大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十 財界變調時の突破と故人の富

日淸戰役後といひ、日露戰役後といひ、近くは歐洲大戰後といひ、この三時期共躍進日本の當然の歸趨として企業熱は頗(すこぶ)る旺盛を極めたものである。投機氣分、一攫萬金氣分、功名乘取氣分、濡手で粟氣分といふやうな輕佻浮薄の副産物までが、その企業熱を驅つて現はれたのである。

成金の語

日露戰後も亦しかりで、「成金」の新熟語が出來たのもその時である。旦に千金を投じ夕に巨萬の富を得た者も數限りなかつた。滿鐵の株式募集に對し、申込はその千七十倍に達し、一株五圓の申込證據(しょうこ)金の領收證が四十圓で賣買されたといふから驚かされる。その他は推して知るべしで、北濱銀行なども四十年一月の株主總會に於て、資本金三百萬圓を一躍一千萬圓に增資の決議を見たのも、要するに四圍(しい)の浮調子がかくさせたのであつて、岩下翁の難がこんな所から醞釀(うんじょう)しようとは神ならぬ身の知るよしもなかつた。

四十年のパニツク

財界は風船球のやうなもので膨れきつたら破れるのが當然。四十年二月急轉直下大反動が襲來し、增資に對する拂込は棄權或は拒絶といつた有樣、この問題には岩下翁も相當惱まれたもので、大阪電氣軌道なども同樣、四十年四月に設立認可を得ながら四十四年六月まで工事に着手し得なかつたのも、この反動が因をなして株式の拂込が完了しなかつた結果に外ならない。株式界なども一月に於ける高値百七十三圓の南海鐵道株が二月には七十五圓に、三百二十圓の阪神電鐵株が八十一圓に、三百三十二圓の鐘紡株が八十五圓に、百七十七圓の大阪紡績株が七十一圓に下るといふ慘落ぶりで、その他事業の解散、計畫の中止、銀行商舖の破綻等相踵ぐ状態であつて、その慘状は、日淸戰後の明治三十四年の反動期よりも總べての輪廓が大きくなつてゐた時代だけに、大なるものがあつたのである。

餘裕綽々(しゃくしゃく)

曾て明治三十四年の反動期には故人は遁世をさへ覺悟したのであつたが、這回の反動期にはどうであつたか、無論好況時の如くでないにしても、基礎益堅く、餘裕綽々として愈伸展に拍車をかけて行つたことは驚歎に價するものがあつた。これ全く戰後經營の軍備擴張による賜で、明治四十年中の請負總額が四百七十萬圓、同四十一年中の新請負總額が四百五萬圓に達したことはその伸展を最も雄辯に物語つてゐる。その他數年間に故人中心の廣島瓦斯、同電氣軌道、阪堺電車の外日本製樽、大阪電氣軌道、電氣信託、日本興業等隨分と手を擴げたもので、即ち手を擴げ得られるだけの餘裕ある素地が出來たのである。

北銀と大林組との金融關係

明治四十年前後に於ける北濱銀行と大林組との金融關係は、大林組は同銀行より公債七八十萬圓の融通を受けてゐたが、四十一年末には四十萬圓の當座殘を示し、爾後四十四年六月生駒隧道工事請負に至るまでは、次第にその預金額を高めて遂に百萬圓に達したこともあつた。多分四十年頃と想像されるが、岩下翁の傳記中に商業興信所長阿部直躬氏の談として下の項が載つてゐるので、參考の爲拔録(ぬきどり)することにした。

百萬の産

商業興信所長 阿部直躬氏談

大林芳五郞氏の人物を見込んで、北銀では一時相當の融通を與へてゐたやうに聞いてゐる。故に大林氏も恩返しの爲に大日本醤油會社の件でも相當の義理立をなし、岩下翁が代議士候補として打つて出た時などは、一生懸命家業を抛(なげう)つて選擧に奔走し、その他岩下翁のことゝいへば水火の中へでも飛び込むといふふうだつた。大軌トンネルの如き、二人が凭れ合つたから初めて出來たのである。

翁は曾て大林氏についてこんな話をしたことがある。『大林は餘程變つた男だ。元日の朝早くやつて來たから迎へたところ、羽織袴で威儀を正してゐるぢやないか。正月にしてもこれはまた餘りの改まり方だと不思議に思つてゐると、今日はお禮の爲に一番早く參りました。お蔭で百萬圓の身代が出來ましたから、といつて懷中からバランスシートを出して恭しくそれを僕に見せるんだよ。あの人の義理堅いのを僕が見拔いて一臂(いっぴ)の力を添へたまでなのに、かういふ風に大林君に感謝せられたのには僕も弱つたよ』云々

資産將に三百萬

阿部氏の談話では、當時百萬圓の財が出來たと言つてゐられるが、東に東京大ステーシヨン、西に生駒隧道の大工事施工當時に於ては、優に三百萬圓以上の富を築いてゐたことは事實で、第五回内國勸業博覽會工事後の基礎確立當時の富に比べるなら實に六、七倍に達し、その伸び行く樣は物凄いほどであつた。曾て古河市兵衛氏は、その小野組の番頭時代と養子として古河家に入つた頃は、とりわけよく財を散じもしたがよく儲けもしたさうで、同氏の金儲け哲學は『よく散ずる者はよく儲ける者だ』といふ積極主義であつて、遂に彼の大を成すに至つたのである。

活きた金

古河氏と故人とはこの點一脈相通ずるものがあり、故人も亦破天荒の散財もし又思ひ切つた損もした。これは故人が常に言つてゐた「捨石」であつて、皆活きた金である。江湖(こうこ)の絶大な信用と眷顧(けんこ)とを博し得たのもその進取的積極策に因ることが甚だ多い。而してその卓犖不覊(たくらくふき)の反面、業務に對しては纎細周緻を極め、一本の釘、一枚の板にさへ心を注ぎ、彼の無駄排除とか、能率增進とか、科學的管理法とか、産業の合理化とか、種々な用語で現はされる現代的經營法の實際は、既に三十年前故人の手によつて行なはれつゝあつたことを見遁すことが出來ない。

現代式經營法

如何にせば營業費の節約が出來るか、如何にせば材料の安價購買が出來るか、如何にせば材料使用上の無駄が省けるか、如何にせば職工の統制が執れるか、如何にせば勞働の能率化が出來るか等、隨時故人の明晳な頭腦から適切な具體策が捻出され、他が十圓を要するものは八圓に、他が十日を要する工程は八日にといふやうに極力生産費や工程の合理的短縮を計つたもので、當時總べてが粗笨散漫(そほんさんまん)に出來上つてゐた時代に於て、自然的偶然とはいひながら理論づけられた現代の科學的經營法にピツタリ合つた試みを採つたことは、餘程達識の士でなければ出來ない業であり、この時代のかうした試みは無論豫想外の利潤を齎らし、他同業者に倍加する、しかも正當な利益を擧げ得たのであつて、短期間に啞然として舌を卷く富を造つたのも、巍然(ぎぜん)として業界に頭角を擡げたのも、洗つて見れば不思議でも驚異的でもないのである。ましてや故人の奮鬪力の旺盛さは活火山の熄(や)むときがないやうに働いて働き拔くのだから讃歎に價する。こゝに於て故人の成功が世の所謂成金者流と根本的にその趣を異にすることを明確に認識し得るのである。

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