十 第五回内國勸業博覽會工事 三十八歳―四十歳 4 師の恩
砂崎翁
明治二十五年の旗揚以來、故人は駸々(しんしん)として伸び行く業務の發展を見るにつけ、これ皆恩師砂崎翁の賜なりとて深くその鴻恩を謝してゐたが、日夜の奮鬪は上京の機會に惠まれず、懷しい恩師の温容に接しないこと數年に及んだ。恰もよし三十六年の四月、古今に絶する絢爛たる大豪華版の博覽會が大阪に開かれた。ましてや入札時に於ける師の恩愛を思ふ時、師父を招請せんとする念が燃え立つて、翁の下阪を翹望(ぎょうぼう)して已まなかつた。翁も亦愛弟子の成功を祝せんものと快よく下阪を約され、櫻咲くその月の央頃大阪の人となられた。故人の喜は譬(たと)ふるに物なく、一家を擧げて歡待の限りを盡した。歡迎の宴には砂崎翁を正座に請じ、一家、一族、主なる店員を合せて五十名ばかりが席に列り、殊に目だつたのは、女將、藝妓、仲居など三十名ばかりに大林家の定紋を染めぬいた新調の紋服を着けさせたことで、それは多少華美の觀が無いでもないが、唯一人在世の恩師に對する眞情を露骨に發表した苦心の跡といつてよい。
涙の挨拶
席定つて後故人は『自分が初めて東上した時は仕事にかけては東西も判らぬ赤兒同樣の者であつたのに、快よく自分を拾ひ上げられて親も及ばぬ慈愛と薫陶を垂れられたその鴻恩は、何時の世までも忘れることは出來ない。自分は幼い時父を喪ひ、十年前また母を喪つた。思慕已まず、無量の寂しさを感じてゐるが、こゝに唯一人父とも仰ぐ砂崎翁が居られるのでどれだけ心強いか知れない。どうか長く長く御健康であつてほしい。自分も思ふ存分の孝養を盡して見たい。この席に列る一族郞黨(ろうとう)もよく自分の意を體し、今後自分の父はこの砂崎翁であると記憶し、自分同樣敬意と眞心を捧げて貰ひたい』との意を述べ、言々句々、眞に肺腑から出て、中途その父母を偲ぶ時など、暗然として聲を呑み、言葉され切れ切れであつた。十歳にして父を喪つた故人、それほどに父が欲しいのかとその切なる心情を掬(すく)む時、並ゐる者は悉(ことごと)く泣かされた。そして師に報ゆる情の濃かやなのを見ていたく感に打たれたのである。
書畫の會
砂崎翁は書畫が堪能で、これに非常な興味を有つてゐた。故人は豫(かね)てからこのことを知つてゐたので、畫家の某氏を特に依賴して接待の衝に當らせた。
當時ふさ子孃と義雄氏とは書家鐵山氏に就て書を學んでゐた時のことなので、期せずして書畫の會が催され、翁は得意の四君子など雄渾(ゆうこん)の筆を揮はれ、十一歳のふさ子孃、九歳の義雄氏が自分の手ほどもある大きな筆を執つて唐紙一枚に二字ほどの大書を縱橫に揮つた時は、流石の砂崎翁も手を拍(う)つて讃嘆されたのであつて實にその一日は盡せぬ興の淸遊であつた。
船遊山
又或る日は翁の爲に淀川に船を浮べて鯉つかみに興じたこともある。漁夫が水中に潜つて大きな鯉を捕獲し來り、直ちに料理に供するのであつて、當時專ら行はれた船遊山の一つであつた。
數ある歡待の内以上三つのものは、今以て翁亡き後の砂崎家に於て、翁が初の大阪行の土産話として語り殘されてゐる。