大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十二 朝鮮の奉仕 四十一歳―四十四歳

明治三十六年の交より、滿鮮を中心とした露國の橫暴振りは東洋平和を攪亂するの行動としか讀まれなかつた。殊に彼の獲たる不凍港旅順要塞の建設は何を物語るものであつたか。一葦帶水(いちいたいすい)の我が國にとつては虚心坦懷晏如たるを許さなかつた。雨か、嵐か、暗雲は頻(しき)りに低迷する。果然濛雲は沛然(はいぜん)たる雷雨を伴なつて來た。

日露の開戰

明治三十七年二月九日、遂に日露開戰の幕は切つて落された。遼東半島還付以來臥薪嘗膽十星霜、復讎に燃える日東帝國の健兒はこゝに猛然と立ち上つたのである。

これより先、我が軍部當局は事のこゝに到るを豫期し、幾多の戰時計畫を進められ、就中(なかんずく)軍略上最も重要な朝鮮の南北を貫く京釜、京義の兩鐵道敷設をば極力急いでゐられたのである。大林組は第五回内國勸業博覽會工事に於て漸く請負界に雄を稱ふるに至つたが、未だ以て朝鮮にまで進出の餘力も機會もなかつた。

奉仕の申出

しかし國を擧げて國難に處する危急存亡の秋、人一倍愛國の念に燃えてゐた故人として袖手傍觀(しゅうしゅぼうかん)が出來るものでない、宣戰布告と同時に時の京釜鐵道會社並に臨時軍用鐵道監部(在仁川)に自ら進んで鐵道敷設の難局に當らんことを申出たのである。兩者よりはその志を賞されたのであつたが、時既に遲く、各請負者の施工割當區域が確定した後で、纔(わず)かに殘る京釜鐵道の第五工區第八小區の一小部分と、臨時軍用鐵道監部所管の平壤義州間に於ける十二哩の工事と、京義間五十九箇所の停車場及十箇所の機關庫工事とを請負ひ、この請負額總計は八十六萬圓に過ぎなかつたのである。當時故人としては屠龍の技を伸ばし得ないことを嘆じたのであつたが、損益上から打算するならば或はこれが幸ひであつたかも知れない。多少の損失は敢て問ふ所ではないが、停車場及機關庫工事の如きは實に莫大な損失に終つたのである。

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