大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

三 故人の母

故人の母

故人の母美喜子刀自(とじ)は、生駒連峯の翠微(すいび)を後に、黄金波打つ河内平野を前にした中河内郡枚岡村字豐浦の八木氏の出であつて、糟糠の妻としての内助、良人の病中半藏に餘る看護、良人歿後の業務經營、不慮の厄難に處しての辛苦、子女五人の鞠育(きくいく)等に鑑みるとき、稀に見る良妻賢母であつた。

良人病中の看護

刀自は、元來男勝りともいふべき勝氣な性でありながら、半面又女性としての優しさと愼みとを豐かに有つてゐて、家政萬般を切り盛りして良人に後顧の憂なからしめたばかりでなく、半藏に餘る良人の病臥中は、他所目にも憐れなほど良人を劬(いた)はり慰めたもので、『貴方にはまだまだ澤山の仕事が殘つて居るのですから、そんな氣弱いことでは駄目です。養生が何よりも肝腎です。貴方が拵(こしら)へられた財産ですから、貴方の病氣を癒すのにどれ程かゝらうと何んの憾(うら)みもない筈です。店のことなどは心配せずに、ゆつくり養生して下さい』とは朝夕良人を勵ます言葉であつた。良人の身の廻りや藥餌一切の行事は總べて人手に任さず自ら擔當し、偶良藥ありと聞いたときは距離の遠近と價の高下を問はず直ちにこれを求めて羞むるなど、至れり盡せりの看護を續けたのであつた。とりわけ讃歎に値する一事は、良人の病中は、自ら採配を揮つて、男子さへ難事とする繁劇多端な營業に些かの支障をも來さしめなかつたことで、思慮分別にすぐれた女丈夫の俤(おもかげ)が偲ばれる。かうした血の出るやうな半藏の苦鬪も遂に空しく、天は無情にもこの良妻の手中より天地にかけ替のない良人を奪ひ去り、手枷足枷たる五人の子女を抱へ、反覆常なき人情の海のたゞ中に捨小舟となつて漂はねばならぬ運命に陷つたのである。その時の刀自の胸中はどうであつたか。一時は全く途方に暮れたのも無理はない。

自ら良人の業を繼ぐ

さりながら勝氣の性はむらむらと躍動を始め、その愁嘆は忽ちにして發奮と化し、亡き良人に代つて營業を繼續(けいぞく)せんものと決心して直ちにこれを二人の娘に謀つた。二人の娘は、婚期を犧牲にしても大德の家運を支へようと、健氣にも即座に賛意を表した。實に、斯の母にして斯の子ありで、德七氏の歿後幾干もなく、刀自は同業者に向つて自ら大德の暖簾を繼承する旨を發表した。同業者は好奇心と危惧心とを以てこれを迎へたが、一家を支へんとする熱に凝り固まつた刀自の商戰には却つて一分の隙もなく、忽ちにして衆目の懸念を釋(と)くに至つた。

大林家の災厄

その後四、五ケ月を經た或る日、この健氣な母堂の上に大林家の浮沈に關わる一大災厄が襲つて來た。天王寺區裁判所からの一片の差紙がそれである。故德七氏に係る巨額の貸金返還請求訴訟であつて、法廷で示された證文は、筆蹟こそ違へ、印鑑は正しく大德使用の押切判である。妻に對して些かの祕密をも有たなかつた律義な良人、まして營業上の失敗もなく相當富裕の身、かゝる巨額の負債がある道理がない。暫し思案の首を捻つたその刹那、幻の如く浮んで來た一つの記憶がある。それは良人の歿後間もない時、帳簿や書類の整理を行ふ爲知人の手より傭つた一人の男のことである。原告は表面その男と何等關係のない天王寺の山根某とはなつてゐるが、この間何かの脈絡があるのではなからうか。刀自はその直覺を辿つて直ちに事件究明の方策を樹(た)てることにした。即ち山根の附近の知る邊を賴み、雨の日も風の夜も通ひつめて一心に見張番をしたのである。交通不便なその當時、靱から天王寺への張番や、彼方此方の聞き合せや、かうしたことに沒頭する困難さは到底筆紙に盡されるものではなかつた。早くも二ケ月餘を過ぎた或る日のこと、端なくも山根方に訪れ來つた者は、靈的感應によつて夢寐(むび)にだも忘れ得なかつた彼の男である。果然その事件は想像通りであつたことを推定し得て一道の光明を認めることが出來た。仍(よっ)て戸長田中市兵衛氏と同道、審判廷にて右の仔細を申立てたので、件の男は直ちに裁判所に引立てられ、遂に白紙に捺印してこの狂言を仕組んだ罪状を自白するに至つた。

裁判の勝利

刀自に對する同情と感激は滿廷を動かし、數十日に彌(わた)るその辛苦は明らかに酬いられた。明治初期に於ける大阪財界の重鎭であつた流石の田中戸長も讃歎措く能はず、『貴方は實に見上げた人だ。男勝りの賢婦人とは聞いてゐたが、世帶持ちの忙しい中に女の身で、よくもこの難事を解決された』と衷心激賞せられたのである。

しかし大林家はこの事件によつて尠からざる打撃を受けた。まして大阪の衰頽は日一日と加はり、昔日のやうに夥多(かた)な利潤を夢みることが出來なくなつて來た。刀自の苦心も容易でない。しかるに又もや一つの悲しみを增さねばならなかつた。

故人の丁稚奉公

それは大阪商家の習慣に倣つて、最愛の子由五郞(後明治三十五年故人三十九歳の時芳五郞と改む)を丁稚修業の爲に膝下から離さねばならなかつた一事である。早晩免れ得ざる一時的の悲哀とはいへ、亡き良人に對する思慕の涙未だ乾かざるに愛兒と別れる淋しさは如何ばかりであつたか。

長女の結婚

更にその翌年長女こま子を大門家に嫁がせた。大門家は當時相當の素封家であつて、賢婦人たる刀自の片腕となるほどの躾を愛でて、強いてこま子を迎へられたのである。

長男の宿痾(しゅくあ)

三年にして一家より三人の影が消えた。如何に女丈夫とはいへ、寂寥(せきりょう)の涙が枕を濡すことも夜毎であつたらう。殊に長男太三郞氏は、幼にして病を得、爾來發育尋常ならず、刀自の日夜肝膽(かんたん)を碎いた薫育(くんいく)もその效果を奏することが尠かつた。この一事は、刀自にとつては何ものよりも大なる苦痛であつて、後、龍淵寺に囑して太三郞氏を僧籍に入らしめ、二男たる故人に家督を相續(明治九年故人十三歳の時)せしめることに決定を見てから多少の愁眉を開いたのであつたが、この事に對しては隨分長い間惱み續けたのであつた。

二女の結婚

その後明治十三年二女たね子を山田氏に嫁がせた。このたね女は刀自宛然(えんぜん)の性格で、故人の晩年に至るまで、亡き母に代つて理路整然、憶面もなく故人を戒飭(かいちょく)したもので、故人も常に畏れ敬つてゐたのである。

店舖の讓渡

これで母としての任務は一段落を告げたのであつたが、一面營業上の有力なる助手を失ひ、まして齡は既に五十六歳、寄る年波に心身共に疲れ、市場も不況續きで昔日の營業は到底覺束なくなつた爲、亡き良人と共に築き上げた愛惜の情禁じ得ない店舖ではあつたが涙を呑んでこれを他に讓り、四女たか子と共に佗びしき一家を設け、二男たる故人の成長を唯一の樂しみに餘生を送ることゝなつた。

大林家に嫁いで以來こゝに三十年、この間刀自は一日として安逸に惠まれた日とてなく、恰も血と涙の日記を見るやうである。しかも貞節を持してよく家を整へ、故人をしてその羽翼を自由の天地に暢ばさしめた内助の功は、女の鑑として讃歎に値するものである。

故人の香血は、遠い祖先より脈々として傳つたものに相違あるまいが、近くその父母の性格を偲ぶとき、恐らくその血の大部分は直接父母に稟(う)けたものゝやうに思はれる。即ち周到、謙讓、堅實等の部分は父の性格に酷似し、豪邁(ごうまい)、果斷、機敏等の部分は寧ろ母の性格に宛然である。

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