大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

一 待機 二十六歳

大阪の衰頽

明治十六、七年頃が大阪衰頽の頂點であつた。このまゝ推移せば滅亡の外はなかつた。進むか、退くか、興亡の岐路に立つたのである。故に何等かの良策によつて更生の途を開かなければならなかつた。幸ひ工業大阪を主唱した河島醇氏の卓見が導火線となつて、十數年の長夢が破られ、工業大阪への轉向となつたのである。しからば何故にかゝる長年月に彌(わた)つて大阪は苦しんだか、かい摘んでこれを擧げると、

(一)久しい歳月の下に築き上げた商習慣を一朝にして放擲(ほうてき)しなければならない窮地に陷つた。その苦痛は餘程深刻であつたと見え、明治十五、六年頃まで相當權威のあつた商業機關でさへ、株仲間及舊(きゅう)手形制度の復活が大阪救濟の唯一の方法なり、などと眞面目に發表してゐた。

(二)大阪は舊文化に浴することが多かつただけに、自負心が強烈で、新文化に染むことが遲かつた。故に株式又は合資の如き合同資本の意義を解するにも長い時間を要した。

(三)王政復古と共に統一された強力な政府が生れ、これに依倚(いい)しなければ事業の達成が容易でなかつたのに、大阪に於ては、舊幕時代に比較的自由の天地が闢かれてあつた關係上、それが習性となつて自主的思想に富み、政府に依倚するやうな考が少なかつた。たとへ依倚するにしても地勢上東京等に比し甚だ不利であつた。

(四)天保以前の古い藩債に對する棒引あと、その後の分に對する償還の方法が緩慢極まる二十五ケ年乃至五十ケ年の年賦公債によるといふ新政府の決定が、一時大阪の富豪大賈(たいこ)を相當苦しめたもので、その結果は大阪商人の意氣を極端に沮喪(そそう)せしめ、又多少殘存せる富を維持する爲には、進んで亡ぶより退いて一家を護るに如かずとの消極的保守思想に囚はれ、遂に工業大阪へなどの新生面を開く積極方針を失はしめるに至つた。

(五)交通機關の變革と發達によつて商業都市が各地に勃興し、大阪の既得利權が頓(とみ)に侵略された。

(六)大阪港の不完全は新出現の大船を入れることが出來ず、對外貿易は殆ど神戸に奪はれた。

(七)新時代を形成する基礎となるべき學問の府が東京に集中せられ、大阪は殆ど空虚であつた。

等が主なるものであらう。

大阪の更生

故に十數年の間苦しむ者は苦しみ、亡ぶ者は亡び、去る者は去り、總べての淸算が濟んで新生命の發芽したのは明治十八、九年の頃で、その後二十五、六年頃までは加速度的に新事業が勃興し、大阪としての面目が一新されたのもこの時であつた。就中(なかんずく)大阪工業の特色たる紡績工場(天滿、浪華、平野、大阪織布、大阪撚糸、金巾製織、今宮、天滿織物、攝津、福島、野田、明治、日本、朝日、大阪細糸等)の新設その他莫大小、刷子、製紙、機械、造船工場等の出現は特に目覺しいものがあつた。

關西の請負界

故人は大阪の受難期に於て修業を積み、勃興期に於て馬を陣頭に進めたのであるから、雲龍蒸變の好機を摑んだのであつた。殊に關西に於ける當時の請負界は頗(すこぶ)る幼稚なものであつて、大工職が棟梁を獨占せる木造建築時代の舊觀を脱しなかつたのである。それもその筈で當時世の要求した工築物は極めて小規模且つ通俗的のもので、如何に木造とはいへ彼の聚樂の第、桃山城、桂離宮、東照宮の如き天下に誇る特殊建物は數百年間殆ど影を潜め大きな建物といつても建築上左程價値のない普通一般の社殿又は佛閣等に止まり、他は殆ど一個人の店舖或は住宅等に限られてゐて、時代の要求がさうした小規模且つ通俗的のものゝみであつたから、請負業者といつても自然微々たる大工の棟梁程度に過ぎなかつたのは盖し已むを得なかつたのである。ましてや新時代のコンクリート、石造、煉瓦造等の新工法を辨(わきま)へた綜合的技術者たる請負業者は皆無といつてよく、土木に、建築に幾多新工法を修練會得した故人の如きは、今より見れば未だ以て幼稚の域を脱しなかつたにしても、當時としては業界の明星又は新人たるを失はなかつたのである。恰もよし、次第に大規模の新建築を要求する新時代からするならば、故人は世の要求につれた誂(あつら)へ向きの適材で、故人も亦縱橫にその手腕を揮ふべき時運に際會したのであつたが、人間萬事意の如くならず、孔子のやうな大聖賢でさへ適く所を失つて喪家の狗のやうだと誚(せめ)られたことさへあるのだから、周圍の人々から『呉服屋さんが四、五年東京に行つて來たとて工場などが建てられるものか』といふ疑惑を以て迎へられたのも無理はなく、一般常識からしても、齡未だ二十五、六歳の故人に對してさうした觀方の下されたのも或は當然であつたかも知れない。しかし蛟龍は長く池中のものではない。何れの日にかこれ等周圍の皮相的觀察は雲散霧消せずにはゐられない。

髀肉の嘆

故人は髀肉の嘆に堪へぬものがあつたが、急がず、噪がず、滿を持して放たず、靜に形勢を觀望してゐた。雞(けい)を裂くに牛刀を用ひるやうなものであつたが、たゞ二、三親近より依賴された小請負又は下請負等に甘んじ、幾多宿弊の存する當時の請負界に超然として淸き精進を續け、窃かに心膽(しんたん)を練りつゝ時機の到來を待つたのである。

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