大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

一諾千金

岩下淸周翁訪問の記

編者の一人は、去る初夏の一日、岩下淸周翁を不二農園に訪れた、裾野驛で下車、人俥を傭ふて、滾々(こんこん)たる玉の流に沿ふて野道を半里ばかり行くと、俄に狹くなつた山路にさしかゝつた。農園の入口に近くなつたのである。

翁の住ひはそこから十町ばかりの山中で、小高い丘と丘との峽にあり、翁は丁度來訪の松村敏夫氏と圍碁中であつたが、『一寸待つて下さいよ、今に勝負をつけるから』と急いでけりをつけ、『風呂に入つたらどうだ。汗を一つ流して來たまへ』と打とけた調子で、自ら湯殿へ案内されたりした。 室に復ると又來客が待つてゐる。森永製菓の支配人だ。『君、森永といふのも大きくなつたよ。今聞くと千萬圓の商賣人になつた。芝の微々たるパン屋さんがそんなに大きくなつたのだ。實に愉快ではないか』森永氏も亦岩下翁の俠助によつて今日の成功をなした一人であるが、翁の蹉跌後も相變(かわ)らず訪問されて事業の報告をなし、翁の援助に對して感謝の辭を捧げて居られた。翁の扶植した苗木が、彼方此方に、慈雨の惠みに育ち行くのも少くなかつた。

『大林組も益盛大になつてよいな。僕はこゝに來てから全く社會のことから離れてゐるが、皆が來て親切にしてくれるので喜んでゐる。大林君は義の堅い男で一諾千金の概があつた。僕は決して人に恩を施したなどとは考へてゐないが、相當人の爲に盡して來たことは事實だ。この事それ自身から直接利益を得ようなどとは毛頭考へたことはないが一旦自分が信じてこれは世の爲になると思ふことには、それに金が要るといふ場合には融通もした。その人も成功し、國家の爲にもなる。その一擧兩得(いっきょりょうとく)の爲には決して躊躇しなかつた。しかし今日かういふことをいふのは一種の愚痴ぢやね』 『北銀破綻後、僕が毀譽褒貶(きよほうへん)の世評紛々たる中に「問題の人」となつた時、常に心から誠意を盡し、自己の財産を惜し氣もなく投げ出した大林君の任俠的な遣り方には全く感服した。それが、他人から強ひられたとか、是非さうしなければならないとか、周圍の事情が已むなくそれを爲さしめたといふのではなく、自發的に、岩下が氣の毒だ、救はねばならぬといふ精神が一擧手一投足の間にも見えてゐた。僕はその精神だけで滿足した。僕と大林君との交りは決して淺いものではない。しかし、それは大林君の常に土木建築業を以て國家社會に奉仕するといふ志そのものが僕を動かしたのである。それから相當年月の間、その爲人(ひととなり)に接し、彼の爲し來つた行跡を檢討して、一點輕佻浮薄なところがないので、僕は窃かにこの人こそ刎頸(ふんけい)の友たるに足ると思つた。僕の失敗は僕の不德、不明の致すところだが、これに連繫して大林君が被つた打撃も決して少くなかつた。これに對し、一言未練がましい辯解もせず、全財産を提供して、また元の一つに成つてさつぱりした、と人に語つてゐたことを聞いた時、僕はこれこそ眞の男兒だ、と思はず泣かされた。大林君と僕との事實上の關係は今くどくどと言ふまでもなく知る人は知つてゐる。たゞ思つてゐることを參考までにいふだけだ』 『もうお歸りか、夕飯を一緖にやらう。僕が自慢のトマトを一ツやつて行つてくれ』

と奧樣手料理の半洋半和の食卓に、又しばし翁と宗敎談を交換し、山で摘んで貰つた百合の一束を肩に、翁と門前に別れを告げて下山した。將に暮れなんとする富嶽は夕日をうけて輝く金扇のごと、それもやがて薄墨色となつて行つた。

駱駝(らくだ)のシヤツ

今西與三郞

故人には、私の先代以來、特別の交誼を受けて居りました。啻(ただ)に事業上のみでなく、私交上にも、何事に寄らず打解け合ふた深い關係で、私共は隨分と御厄介になつたものです。

私が今西家に入家することは、山下龜三郞氏によつて進められたのであるが、その媒酌は故人にお願することになつて居りましたので、大正三年春、夙川のお宅で山下氏と共に初めてお目にかゝりました。事業の上から判斷して、非常に嚴格な、氣難かしい人とのみ思つてゐましたが、お會して見ると、實際は情味豐かな優しい中に儼として犯すべからざるものがあり、自ら深い印象を受けました。その後何くれとなく終始温情のこもつたお世話になつたことは、誠に感激の至りに堪えませぬ。私が一年半歐米を廻つて歸朝しました時には御病氣中でしたので、早速お見舞を兼ね御挨拶に參りました處、病室に引見されて、『おゝ無事に歸られたか』と我が子が歸朝したかのやうに心から喜んで頂いたのでありましたが、これぞ不起の大疾患であつて、爲に私の媒酌も故人を煩はすことが出來ず、商船に勤めてゐた關係から堀啓次郞氏にお願致しました次第で、往時を追懷(ついかい)して感慨無量であります。

事業の上から考へれば、隨分荒々しくもあり、又多くの從業員を使つて行かれるので相當威嚴を示す必要も想像されますが、私交上に於てはその想像と正反對で、温厚篤實、その應對振りは春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)の感があり、實に柔かな優しい人格の持主でありました。かやうなわけで私としては、故人の風丯(ふうぼう)に接したのは僅か六、七回に過ぎないのに、今日なほ大林家を訪づれる毎に父の家に歸るが如き懷かしい感じを抱きますことは、全く故人の人格の餘映に外ならぬものと信じて居ります。

世話好きで、世話をしかけたら飽くまで面倒を見るといつた任俠的な太ツ腹の點は普通人の學んで容易に得られぬところであります。私は洋行の際餞別として駱駝のシヤツを貰ひましたが、その當時駱駝のシヤツなどは餘程の人でなければ身に着けなかつたもので、大學を出て三年そこそこの未だ書生の域を脱し得ない私には、かういふ値高い贈物を得たのは生れて初めてゞあり、實に望外の喜びだつたのでありました。これを以てしても、その温情が通り一邊のものでなかつたことを知り得るのであります。

現社長及白杉氏を通じて觀た故人の明

飯田精一

裸一貫より身を起し、遂に大阪財界に勇飛した當年の風雲兒、故大林芳五郞氏は、その人物が偉大であつただけに一生を飾る逸話も少くあるまい。定めし机上堆きものがあるだらう。且つその語り草は、直接故人を讃えたものが多いことゝ思ふ。よつて私は全然方面を替へ、現社長の義雄氏及大林組の大黑柱たる白杉氏を通じて故人の俤(おもかげ)の一端を偲ぶことゝした。即ち下記二項を選んだ所以である。

斯父にして斯兒あり

現社長の義雄さんの幼時は、蒲柳(ほりゅう)の質で兎角健康勝れず、隨(したが)つてその性格も温順しかつた爲、請負業者としての箕裘(ききゅう)を繼ぐことは不可能であらうといつて、故人は常にこれを悲觀され、自然他の方面で羽翼を伸さしめようと決意されてゐたやうである。當時夙川邸の一隅に廣大な農園を設け、義雄さんをして花卉の栽培に精進せしめたのも、土に親しむことが保健の良法であるといふ見地からであつて、故人の採つたこの保健法は見事効を奏し、義雄さんは數年を出ずして相當強健な體軀の持主となつたのである。その後故人は岩下翁の勸説(かんせつ)に從つて義雄さんを東都に遊學せしめ、曉星中學を經て早稻田大學に商科を修めしめたのであつて、もし義雄さんが故人の箕裘を繼がうとするなら、建築とか土木方面の工學を專攻される筈なのに、商科を選んだといふことは、他に目的があつたのではなからうかと想像されたのであつたが、故人の他界後、義雄さんが業を繼いだといふことを聞き、私は頗(すこぶ)る意外に感じたのであつた。失禮な申分だが、彼の忠誠な諸葛亮たる白杉氏が補佐するにしても、あの温順しい義雄さんが、請負會社の社長として果してその任務を全うし得るや否やを懸念したからであつた。しかるに何ぞ圖らん、その後の大林組は日々に隆昌、旭日昇天の勢を以て進展し、社長義雄さんの評判も至つて良いので、「斯父にして斯兒あり」の感を深くし、他所ながら義雄さんの健鬪を禱つてゐたのである。

偶、岩下翁逝去の折、生前知遇を受けた私等も、義雄さん等と共に御殿場の岩下翁邸に馳せ參じ、葬儀準備に與つたのであつたが、白杉氏が一緖であつたにしても、義雄さんの葬儀萬般の處理方策は頗る當を得たものであつて、その徹底振りには尠からず感服したのであつた。その時二階に陣取つてゐた益田孝男、中島久萬吉男、室田義文氏、山本條太郞氏といつた、今を時めく御連中(私等はこの御連中を貴族院と呼んだのであつた)の葬儀上の評議が事毎に甲論乙駁(こうろんおつばく)し、容易に決定を見ず、徒に時を空しうするのみなので、私は焦慮の餘り、小林一三氏と圖つて『お取極めが長引きますので、準備係として誠に困惑致しますから、どうぞ小林氏と大林氏と私の三名に萬事お委せが願ひたい』と申出て、幸ひ偉い御連中の快諾を得たので、直ちに大綱を取極め、設備萬端を義雄さんを中心とする大林組の方々に依賴して事を進めたのであつた。かうなると疾風迅雷的に總べての準備が進行し、漸く安堵の胸を撫で下した。私はその時初めて義雄さんの手腕力量を目のあたり見ることが出來たのであつたが、纎細な思索力と嚴肅(げんしゅく)な統制振と、潑刺たる動作には眞に感歎させられた。その中の一例を擧げると、葬儀の二、三日前、檜の一尺五寸角もあらうといふ頗る立派な墓標が邸内に運び込まれた。そんな材料は御殿場などには無論無い。大林組の方が、沼津邊りを物色して漸く擔ぎ込んだものである。書は中島久萬吉男が揮ふことに一決し、將に筆を執らんとする寸前に、偶義雄さんが入つて來てその標材を一瞥し、『誰がこんな粗末なものを買つて來たか。こんなものが天下の偉人たる岩下翁の墓標に相應しいと思ふのか。目の利かぬにも程がある。第一僕の恥辱だ。二千圓かゝらうと三千圓かゝらうと、今から直ちに取り替へなさい』といつて、ポンとその墓標を蹴つた。私等は木材に對する鑑識眼を持たないが、下部に少し蟲喰ひ樣の腐蝕部分と、多少の小節を見たに過ぎなかつたのに、足で蹴るとは亂暴とは思つたが、足蹶にした墓標は絶對に使はれない。いはゞ背水の陣である。もし良材がないなどといつたなら、その部下の人は切腹ものだ。血眼となつて物色するのに相違ない。私は義雄さんの深慮に想到して頗る敬服した。果せる哉翌日更に搬入されたものは、無節といつてよい頗る見事なものであつた。義雄さんはこれを見ていと滿足氣に、部下の勞を慇懃(いんぎん)に犒(ねぎら)つてゐた。その部下の人は泣かんばかりの嬉しさを面に漂はせて叮嚀(ていねい)に會釋した。私は號令は森嚴であつても、その反面にかうした優し味のある義雄さんの風貌を熟視し、眞に故人に髣髴(ほうふつ)、恰も生ける故人を目前に見るやう、感慨無量たらざるを得なかつた。

出師の表

御殿場は一寒村に等しい。完全な旅宿のある筈はない。各方面より集ひ來た名士は已むなく岩下邸に宿泊した。爲に邸内頗る手狹を感じ、義雄さんや白杉氏や私共は、遠慮して驛前の貧弱な旅館に投宿してゐた。或る日三人で風呂に入つたことがある。ところが義雄さんが私の肩を流さうとするので、私は『如何に私が故御親父の友人であつたにしても今は痩せ浪人に過ぎない。數千の社員を擁する大會社の社長が、私風情の肩を流すなどとは甚だ勿體ない。固く御遠慮する』といつても聞入れない。遂に肩を流されてしまつた。肩を流されながら私は故人を追憶した。故人は剛毅(ごうき)勇猛の半面に、得もいはれぬ柔和な優し味を持つてゐた。親子とはいへ、よくも故人に似たものかなと感歎した。しかるにまだ驚くべしだ。その時義雄さんの肩を白杉氏が流してゐられる。この光景を見た私は身慄いするほど更に感激を深くした。白杉氏が、故人から託された義雄さんを、身命を睹して薫育(くんいく)したその効空しからず、かくも立派な社長が出來上つたのだが、白杉氏は自分の効を塵ほども誇らず、何處までも主從の禮を以て終始するその忠誠の樣に、今更ながら諸葛亮を思ひ浮べずにはゐられなかつた。出師の表の一節に「先帝臣が謹愼なるを知り、崩ずるに臨み寄するに大事を以てす、命を受けてより以來、夙夜憂懼(しゅくやゆういく)し、付託の効あらずして以て先帝の明を傷はんことを恐る」とあるが、白杉氏の心事も亦かうであつたらうと思ふ。これでこそ大林組の前途は泰山の安きにあることを知り、心窃かに慶意を表したのであつた。同時に忠誠白杉氏を知つた故人の明に對し、絶大の讃辭を呈するに躊躇するものでない。

立志傳中の人

石川辰一郞

私は瓦斯會社にあつて片岡翁の側近に仕えて居た關係上、時折故人に接近する機會があつたといふだけで、親しくその敎を受けたこともないから、皮相の見方に過ぎないが、感ずるが儘に故人追憶の誠を致したいと思ふ。

故人は、その生涯を通じて奮鬪そのもので、立志傳中の人であつた。前半生を苦難の中に長ぜられ、凡(あら)ゆる人生の行路難を嘗められたゞけに、人に對する同情心も人一倍厚く深いものがあり、よく人の面倒を見られると共に人情の機微を摑むことに長じてゐられた。事業に對しては熱と力を經とし、細心な注意と周到な採算を緯とし、加ふるに誠實を以てせられたから、先輩諸氏に絶大の信用を博して、片岡翁なども『大林はえらい男だ。あのやうな男を援助すると援助の仕甲斐がある』と常に言つてゐられたのである。

士魂商才

濱崎健吉

私は、今日まで多くの人に接して來たが、故人の如き任俠味豐かな天分を具へた人を見ない。事業上については全然畠違ひであるから關係はないが、行藏一に人の意表に出で、一諾を重んじ、信義を尚び、人の爲に任俠を立てる等實に徹底的であつた。義弟照道が入家するについては、却つてこちらが恐縮する程わが事の樣に心配をされて、親許として萬事を取計らつて下さつた。その眞情には一家一族、いづれも感激したのであつた。

故人の全生涯を一言にして表するならば、「模範的の士魂商才」であつた。世の中には轉んでもたゞ起きぬ人もある。故人にはそんな醜い行爲は見たくともなかつた。他人の依託を受けたが最後、私利私慾を離れて一意專心これに沒頭された。この一片の俠氣と意地とは、故人の天分であつて、今日大林組が隆々斯界(しかい)の一權威たるを得たのは、この遺風が當主義雄氏によつて遺憾なく繼承せられ、且つ社中得難き人材を網羅し、時勢に先驅して常に流行に魁する向上心に外ならないと同時に、故人の風格を傳統的に守持する努力亦與つて力あり、とも言ひ得られる。

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