大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十一 箕面有馬電氣會社工事 四十六歳

岩下翁の發案

阪神急行電鐵會社の前身箕面有馬電氣會社が岩下淸周翁の發起で明治四十年末に生れた。

秋紅葉の箕面溪谷があつても、風光明媚な寶塚の温泉場があつても、攝津平野を貫く電鐵事業が果して滿足な成果を收め得べきや、當時の人々は殆ど危懼の念を以てこれを迎へ、寧ろその無謀を嘲る者さへあつた。岩下翁の先見も大聲里耳に入らずで、同社は株式拂込の當初からこの種幾多の難關に逢着した。翁は窃かに期する處あり、蹶然(けつぜん)起つて自ら社長の任に就き、專務小林一三氏と共にこれが達成に縱橫の才腕を揮はれたのである。

こゝに於て翁の素志を速に貫徹させようとするならば、先づ第一に工事の速成が肝要なわけで、翁の心事をよく理解しつゝある故人は、本工事を請負ふと同時に自ら前線に立つて工事の促進に努力したのである。線路敷設、三國發電所及池田變電所、箕面遊覽道路、箕面循環線路等實に尨大な工事であつたが、會社側の測量をさへ應援助力して、明治四十二年三月に着手し、翌年三月に至る僅一箇年にして竣成したのである。

寶塚温泉
寶塚温泉

パラダイスの出現

その後引續き寶塚新温泉及娯樂場工事をも設計並に施工し、未だ我が國に類例の無い彼の大歡樂境が浮き出たのであつてその結構の大と輪奐の美とは當時の建築界を賑はしたものである。かくて開通後の成績は果して翁の豫期に反せず、電氣事業の有利なるを立證し得て、蒙昧な凡人輩をして啞然たらしめたのであつた。

電車線路の敷設工事中、或る日の休息時に故人は四面の風光を眺め、『我々は實に幸福な身だ。鳥の囀(さえず)りを聞き、或は花を賞し、大自然を友として暢び暢びと仕事が出來る。この工事こそ風月の工事とでもいふのだらう』と、いと滿足げに現在の境地を讃美したのであつた。石橋、池田、雲雀ケ丘一帶は四季折々の華樹芳草に富み、西に武庫連峯を指し、南に攝津平野を展望する眞に風光秀麗の地。この大自然に浸つた故人の感懷は槊(さく)を橫へて詩を賦するがやう。

故人の詩想

(さき)には第五回内國勸業博覽會の折、望樓(ぼうろう)を築いて大阪の大景觀を天下に紹介したなど、故人の腦底には常に詩想の充滿してあつたことを否定出來ない。總帥にこのやうな風流觀があり、その部下が小唄の一つも歌ひながら、和氣靄々として工事に精進する樣が今目前に見えるやうである。自然に對してはかうした理解のあつた故人も、いざ仕事となると一歩たりとも放漫を許さなかつた。

獨逸の職工

丁度その頃の或る時、會社側から或る工事の施工につき『もうそれで宜からう』と言はれながら『左樣なことでは大林組が承知出來ません』と言つて、心ゆくまで完全を期したことがあつたが、それは慥(たしか)に故人の性格を寫し出した快事であつて、由來獨逸の職工は、米國の職工の如く時間的に又機械的に働いてゐる風が少なく、概して自己製作品に對して非常な興味を有ち、一度び理想的作品を得ると心ゆくまでこれを眺め樂しむことが多いさうであるが、美術家でも建築家でも一職工でも、作品に對する氣持はかくありたいもので、かくてこそ初めて作品の進歩が期待せられるのである。面憎いほど念入りな故人の僻。その後日外武庫川氾濫のとき、岸壁の石垣が十數間水に浚(さら)はれたことがあつたが、不思議や當時の施工たる石垣上の建物には些の損傷もなく、激賞を買つて面目を施したことがある。これ皆故人の徹底性が齎(もたら)した賜である。

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