大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

七 故人の修業時代 -皇居御造營本工事- 

明治十八年五月二十五日、伊藤宮内卿の大模樣替計畫の決定を見てから、皇居御造營工事は本格的となつた。尤も製材及木組(作事場は現楠公銅像のある邊の廣場)等は既に殆ど出來上つてゐて、各宮殿は順次建前に着手されてゐたのである。總べてが直營工事といつてよいほどであつたが、大工工事の請負擔任は東京の高木氏、京都の今井氏、名古屋の伊藤氏等であつて、砂崎氏は直接大工工事には關係しなかつたが、次を追うてこれと關聯(かんれん)する各種工事二十八件の御下命を拜し、次第に繁多を加ふるに至つたので、既に試驗濟の故人は砂崎家の最前線に立つて再び名譽ある工事に參加したのである。

宮殿の雄姿

總建坪一萬二千七百坪に亘る幾棟かの大宮殿が次から次に宏大莊嚴な雄姿を現して行く。それは八紘を光被し給ふ 陛下の御稜威の彌(いや)が上にも擴がり行くを示すが如くで、故人は、日々皇運の萬萬歳を心中に叫びながら、氣も晴々と業にいそしんだのであつた。而して工事の宏壯雄大なばかりでなく、材料の強靭な點、精選される點、取扱の鄭重な點、施工の周到緻密な點、絢爛にしてしかも淸楚な點等は木造工事として古今に絶する逸美のものであつた。

建築美

猫に小判といふが、故人にしてもし何等の素養がなかつたならば、その雄大さに驚く程度に止まり、津々として盡きない「建築美」に陶醉することは出來なかつたであらう。しかし故人は、初め御造營地形工事に於て徐(おもむろ)に現場の氣分に馴れ、中間一小兵營工事とはいへ建築上の豫備智識を吸收し、更にこの大工事に就いて二ケ年の研鑚を積むなど實に幸運に惠まれたのであつた。

見積の失敗

或る日、主人砂崎氏旅行不在の折、女官部屋敷地盛土及地均工事見積方の命を承け、且つ急速を要する旨の御達しがあつたので、故人は已むなく自身で積算して見積書を提出し、直ちに施工方の命を拜した。しかるに驚くべし。實に桁外れの低廉な見積であつて、後砂崎氏より恐らく多大の損失を招くであらうと注意を受け、朋輩等よりは盛んに冷笑を浴びせられたのであつた。こゝに於て故人は責任上自らその工事を擔任し、寢食を忘れて事に當つた。一張一弛、その指揮監督は實に鮮かなものがあり、工事は滯りなく進捗し、工期數日を餘して竣成した。しかも決算の結果は多少の剩餘を生み、誰一人驚異の眼を睜らざる者なく、砂崎氏の如きは手を拍(う)つて故人の手腕を激賞されたといふことである。

先入主

故人が東京の土を踏んで以來、四年の歳月は瞬く間に過ぎ去り、砂崎氏擔任の御造營工事も次第に終局に近づいた。修業の當初からかうした譽ある、嚴肅(げんしゅく)な、統制的な、模範的な、斬新な大工事に參加したので、その裨益の大は論ずるまでもなく、故人の腦底には、この時一生涯去ることの出來ない深い印象が刻み込まれたのである。故にその後如何なる平易粗雜な工事にさへ、材料の精選癖と施工の徹底癖とが絶えず故人を支配するに至つたもので、ましてや砂崎氏の人格が故人を陶冶したその賜は何物よりも偉大であつて、もし市井の所謂請負師の下で小規模な工事に業を修めたならば、他日の大林芳五郞は生れなかつたであらう。この觀方を以てするなら、四年の歳月は甚だ短い感はあるが、その間の收穫は囊中を溢れ出んばかりの大漁といはざるを得ない。

明治二十年の秋、砂崎氏と好い水澤新太郞氏が、大阪鐵道會社(後の關西鐵道會社、今の省線關西線)初期工事の一部を請負ふことゝなつた際、水澤氏も亦吉田氏の如く豫(かね)てから故人の手腕力量を知つてゐたので、強いて故人の應援方を砂崎氏に懇望された結果、御造營工事も終局に近づいてゐた折とて砂崎氏も快よくその請を容れ、故人は郷土に近き同工事に當ることゝなつた。

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