼山(古墳)があり、敢然大義に殉じたその去就は武士の典型として秋霜烈日の觀がある。

以上古戰場の外、生駒山系の南端に一際黑く千年の綠を誇つてゐるのが信貴山で、香閣浮圖を望むよしもないが、聖德太子歸依の毘沙門の古刹がその杜に包まれ、和氣淸麿が掘鑿(くっさく)した堀割の跡が茶臼山の東部に見える。

北方の眺望

北……聖德太子が建立せられた佛法最初の四天王寺の大伽藍が直下の丘陵上にその雄姿を誇つてゐる。不幸幾度か兵燹(へいせん)に罹つて昔日の俤(おもかげ)はないにしても、百濟樣直線式堂宇の配置と金堂の錣葺(しころぶき)、石の大鳥居(國寳)等は確かに異彩を放つてゐる。四天王寺の丘陵が北に向つて半島形に突出したその北端に大阪城があつて、今は槿(むくげ)花一日の夢と化した豐公の迹も寂しく、纔かに殘る巨石の石壘と白堊の伏見矢倉を望見するに過ぎない。大阪城北直下に流れるのが舊(きゅう)淀川で、大楠公が六波羅軍を粉碎して溺れる敵を救つた古戰場の渡邊橋(現在では天滿橋)が當時の美談を物語つてゐる。更にその北方白糸の如く東西に一線を劃(かく)するのが大澱江新淀川である。大阪はこの丘陵と川があつた爲に生れたのであつて、浪速津と稱へた古から大陸文明を輸入した咽喉をなしてゐる。新羅の朝貢を受け又は遣唐使を送つた鴻艫館はその丘陵下の舊大和川(淀川の支流といつてよかつた)の畔にあり、鵜殿の蘆のほの見えて松の煙の浪よする江口の里の、翠帳紅閨の裏に大宮人を惱殺した遊君の舊跡は今や水田と化してしまつたが、如何に淀川が寧樂、平安朝期に於ける文化的要衝であつたかゞ窺はれる。殊に丘陵地帶に至つては更に赫々(かくかく)たる歴史を有つてゐる。應神天皇が皇居を奠(さだ)め給ふた難波大隅の宮、彼の高き屋の御歌によつて有名な 仁德天皇の高津の宮、下つて孝德天皇の御代には唐の長安京を摸して羅城を圍(めぐ)らし、我が國最初の條坊區劃(くかく)を施した長柄豐碕の宮もこの丘上に構營せられ、我が國憲法の濫觴(らんしょう)たる大化の新政はこの宮殿より發せられたのである。不幸炎上の炎に遭つて平城遷都の後蓮如上人が本願寺を石山(現大阪城地)に建立するまでの七百餘年間は獨り四天王寺門前町が繁榮した外荒廢に歸したのであつたが、天與の勝地は長く雜草の離々たるに委さるべきものでなく、慧眼豐公の築城以來遂に大大阪が出來上つたのである。今は光輝ある當時の皇宮を偲ぶ俤もないが、文明の開拓者たるこの丘陵と淀川に對しては萬腔の感謝を寄せざるを得ない。

更に眼を淀川の北に放てば、廣袤(こうぼう)十里の攝津平野を隔てゝ左手より能勢、箕面、茨木、天王山等丹波、攝津、山城を結ぶ連峰が橫はつてゐる。右端が彼の有名な天王山で、秀吉が備中の遠征より長驅軍を返して光秀の軍を破つた古戰場である。これと對峙するのが石淸水八幡宮の男山、その隘地が滔々(とうとう)たる淀川の山城を出る關門で、關門の奧山城盆地は模糊として武陵桃源の趣がする。

山崎より此方里餘に楠公父子訣別の櫻井驛がある。今は若葉の萠えた巨木の殘骸を見るに過ぎず、靑田吹く風が永へに哀別の詩を奏でてゐる。

西方の眺望

西……西方の眺望は恐らく大阪景觀中の特異性を遺憾なく發揮したものであらう。それは眼界が最も濶(ひろ)く且つ雄大であるからだ。水天髣髴(ほうふつ)靑一髮の弓なりに突出した紀伊の岡巒(こうらん)と淡路島山とが抱いた茅渟(ちぬ)の海が二十里に亙(わた)つて展開され、山陽の萬里舟を泊すとでもいふのだらう。右手には六甲、摩耶に續く鐵枴ケ峰等の武庫高峰が煤煙に塗られて襞さへ見えず、大きな一塊團は負ひかぶさるやうに海を壓して山の魔とでも言ひたい雄大さがある。そして眼を茅渟の海に注げば、須磨、明石、淡路、繪島に月落ちかゝり、または茜さす入日の影が舞ふ金波銀波と映える海面、それを眞帆片帆がゆるやかに縫ふ。數百年前より謳(うた)はれた難波津の致景、今更ながら喉が鳴る。

脚下一帶は連甍(れんぼう)畦をなす大阪萬戸の市街、堂島、土佐堀、木津、尻無等の各川が市街を貫通し、これを連結する溝渠(こうきょ)が白く縱橫に光つてゐて水都の名に恥ぢない。周圍工場地帶の林立する煙突よりは煤煙天に冲して淡褐色に日を遮ぎる。多くの場合人工は自然美を破壞するものだが、場合と場所と、見方によつては絶大の感興を誘發するもの。その煤煙は附近の山河をぼかす妙あるばかりでなく、國家生存の血液製造の源泉たるに想到するならば、壯絶、快絶、現代的の大景觀たるを失はない。更に大阪大築港の中には萬噸級の巨船が幾多橫はつてあり、川口、天保山、尻無川及木津川等には無數の舴艋(さくもう)が輻輳してゐる。

平地福島の邊りの逆艫の松(今は枯れて根を遺すのみ)と尼崎大物の浦は共に義經に因む舊跡である。更に遙か摩耶山下に至つて神戸市がある。大楠公戰死の湊川古戰場は市の中央にあり、公を祀つた別格官幣社湊川神社は嚴として我が國民思想の根幹をなすもの。遠く茫靉(ぼうあい)たる摩耶山下にその忠魂を遙拜する時身は淸冽な水で洗はれたやう、すがすがしい心地がする。その山容の盡きる邊りが鐵枴ケ峰で、平家の一門が幾多哀史を遺した壽永(じゅえい)の昔が偲ばれる。

南方の眺望

南……左手には葛城山脈の南方、大和、紀伊の連峰が山又山と高峻を競つてゐる。無限の春風まだ消えぬ南都吉野の山も、老杉寂として靜かなる靈地高野の山も葛城や紀見峠の奧に隱れて一入床しい感じがする巨嶽峻嶺は重疊(ちょうじょう)として更に東南に走つて最高峰大臺ケ原より熊野に達して止み、紀見峠の西は紀伊岡巒となつて次第に低く細く茅渟の海を抱いてゐる。

茅渟の海の東端は半圓形をなして河内、和泉の平野に灣入し、波は靜かに湖のやう。沖の鷗や磯千鳥のつれたつ白砂靑松の洲渚(しゅうしょ)は煙波十里に長く、胡麻をふつたやうな漁り船の網兒調ふる呼聲が聞えてほしい。近く濱傳ひに天下茶屋と紹鷗の森が指呼の間に點綴(てんてい)し、住吉の森の翠綠は際だつて黑帶を印し、杜の中には彼の有名な住吉造りの崇嚴な大社殿と珍らしい反り橋が秘められ、その磯邊には千年の綠を誇る岸の姫松に續いて、神火煌たる住吉の高燈籠が聳(そび)えてゐる。

左方眞近の阿倍野には、南朝の忠臣北畠親房卿と顯家卿の父子を祀つた別格官幣社阿倍野神社がある。曩(さき)に顯家卿は奧羽の大軍を卒ひて西上し、美濃靑野ケ原に戰つて利あらず、奈良磐若坂に再び敗れ、三度び阿倍野に戰つて戰死されたのであつて、懸軍長驅、故郷千里を懷ふ奧羽の軍兵は悉くこの野に盡きたのである。鬼哭啾々恨み長へに消えず、松虫塚の邊り葎(むぐら)にすだく虫の音のいと哀れなのも偶然でない。

南河内、和泉の平野には翠巒(すいらん)起伏して景勝の地が多い。古へ貴人の墳墓は多く景勝の地に設けられたものだ。故に阿倍野より泉州一帶の丘陵には帝陵又は古墳が多い。阿倍野の邊りのみでも松虫塚、播摩塚、萱草塚、小町塚、顯家卿の墓等連續的に並んである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top