大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十二 朝鮮の奉仕 四十一歳―四十四歳 3 戰後各種兵營その他工事

朝鮮師團の工事

かくして大林組は朝鮮に於ける戰時中の犧牲的奉仕を終へ、陸軍當局よりは過分の讃辭と同情を博して多大の面目を施したのであつたが、戰後更に龍山及平壤駐屯軍兵營新築工事、歩兵聯隊大隊本部工事、龍山歩兵聯隊衛兵所及營倉工事、龍山兵營土工及水道貯水池工事、韓國駐剳(ちゅうさつ)軍司令官々邸工事、京城衞戍病院その他工事、韓國駐剳軍司令部付將官々舍及龍山兵器支廠(ししょう)工事等、併せて約二百萬圓に達する大工事を請負ふに至つたのである。

初め第一回の入札が行はれ、龍山及平壤駐屯軍兵營工事は五十萬七千圓で大林組に落札したのであつたが、その二番札は大倉組の七十九萬餘圓で、一番札と二番札との差は實に約三十萬圓といふのだから、大林組のその破天荒の安價入札は陸軍當局をして一驚を喫せしめたのであつた。

韓國駐剳軍司令官官邸(現朝鮮總督官邸)
韓國駐剳軍司令官官邸(現朝鮮總督官邸)
龍山駐屯軍兵營
龍山駐屯軍兵營

入札の大違算

本入札の見積擔任者は故人の片腕たる見積の最高權威者伊藤哲郞氏で、氏自ら出張してその衝に當つたのであつたが、伊藤氏自身でさへ開札の結果餘りに開きが大きかつたので愕然として色をなしたのであつた。如何に明敏な伊藤氏とはいへ全智全能の神ではない。不知案内の地に於ける見積に認識不徹底による違算のない筈はない。後精細に取調べた結果確に數々の違算を發見し、蔽ふことの出來ない失敗であつた。伊藤氏は自責の念に心を痛め、歸途對馬沖に於て幾度か死を決したといふことだが、施工最後の結果を見た上でと思ひを返へし、怏々として歸店したのである。

(さき)に開札直後、故人は大倉組の大阪支店長田中豐輔氏と會した時、談偶本工事の入札に及んで田中氏より『貴組の勉強振りには驚きましたよ。僕の二番札と三十萬圓も開いてゐるのですからね』といふ話。故人は自組に落札したことは知つてゐたが、入札結果の詳報にはまだ接してゐなかつたので、田中氏の前では平靜を粧(よそお)つてゐたが、三十萬圓の開きは必ず違算が因を爲すものと、故人の心中は甚だ穩でなかつた。しかし考へて見ると後の祭りだ。

捨て石

『國家への奉公に利益の大を望むは素より本懷でない。開きの多いほど大林精神が透徹するわけこれが所謂捨て石だ。塞翁の馬とやら後日又善いこともあるだらう』と言つて、洒々落々意にも介する氣配がなかつた。

數日の後伊藤氏は歸店した。入札結果の詳細はまだ故人が知るよしもないと、態(わざ)と威勢よく故人の面前に現はれた。故人は伊藤氏に一瞥をやるなり、『三十萬圓の開きはどうしたのだ』と大喝して例の爛々たる眼光で睨みつけた。平常故人に對して餘り遠慮のない直言直行の伊藤氏ではあつたが、この時ばかりは顏色直ちに蒼白と變つて縮み上つた。

大度量

故人はその光景が如何にも可笑しく感じたのであらう。呵々大笑(かかたいしょう)し、しかも伊藤氏の勞を懇(ねんごろ)に犒(ねぎら)つて後何等の叱言さへ無かつた。その豪腹測り知るべからざるものがあり、伊藤氏が大林組の創立直後より故人の片腕となつて献身的努力を吝(おし)まなかつたこともこの一事を以てして肯かれる。

その後、かく犧牲的の安價な請負は果して陸軍當局より多大の同情を注がれる因となり、次々の工事は特命の恩典に浴することを得、戰後の朝鮮に有終の美を飾ることが出來た。

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