大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

七 故人の修業時代 -呉軍港工事- 

翌二十一年の夏、水澤氏は更に明治工業會社の下請負を引受け、呉軍港の築造工事に着手された。故人は關西鐵道工事も漸く緖に就いたので、水澤氏の請により呉軍港工事に赴いたのである。居ること三月餘り、實績は次第に現れて行く。

技師長の不信望

しかるに同社の技師長は不幸にして勞働事情に暗く、常に工夫との間に調和を缺き、工夫等は寄ると觸ると技師長に對する不平の聲を放ち、次第に不穩の氣勢さへ見えるやうになつて來た。故人は工夫等の不平の無理からぬに同情してゐたが、もし萬一のことがあつては水澤氏に累の及ぶを怖れ、常に彼等を宥(なだ)めて暴擧の抑壓(よくあつ)に腐心してゐた。しかし最後には故人の力を以てしても制止し切れないまでに惡化し、或る日偶工事の進捗上に就いて問題が勃發して一觸即發の危險を孕むに至つた。

故人の殺氣

ここに於て故人は自ら犧牲となつて事を收拾するより外に途なしと覺悟し、『お前等が多數を恃(たの)んで一技師長に當ることは卑怯である。俺一人で澤山だ。斷然無謀の振舞をしてはならぬぞ』と諭し、自ら技師長の室に乘込んで行つた。技師長は安樂椅子に凭れて書見中であつたが、突如闥を排して仁王立となつた故人の姿のたゞならざるに驚愕し、室を飛び出すなり折柄の便船に乘じて神戸に逃走してしまつた。

水澤氏も事こゝに至つては、事情の如何に拘らず棄て置くことも出來ず、砂崎氏と協議して故人を東京に還すことゝなつた。しかし却つてこれが技師長の反省を促す動機となつて、その後技師長對工夫間の關係は至極圓滑に歸し、相互融和して工事も順調に進むことが出來た。

この出來事は故人にも亦生涯に對する轉機を敎へた。靑年時代の動もすれば血氣に逸(はや)り易い行動は苟(いやしく)も前途に大望を抱く者として愼むべきことだとの自覺は、故人の後半生の心境に多大の變化を與へ、沈着克己の大本願を發すると共に、爾後謙抑自制し、遂に一代の風格を鍛成するに至つた。

砂崎家を辭す

砂崎氏に仕へること五年餘、刻苦慘憺(さんたん)、大業を成す素地を作り上げた故人は、この問題を契機として獨立營業を目的に氏の許を辭すことゝなつた。故人に對し絶對の信任を拂つて來た砂崎氏は、惜別の情禁ずる能はなかつたが、故人の前途を思ふとき涙を呑んでその請を容れた。砂崎氏は故人の獨立經營後もその有力な支援者であつたことはいふまでもなく、故人も亦終生氏を慈父の如く敬つたものである。

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