大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

二 故人の父

故人の父德七氏

大林家は、前にも述べた通り、故人の父德七氏の時、代々大和屋と稱した林家より分かれて一家を創め、「林」の上に大和屋の「大」を冠して「大林」を姓としたものである。即ち德七氏が大林家の始祖で、故人はその二代を嗣ぎ、現社長義雄氏はその三代である。

分家してからの德七氏は、家號を「大德」と稱へ、兄德助氏と同じく靱永代濱の邊に專ら鹽(しお)と北海産の干鰯の問屋を剏(はじ)めた。素より父祖の薫陶に育て上げられた腕に覺えの營業ゆへ業務も相當に發展し、且つ北海産の目利きとしては當時得難き重寳人であつたので、傍ら海産物小賣店の世話役として尊敬せられてゐた。

靱の名

靱の地は、大阪城建設以來の古い歴史があり、曾て豊太閤巡行の際、市場に於ての“ヤスイ”、“ヤスイ”との賣り聲を聞かれ、『矢洲とは靱なるべし』と言はれたことからその邊の地名を靱と呼ばれるに至つたさうで、主として鹽、鹽物、干物等の集散市場であつた。魚類に對して今日の氷詰のやうな防腐方法が行はれてゐなかつた時代だから、鹽物又は干物の類が非常に多かつたもので、「うまいのも又からいのも新九郞鹽物だなはうつぼなりけり」などの落首もある。舟楫(しゅうしゅう)を唯一の交通機關とした當時にあつては、夏より秋にかけ、中國、四國、九州、北海、北陸等の各方面から、貨物を滿載した幾百艘とも知れない船舶の群が天保山からこの堀割に漕ぎ寄せ、揚荷と荷勘定を濟ました後、一、二ケ月船の虫干を行ひ、その逗留(とうりゅう)期間中に更に大阪より呉服、小間物、諸道具、雜貨、食料品等を仕入れて歸つて行くのを常とした。

大阪文化の紹介者

かくして大阪の文化はこれ等の船舶を介して全國的に擴がつたのである。大阪落城以來政治の中心が江戸に移つた後でも、慘たる彼の鎌倉のやうな轍も踏まず、商業の中樞地として富の大阪を造り上げたことはこの靱物語によつても肯かれ、靱土着の田中、金澤、志方の諸家などは海産物業者として堂々たる店舖を張つてゐたものである。

德七氏の性行

德七氏は資性温厚篤實、頗(すこぶ)る謙讓の德に富んだ綿密周到の人であつて、隨分激しい商賣の行はれる靱市場に於て曾て他人と口論したことなど一回もなく、靱の長者金澤仁兵衛氏(故代議士金澤仁作氏の本家)などは德七氏を絶對に信任し、『大德は當世稀に見る人格者だ。あの人に差配させて置けば決して間違ひはない』と常に推賞已まざるものがあつた。

明治初年の靱は、無論維新前に於けるが如き殷賑(いんしん)を望むことは出來なかつたにせよ、未だ陸上交通機關の整備せざる時代であつたから、猶相當な命脈は保たれてゐたが、彼の大阪全市を襲つて來た藏屋敷撤去―藩債の回收不能―株仲間の解散―銀目廢止―手形の效力失墜―兩替屋富豪の倒産等の大暴風は靱市場にも相當な打撃を與へ、この間に處しての德七氏の辛苦は思ひ半ばに過ぎるものがあつたのである。

德七氏の死

しかも流石に一家の創始者だけあつて、餘り惠れてゐない分家の身で自己一代に相應の産を築き、十三間間口の問屋たる權威を墜(おと)さなかつたが、明治六年の春病を得、同年十月六日終に六十四歳で歿(な)くなつたのである。

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