大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

七 朝日紡績工事 三十歳

明治二十六年三月、大阪朝日紡績會社に於て第一期の工場建築が計畫せられた。

日野九郞兵衛氏

朝日紡績は富豪日野九郞兵衛氏を社長とし、勃興大阪の潮頭に乘じて生れたものである。會社は工費拾萬圓を豫算し、工事を大溝組外數人を指名して入札に付することゝなつたのだが、不幸大林組はその選に漏れてゐた。當時大林組の請負工事は僅か一つの阿部製紙工場あるのみで、同業者並に一部の識者中には故人の手腕力量を認識する者もあつたが、未だ一般的にはその名前さへ知れ渡つてゐず、大溝組等とは伍すべくもないものとして扱はれてゐたのであるから、この指名に漏れたのも無理はない。しかし新たに佐々木氏といふ後援者が出來、技術の點に於ては他に一籌(いっちゅう)を輸するものでないとの自信を有つ故人は、會社に對して指名方の猛運動を試みた結果、幸に素志貫徹、指名者中に列することを得たが、その指名の決定を見たのは入札五日前のことで、短期間の見積に尠からず辛苦を感じたのであつた。しかるに入札の結果は總工費八萬參三千圓を以て弱冠大林組の手に歸したのである。會社側は、指命に加へたものゝ名もなき大林組に落札したことを意外とし、加ふるに『杜撰の見積は責任遂行が困難だらう』等の中傷もあり、不安の餘り大林組に對して見積内容の提出を命ずるに至つた。

見積の迅速と正確

よつて故人は翌日直ちにこれを提出したが、その内容は、杜撰どころか微に入り細を穿つた周到な計畫と計算から成つて居り、且つ工場及倉庫拾八棟の大建物に對する見積内容を僅か一日間で作成提出したその迅速さに、會社側は舌を捲いて驚くと共に漸く安堵し、寧ろ大林組に對して相當の敬意を拂ふに至り、契約はすらすらと締結されたのであつた。

當時大阪請負界に第一流を以て任じてゐた幾多業者の一團は、曩(さき)に阿部製紙の大工事を故人に奪はれ、今また朝日紡工事を失つて恰も鳶に油揚をさらはれたやう、その悲憤は如何ばかりであつたか。しかるに故人の胸中は洒々落々、何時も晴々とした明朗さで、その一團に對して何等の溝渠(こうきょ)もわだかまりも有つてゐなかつた。故人は本工事の請負が確定して愈契約締結の運びとなつた時、その保證人を一團中の某組の主人に求めたものである。不幸その承諾を得るに至らなかつたが、故人は寧ろその人の狹量に對して不審をいだいたほどであつた。

違約金と賞金

契約は締結したものゝ會社側が猶懸念としたところは竣功期日の點であつた。

當時紡績需要の趨勢は實に旺盛を極め、竣功期日一日の遲延は莫大な影響を伴ふ状態であつたので、故人は會社側の意を察し、『萬一十月十五日の指定期限より遲れることがありましたなら、一日に付壹千圓の違約金を納めませう』と言明した。日野社長はその殊勝な言葉に感じ、又直ちに『よろしい。もしその日より早く竣功したなら、會社は一日に付貮千圓の賞金を出さう』と應じられた。當時我國の紡績錘數は僅かに三十八萬錘で、その産額は貮拾萬梱に過ぎなかつたのが、二年を隔てた二十九年末には一躍倍額の七拾五萬錘に達した趨勢に徴しても、朝日紡が如何に一日の竣成期を爭つて創業を急いだかゞ察せられる。

三月二日から十月十五日までは僅かに七箇月餘、しかしながら故人は胸中確乎たる自信を有つてゐた。爾來工事場には槌の音、鑿(のみ)の響が絶え間なく、眞夏の日盛りにも、物凄い雷雨の中にも、故人の颯爽たる姿の現れない日とてはなく、幾多魁偉の巨漢が、慈悲深い故人の顏を潰すまいとの一念から、汗みどろになつて努力奮鬪を續けたのである。

工期三日の短縮

早や九月末日には工程の九合目を越し、十月十五日の期限までには確實に落成の見込が付き、遂に十月十二日即ち期日より三日前に全く落成を告げたのである。そこで日野社長は當務者と共に嚴正な檢査を行ひ、一點非の打ちどころなき見事な出來榮を喜び、約束の賞金を寄贈することにした。

竣工當時の朝日紡績會社能美島工場全景
竣工當時の朝日紡績會社能美島工場全景

賞金はいらぬ

しかし故人性來の恬淡(てんたん)はその賞金の甘受を潔しとしない。『お約束の賞金は正に拜受致しました。改めて大林組から貴社將來の御發展祝としてお贈り申します』と申出でた。故人は責任遂行を以て最大の滿足としたもので、賞金を貪るやうな意思は毫もなかつたのである。首尾よく出來上つた巍然(ぎぜん)たる建物の雄姿を仰ぎ見て、欣快(きんかい)の情自ら禁じ得ないものがあり、『これで胸の中が晴れ晴れした』と言つて辭去したのである。

有力な後援者

果せる哉、故人のこの美しい態度は日野社長以下朝日紡績會社を通じて語り傳へられ、好評の波紋は軈て華城の社交界にまで擴大され、殊に日野氏の如きは故人に絶大な信任を傾倒するに至り、三年の後本工事に倍加する能美島分工場工事を、しかも特命を以て故人に請負はしめたなど、故人の有力な後援者となられたのである。

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