大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋(ばつ)

父をしのぶ大林義雄

父在世中の私は、まだ若年の修學時代であつたから、廣大無邊(こうだいむへん)ともいふべき父恩に對して餘り深い關心を有つてゐなかつた。しかるに父の歿後日を經るに隨(したが)つて、父の有り難さが沁々(しみじみ)と骨身に滲み渡つて懷しさが募るばかりである。父は創業以來その歿するまで二十五ケ年の間、事業上に於て隨分奮戰苦鬪されたが、その反面私の育成に對しても一方ならぬ心勞を重ねられ、これ亦父としての大事業であつたやうに思はれる。

私が呱々(ここ)の聲を擧げたのは父が三十一歳の時で、「男の子が生れた」と其の喜び方は一通りでなかつたと聞いてゐる。しかるに生れながらにして虚弱であつた私は、四、五歳の頃、醫者から「二十歳まで生きられるかな」と危まれたさうで、これを聞いた父の心配が如何ばかりであつたか想像に餘りがあり、一粒種の男の兒(こ)、これを亡くしてなるものか、といふ父の愛育は恐らく眼の中に入れても痛くないといふ位のもので、何をしたつて叱られることもなく、怖いものなしの我が儘の仕放題で育てられた。今も記憶にあるのは六七歳の頃、刀を振り廻して見たいのは小兒の本能とでもいふのだらう、土藏の中から刀を引ツ張り出して床柱に切りつけたことがある。その時ばかりは父も怒つて直ぐに刀を奪ひとり、「こんなものを持ち出して危ないではないか、藏の中に投り込んでやる」と私を引き抱へて藏の中に投り込んで外から錠を卸して了つた。その時私はあらん限りの聲を放つて泣き出すと同時に、手當り次第に邊りの品物を床に叩きつけて暴れ廻つた。父は再び驚いて今度は笑ひながら私を藏から出し、宥(なだ)めすかして私の機嫌を取つたものである。今から思へば罰當りと云はうか、申譯のないことをしたものであると後悔するばかりである。

そして父は常に私の望む玩具ならどんな高價なものでも買つて呉れたので、私は近所中での玩具の分限者であり、この玩具が近所の子供達を牽きつける好餌となつて、私の家には常に四、五人の子供が集つてゐないことがなく、私はそれ等の子供達に對しても絶對の權威者であつたのである。且つ父自らも暇さへあると私等に仲間入りして、或は四ツ這ひとなつて馬となつたり、或は素裸となつて相撲の相手をして呉れたり、嘻々(きき)として共に遊び戲れたものであつた。これは父自身が疲れた頭を休める方法として好んで子供達を相手に遊んだものでもあらうが、虚弱な私を案じて少しでも樂しく運動をさせてやらうとの、父の慈愛の思ひ遣りとも思はれる。かうした所謂舐犢(しとく)の愛に浸りながら漸く七歳に達した時、一面體育にもよしお行儀もよくなるといふ一擧兩得(いっきょりょうとく)の策として、十四歳に至るまで謠曲(ようきょく)と仕舞とを習はされ、お蔭で弱いながらも無事成育を續けてゐた。

しかるに十四歳の三月、私は思ひもかけぬ猩紅熱(しょうこうねつ)を病んだ。傳染病のことだから桃山病院に收容される筈ではあつたが、父は、傳染防止の消毒設備さへ完備せしめたなら自宅療養も許されるだらうと、當時の桃山病院長增山正信博士と、所轄の西警察署長谷口武兵衛氏に相談して自宅内に遮斷隔離した私の病室を設け、全力を傾注して療養に當られたのであつた。或る時父は「斯の子にもしものことがあつたなら、儂はこの世に樂しみも望みもない。世を捨てゝ高野山へでも入る」とさへ述懷されたさうで、どんなに父が心配したかこの一語で判るのである。しかし一心籠めた看護のお蔭でさしもの大患が月餘を出でずに快癒した。谷口氏と父とは私の病氣が縁となつて其の後昵懇の間柄となり、父が月下氷人となつて社員中東京高工建築科出身の岸廉兒氏を、谷口家の女婿にお世話したのもそんな關係からであつた。

秀でた人間にならずとも健者で成人すればそれでよい。といふのが其の後の父の念願であつたらしく、健康上に種々と心を碎かれた結果、夙川の別墅(べっしょ)内に約一千坪の農園を設け、私をして二人の園丁を相手に農園の主人公たらしめたのである。その時分から父は「儂の仕事は儂一代で終つたとて殘り惜しいとは思はない。それよりかお前の體が何よりも大事だ。お前の體がよくなつてお前の氣にさへ向けば、農園の仕事をお前の一生の仕事としてもいゝよ」と屢々(しばしば)言つて居られた。實に私の出生以來、父は私の健康上に就て寢ても覺めても苦勞を續けられたもので、私は多少物心ついたその頃から父の廣大な愛を沁々と感じ初め、早く健康體となつて父の心配を除いて上げなければならないと、その後只管(ひたすら)農園の仕事に沒頭したのであつた。幸ひ土いぢりの農園の仕事は呑氣なもので、やつて見ると小さな種子が芽生えて可憐な花が咲き、又は甘味滴る果物が實るなどの興味も湧き、大自然に抱擁されたその生活が健康に惠まれない筈がなく、病ひぬけがしたといふやうに私は次第に健康を回復し、見る見る内に相當頑健な體軀の持主となつた。

夙川の私方の南隣に父の先輩で特に御別懇(べっこん)の間柄であつた岩下淸周翁が住つて居られ、日日健康に赴く私を眺めて父と共に喜んで下さつたのであつたが、一日父に對し「義雄君の健康はもう大丈夫のやうだ。あのまゝ一農園に燻らせるのは惜しい氣がしてならない。假りに農園の仕事に終始させるにしても、將來世に處する上に於て學問を等閑に付することはよろしくない。まして可愛いからといつて手許ばかりに置くのも考へものだ。可愛い子には旅させよといふ譬(たと)へさへある。この機會に東京へでも出して勉強させてやつたらどうか」と勸められた。この勸告は父にとつては、思ひもかけぬ晴天の霹靂とでも響いたのであらう、何事でも翁の説には常に心服してゐた父ではあるが、その時ばかりは目を圓くしてお斷りしたさうである。しかし翁の條理ある親身の勸説(かんせつ)がその後再三に及び、父は種々と心を碎いた末、遂に翁の勸めに從ふことに決意されたのであつた。

かくて私は明治四十一年十五歳の正月、前田又吉氏と共に上京して種々準備の末、その四月に岩下翁の令息が在學されてゐた曉星中學に入校し、同校の寄宿舍に生れて初めての規律正しい生活に入つたのである。寄宿舍生活は何んと言つても多少緩和された軍隊生活のやうなもので、自分のことは總て自分でやつて行くので相當な運動量もあり、食事なども在來と違つてお粗末ではあつたが、何時の間にかそれが山海の珍味にも勝る美味さを覺え、自分ながら呆れるほどひもじさを感じて何杯もの飯をかつ込んだものである。だから私は、當時日曜毎に東京の岩下邸を訪問して御馳走になるのを何よりの樂みとしたもので、私の健啖は父に似たものであらう、蕎麥のモリやカケなら十杯内外、握鮨と來ると六、七十を平らげ、岩下邸の臺所を相當に驚かしたものである。

その年の暑中休暇前であつたが、何かの用事で父が上京されたことがある。前日電報でその通知を受けたときは眠られないほど嬉しかつた。その時私は、學業に關することよりも寧ろ益々頑健に赴きつゝある自分の健康のさまを報告して、父を安心させたいとそればかりを思つてゐた。當日新橋驛に父を迎へて旅館に落ついてから、腕を撫してそれこの通りですよと自慢もし、特別註文の大皿に盛り上つた上等の握鮨六、七十をペロリと平らげて父を驚かした。歸るとき父は唯一と言「餘り暴食してはいけないよ」と私を戒められた。この言葉に千萬無量の慈愛が籠つてゐることを追想し、今にしてその有り難たさに胸せまるのである。

その翌年の夏休みと記憶してゐるが歸省して父に會うと、いきなり「馬鹿者め。友達を毆るといふことがあるか」とひどい權幕で叱られた。といふのは曉星寄宿舍の連中が、時に自分を「贅六(ざいろく)、贅六」と呼ぶので腹が立つてたまらず、遂にポカポカとやつてのけた其の事が學校から父に傳へられたので叱られたのである。私は男子としての面目上已むに已まれなかつたことを大いに辯解したが、父は靜に「儂も若い時東京に出た最初の頃、お前と同じやうに朋輩から贅六々々を貶されて腹を立てたことがある。贅六といふことは、利己主義の貪慾漢といふ意味なので、自分は大阪育ちではあるがさうした人間でないといふことが相手に判れば、そんな惡口は自然に消滅するものだと確信してゐたので、儂は馬耳東風平然として過ごしたのである。その後果して儂の性格も彼等に判明し、寧ろ彼等が儂を慕ふやうになつたときは、そんな惡口は聞きたくも聞かれなくなつた。萬事自分の行ひと時間が解決するものだ、如何に強くとも腕力で解決されるものではない。お坊ツちやん育ちのお前のことだから無理もないが、今後一層心を磨かないと人中に頭を擡(もた)げることは出來ないよ」と、實際の體驗を語りながら諄々(じゅんじゅん)と訓戒されたのであつた。

それから後四十四年の三月、帝都の玄關たる東京中央ステーシヨン工事の請負が大林組に決定し、當時僅に臺灣(たいわん)銀行や高田商會などの小さい煉瓦造の洋館が七、八棟ばかりしか存在してゐなかつたあの廣い丸ノ内の一隅に、我が邦第一とも稱せられる大建築物が巍然(ぎぜん)として而も父の手に依つて浮き出されることの痛快さは、今以て心の躍動を禁じ得ない記憶の一ツである。ましてそれが爲父の上京も其の後比較的繁くなり、その都度御馳走にもありつくし、時の移るのも知らないで親子水入らずの長話に耽つたこともあり、實に東京中央ステーシヨン工事中の約三ケ年間程は、私の東京修學時代に於ける肩身の廣さを感じた得意の時代であり、私に期せずして大きな活力を與へて呉れたことを感謝してゐる。

曉星中學を卒へた後、私は早稻田大學に學んだ。その間殆んど無病で押し通し、父に非常な安心を與へたことは私としての大きな幸福であつた。早稻田に入つてからは内幸町の東京支店に起臥してゐたが、父の給費に依つて修學中の學友が何時も三、四人同居してゐた。私等の身の廻り及炊事萬端は殿村社員の夫人おとめ小母さんが掌り、中々嚴格な小母さんで規則正しく私等を傅りして呉れた。殊に父はおとめ小母さんに、私と他の學生連中との差別待遇を嚴禁され、食事なども無論一樣のものであつた。かうした父の心遣りから東京修學時代は思ふ存分心身の鍛錬が出來たやうに思はれる。

その後私は何等の屈託もなく順調に修學を續けてゐたが、大正三年の四月頃、フト大阪の新聞に眼を注ぐと、北濱銀行の取付問題が掲載されてあり、既に二十一歳の靑年に達してゐた私は、大軌――大林――北濱銀行といふ連鎖關係を朧げながら或程度までは知つてゐたので、どんなに父や岩下翁が辛苦してゐられるだらうかと、思ひがこゝに至ると眠れない夜も度々あつた。その後間もなく岩下翁が遂に北濱銀行頭取を辭任されたといふ報を耳にし、得も言へない同情の感と淋しさに胸打たれたのであつた。その當時であつたらう、父より植村東京支店長を通じ「決して心配するに及ばぬ。翁の退陣も一時の成行きに過ぎない。父は今や奮鬪の最中であるが時を得ば必ず最後の勝利を占める。世の毀譽褒貶(きよほうへん)に左右されるやうな薄志弱行ではならぬ。お前は勉強が專一だ。」と細々言つて來てゐる。私も過去に於ける父の經歴に徴し、父はどんな難關でも突破するものと確く信じてゐたので、その後は虚心平氣に學にいそしむことが出來た。しかし其の後更に岩下翁の收監を知つたときは寂寥(せきりょう)の感と一抹の不安に驅られざるを得なかつたが、これ亦父の言を信じ、自戒以て心頭の平靜に努めたのであつた。

大正四年三月の學年休暇で歸省した際、父は突如病に臥したのであつたが、その時は餘り大患といふ程でもなく、父も私の勉學に就て心配をされてゐるので、私は後髮を引かれるやうな氣持であつたが學期始めに澁々上京した。その後に於ける母や、近親や、社員の人々からの書信は總て樂觀的のものばかりであつたので安心はしてゐたものゝ、餘りに病氣が長引くので多少の不安を萌し、最中休暇が待ち遠く思はれて歸心矢の如きものがあり、休暇に入ると倉皇として歸省した。宅に着くなり父の病室に驅け込んだのであつたが、玄關脇の室には近親や社員の二、三も見受け、病室には氷柱などが建てゝあり、母其の他醫師及三、四名の看護婦が詰めてゐて、淋しい中にも何んとなくざわめいた氣配が窺はれた。その時私は餘程の重體であることを直感し、父の枕許に坐るなり「お父さんどうしました」と言つたなり涙ぐんで次の言葉が出なかつた。父は私の顏を見るなり「義雄。心配するな。こんな大層なことをしないでもよいと思ふのだが、お醫者から安靜を強ひられてかうしてゐるのだ。直ぐ癒るよ」と笑みさへ湛へて如何にも元氣らしかつたが、後から考へると、四月以來私に病状を祕してゐたことも、今又苦痛の中に元氣を裝はれてゐられるのも、私に心配をさせまいとの親心であつたこと思にひ當るのである。

その夏休み中は一意看護に竭したが、病勢は依然として膠着状態を續けてゐるので、この時も亦父の勸めもあり、私は不安ながら學園に戻つた。その十一月末危篤の報に接して急遽歸宅したがその時、父は隨分長い間難病と鬪ひぬいて大悟徹底、遂に解脱の光明を認めたのであらう。或る日片岡直輝翁と渡邊千代三郞翁とを枕邊(ちんべん)に招かれ、死後に於ける遺孤の私を託されたのである。そして私には「父亡き後は兩翁を父とも賴り、その敎訓に背くなよ」と如何にも爽かに明瞭りと、安心の色を面に浮べて遺言されたのであつた。

越へて一月二十四日午後九時、父は靜かに眼を開き「義雄、今は何時か」と問はれたので私がこれに答へると、微に肯きつゝ眠るがやうに大往生を遂げられたのである。その「義雄」と呼ばれた最後の言葉、今も猶耳底に新しきものがあり、遺言と云ひ、最後の言葉と云ひ、死の間際まで私といふものが父の念頭を離れなかつたことが窺はれ、實に生れてから二十三年の長い歳月、最初から最後まで私は父の温い愛に浸りきつたのである。いや父の愛はそれどころでない。歿後、外は片岡翁、渡邊翁、今西翁等から、事業經營上の支援はもとより、私に對する阿呆薫陶に至るまで親身も及ばぬ鴻情を寄せられ、内は父の股肱(ここう)たる伊藤、白杉の兩氏其の他が、赤誠以て私を扶翼されたればこそ私の今日ある所以で、歸する處これ全く父の遺德の賜に外ならない。だから私は身體髮膚(しんたいはっぷ)を父母に受けたのみでなく、現在及將來まで有りと有らゆる總てのものを父より受けたと云つてよく、その無限大の父の愛に今更ながら感激措く能はざるものである。

父は私の育成に對し確に苦心もされ、それが父としての一大事業であつたには相違あるまいが、父の生涯の全事蹟から見るならば、それは單に一局部をなす小さな事實に過ぎない。父の歿後箕裘(ききゅう)を襲いで業務の衝に當つて見ると、赤手業を創めて克苦精勵よく社礎を固めたことも、まして渾沌たる請負界の搖籃(ようらん)時代に統を建て範を示されたことも、まざまざと私の眼に浮んで來る。其の他母や、近親や、先輩諸公等より幾多父在世中の物語を聞くに及んで初めて父の全貌を知ることが出來、愛に對する有り難いといふ感謝の念に輪をかけて、更にその業績と全風格に對して畏敬の念を新にしたのである。

父の衣鉢(えはつ)を承けて更にこれを子孫に傳へようとする私の立場から、この機會に於て特に現在及將來の我が社員諸君に御願ひしたいのは、若し本傳記を通覽してその思想の上に於て、出所進退の上に於て、性格又は德操の上に於て、幸に些少なりとも父の長所なり美點なりの掬す(きく)すべきものがあるならば、所謂「爾の祖を念ふなからんや、その德を聿べ脩む」で私が父をしのぶことの切なるものがあるやうに、我が社の始祖たる父の遺德に矜式するところあつて自らを脩め、祖業をして倍々隆昌たらしめられんことの一事である。

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