大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

三 葬送 2 本葬

本葬

二月二日、大阪四天王寺本坊に於て本葬が行はれた。四天王寺はいふまでもなく聖德太子の建立を以て知られた大阪最古の名刹である。本坊は同寺中の淨域に建てられたもので、東西十間、南北十五間、中央には寺寶たる聖德太子筆阿彌陀(あみだ)佛の尊像を掲げ、その前に故人の遺骨を安置し、淸楚にして幽寂、故人の靈莞爾として來り在るがやうである。

式は京都小松谷御坊正林寺住職正僧正大門了康師の下に行はれ、京都總本山智恩院執事山下覺隨師、四天王寺住職大僧正吉田源應師は諷經(ふぎん)に就き、唱和の讀經は嫋々(じょうじょう)として梁を繞(めぐ)り淸香は芬郁(ふんいく)として滿堂に薫じ、その莊嚴いはん方なく、しかもこの日の會葬者は華城財界の名流を網羅してその數一千八百名を超へ、故人の最後を飾るに相應しい盛儀であつた。而して生前關係の最も深かつた大阪電氣軌道株式會社長、廣島電氣軌道株式會社專務取締役、その他大日本武德會長、濟生會長、建築協會理事長など各種團體等の弔詞十五を數へ、就中(なかんずく)大阪電氣軌道株式會社長大槻龍治氏の弔詞は思慕綿々の情言句に表はれ、聽く者泣かざるはなく、やがて令嗣義雄氏以下の燒香後、奏樂裡(そうがくり)に式を閉ぢたのであつた。こゝにその時の導師大門正僧正の誄詞及葬儀委員長今西林三郞氏の友人總代としての弔詞を掲げる。

大門了康師の誄詞

夫三界含識四生稟命攀縁結業殆等駛河尺波寸影大力所不能駐月御日車雄士莫之能遏佛世尊甞説涅槃偈云

一切諸世間  生者皆死歸  壽命雖无量

要心有終盡  盛者必有衰  合會有離別

壯年不久停  老且病所侵  命爲死所呑

無有法常住  帝王得自在  勢力無等雙

一切皆遷滅  壽命亦如是  流轉無休息

三界皆無常

手に結ふ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ

大正五年二月二日

淨土宗京都布敎團長正僧正
大門了康

今西氏の弔詞

弔詞

維持大正五年一月二十四日、友人大林芳五郞君疾を以て夙川邸に逝く、嗚呼哀しい哉、君幼にして父に別れ具に辛酸を甞め、奮然志を立てゝ東京に出で、土木建築の業務に從事すること數年、一意勵精(れいせい)、能く事業の薀奧(うんおく)を究め、遂に明治二十五年大阪に於て獨立その業を剏(はじ)め、年を閲すること二十數年、經營企畫宜しきに適ひ、漸を追ふて地歩を占め、創業以來今日に至る迄その施工せる請負事業は約數千萬圓の巨額を算す、而してその大なるものは先に在つては第五回内國勸業博覽會の建築、大阪灣築港工事を始め、軍用鐵道の敷設、陸軍病院及兵營の建設等殆ど樓指するに遑(いとま)あらず、更に最近に於ける大阪軌道の生駒隧道の開鑿(かいさく)並に東京中央停車場の築造の如き、孰(いず)れも空前の巨工たらずんばあらず、曩(さき)に 明治天皇崩御あらせらるゝや、特命により御陵の造營に奉仕し、その御斂葬(れんそう)に際しては草莽(そうもう)の身を以て畏くも幄舍參列の恩命に浴したるのみならず、伏見桃山東陵の工事擔當の榮を荷ひたるは洵に絶大の令譽(れいよ)なり、是より先、明治四十二年七月個人經營の方針を改め、合資會社大林組を組織し、時勢の推移に伴ひてその規模を擴張し、多年その事業に參與せる有爲の士をして業務を擔任せしめ、自ら監督の衝に當り、深くその部下を愛撫して苦樂を共にし、事業の基礎歳と共に益鞏固(きょうこ)を加ふるに至れり、業餘、又力を經濟界に注ぎ各種の事業を發起經營し、現に廣島電氣軌道及日本製樽兩會社の社長たり、惟ふに君、資性任俠にして然諾を重んじ、頭腦明晰にして裁斷流るゝが如く、豪膽能く事に當り、百折不撓、萬難を冒して敢て屈せず、遂に今日あるを致せり君は實に我國土木建築界の覇王にしてその手腕聲望共に儔(ちゅう)するものなし、その業界に於ける功や決して沒すべからず、然るに今や溘焉(こうえん)として長逝す、嗚呼哀しい哉、君年齒(ねんし)未だ耳順に達せず、前途多望の身を以て空しく黄泉の客となる、洵に痛悼の至りに堪へず茲(ここ)に友人を代表して肅んで英靈を弔し哀悼の意を表す、尚くば亭けよ

大正五年二月二日
友人總代 今西林三郞

菩提寺 龍淵寺
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龍淵寺境内故人の舊墓所
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