大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十一 舊主(きゅうしゅ)麴屋又兵衛氏の死 四十歳

故人は、十九歳の秋麴屋呉服店を辭し、更に請負業に身を轉じてから、明治二十三年九月五日の新町燒に至る八ケ年の間は、杳(よう)として舊主家麴屋への音信を斷つてゐた。十一歳より十九歳までの長い歳月に亙(わた)つて舊主又兵衛氏夫妻より受けた慈み、しかも養子にもと請はれたその恩愛に對し、故人は、その性格からしても、これを忘れるほどの沒義漢ではなかつた。寧ろその慈愛が骨身に滲み込んでゐたればこそ、主の期待を裏切つたといふことに對して『濟まなんだ』といふ痛切の遠慮があつたからである。

舊主の曲解

勿論故人としては、請負業への轉業は俯仰天地に愧ぢないといふ確信を有つてゐたものゝ、當時一般社會の状勢は、未だ職業に對する舊套(きゅうとう)の差別觀を脱せず、請負業としいへば一概に「土方」といふやうな觀察の下に社會の最下層のものとしてゐた關係もあり、成功の曉までは舊主に見えないといふ堅い決心の下に、心ならずも音信を斷つてゐたのである。又麴屋主人にしても、故人を目し『かくまで世話して育てたのに請負業に轉業するとは餘りに物好きな男だ。恩知らずにもほどがある』と思ひ詰めて居られたやうで、故人が大阪に歸つてゐることを薄々聞き知つた時など、故人と舊知(きゅうち)の仲の店員等に對し、故人との接觸を禁ずる旨の内命さへ傳へたといふことである。しかるに驚くべしだ。

七日の精進

明治十九年六月、又兵衛氏妻女ヤエ子夫人死去の時、母堂美喜子刀自(とじ)はこれを上京修業中の故人に知らせたのであつたが、故人は哀愁の情濃かな書を母堂に寄せ遙かに西天を拜して七日間の精進を行つたのであつた。まして大阪歸還後麴屋の菩提寺たる下寺町の大連寺に詣で、人知れず故ヤエ子夫人の墓前にその冥福を祈つたこと一再でなかつた。數年の後この美しい故人の眞心が寺男によつて又兵衛氏に傳へられたといふことである。

新町燒

明治二十三年九月五日午前三時四十分、新町通一丁目より出火し、午後五時十分に至るまで燃え續け、一千八百九十餘戸を灰燼(かいじん)に歸せしめた新町燒と稱する大火があつた。曉の夢を破る警鐘に跳ね起きた故人は、直ちに部下の若者十名ばかりを召集して萬一の場合に備へた火勢は次第に猛威を逞うし、麴屋附近は刻々危險に晒らされて來る。この時故人は彼等若者を率ひて驀地(まっしぐら)に麴屋に驅け込み、挨拶を交はす暇もなく、店頭の賣品はいふも更なり、鍋、釜、鉢、果ては銅の軒樋までも外して順序よく倉庫に積み込み、完全な目塗を施して引揚げたのであつて、その疾きこと風の如く、丁稚連中などはたゞ呆然たるばかりであつた。

涙の對面

故人は倉庫の目塗も終つて張りつめた氣の緩んだ際漸く舊主又兵衛氏の姿に氣づき、懷しさの餘りオヽとばかりに驅け寄つて、たゞ伏して泣くばかり、挨拶の言葉さへ出なかつたさうである。かくして麴屋は幸に動産一切の火難を免れたのであつたが、當時大きな空地であつた警察署前に荷物を運び込んで全部燒失の憂き目を見た氣の毒な人もあつた。

その後又兵衛氏は、飜然(はんぜん)として『人は世話して置かねばならぬものだ』といたく故人を推賞し、故人を觀る眼が著しく變化したのであつたが、未だ大成の域に達してゐない故人は、深く思ふところあつて、その後も依然麴屋の敷居を跨ぐことを遠慮し、たゞ單に中元歳暮の禮を行ふ程度に過ぎなかつた。

伊助氏と邂逅

月日のたつは早いもの、新町燒から十年を經過した明治三十三年の五月藤の花咲く頃、故人が野田の藤の棚に散策の折、これ亦同じく散策の麴屋の一番頭立花伊助氏とピツタリ邂逅した。ヤアと互に久闊を舒した後、故人は早速伊助氏を靱の自宅に誘なひ、その日は積る話に夜を更かし、共に樂しい一日を送つた。伊助氏は、その時故人に對し、『正直なところ、新町燒の時までは主人にしても、我々にしても、貴君に對する感じは甚だよくなかつた。しかしその後は掌を反すやうに主人も我々も貴君に對する同情者となつて、蔭ながら貴君の成功を祈つてゐた。幸ひ貴君は商賣倍々繁昌で、築港工事のやうな大工事までも請負つて、押しも押されもせぬ大阪きつての大請負業者になられた。まして一般請負師と異つた貴君の德望を耳にし、主人首(はじ)め皆の者が心から歡んでゐる。餘りの遠慮は却つて主人に對する忠誠の道ではあるまい。殊に主人は早や六十三歳の老境に達し、先年奧さんを喪つて以來寂しく暮されてゐる。私が仲介の勞をとるから明日でもよい、速く主人に會つて老後を慰めて上げなさい』と、眞心罩(こ)めた忠言をした。

二十年振りの會談

人一倍義に強い故人のこととて感慨極まりなく、早速その翌日伊助氏に伴なはれて舊主を訪(とぶら)ひ、泣いて疎遠の罪を謝したのである。又兵衛氏はまたとなく喜ばれ、それ酒よ肴よと歡待終日にわたり、別けて故人の成功をこの上なく祝されたのであつた。

明くれば明治三十四年の一月元旦、故人は恒例によつて麴屋その他に年賀の廻禮を濟まし午後は自宅で社員の年賀を受け、御代泰平の新年を祝つてゐた。そこへ思ひがけなくも麴屋又兵衛氏が自身で年始の駕(が)を抂(ま)げられたのである。玄關子は見馴れぬ老人のことゝて執拗く姓名を問ひなどしてこれを奧の故人に通じた。故人は喫驚して玄關に走り出て、恐縮して再三休憩を懇請したが、又兵衛氏は急ぎとあつて玄關先に佇立(ちょりつ)したまゝ既に年頭の辭を述べられようとする、故人は益驚いた。玄關とはいへ舊主に對して上座よりの挨拶は失禮に當る。

足袋跣走で下座

氣づいて敷石を見たが生憎履物が無かつた。やにはに故人は足袋跣足(はだし)のまゝ土間に飛び下り、改めて年頭の辭を交はしたのであつた。その光景を窺ひ見て更に驚いたのは玄關子を首め店の社員達であつた。後、故人の舊主たるを聞くに及んでその謎は解けたが、故人の主に對する儀禮がかくまでに厚きかと、自分等の身に比べて感歎これを久ふした。又兵衛氏も歸宅後伊助氏その他の店員を集め、その時の有樣を物語つて、故人の至誠を賞揚されたさうである。

永訣の嘆

その後故人は父や母に事ふる如く、折にふれては舊主を訪ねてゐたが、又兵衛氏は明治三十六年四月三日、遂に六十七歳を一期として長逝された。その訃に接して驅けつけた故人は、『何んの御恩返しもせず、誠に殘念だ』と聲を放つて永訣を嘆いたのであつた。その時の故人は、既に第五回内國勸業博覽會の工事も終了を告げ、名實共に關西請負業界の覇者であつただけに、麴屋一統の縁者近親の故人に對する信任は特に深く、今猶矍鑠(かくしゃく)たる伊助氏未亡人は『あの時大林さんが棺側に控えてゐられるので、皆の方はどれ程氣強く賴もしく感じられたかわかりません』と言つて居られる。

晩年の麴屋又兵衛氏
晩年の麴屋又兵衛氏

又兵衛氏の爲人(ひととなり)

又兵衛氏は、大和柳生庄の由緖ある家に生れ、故あつて本家麴屋に入つて番頭をして居られたが、遂に非凡の人材を認められ、婿養子となつて分家した人である。資性温和謹直、よく事理に通じ、近所界隈に於て「堅い人」としての標本であつた。今に猶附近の長老が『又兵衛さんにお會いすると知らず知らず襟を正さなければならぬやうになつて來る。門口などで輕く、お早よう、といつてよい場合でも、お早よう御座います、と叮嚀(ていねい)にお辭儀をされるから、こちらも遂ひ、お早よう御座います、とお辭儀をしなければならなくなつて來る。お酒は隨分お好きであつたが、膝を崩したことを見たことがないほど謹嚴眞面目な人で、何處となく犯すべからざる威風の備つた方でした』と賞讃されてゐる。かうした點から考へると、故人が丁稚奉公の八年間、どんなに又兵衛氏の薫陶を受けたかゞ察せられる。良妻賢母でしかも女丈夫であつた母堂美喜子刀自、眞摯、謙讓、謹嚴であつた麴屋又兵衛氏、豪快、明敏にして高潔な紳士であつた砂崎庄次郞氏と、故人の修養時代に於ける薫育(くんいく)系統を辿つて見ると、物質的環境にこそ惠まれなかつたが、精神的環境に至つては世にも稀なほど幸福な運命に置かれてゐた。故人が他日大を成すに至つた精神力は、無論故人の先天的美質によつたことを無視することは出來ないが、この三者によつて年次的に堆積されて行つた洗練琢磨の第二品性に俟つものが甚だ多かつたことを認めざるを得ない。實に故人はよき一人の母と、よき二人の師を有つたものである。

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