大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十一 東京中央ステーシヨン工事 四十八歳―五十一歳

東京出張所開設

日露戰爭中、大林組は各地に陸軍省關係の各種工事施工の恩命に接し、自然陸軍省と緊密な連絡の必要を痛感し、明治三十七年六月、内田正隆氏として主任に東京市京橋區金六町に出張所を開設した。しかし東京は故人が曾て業を修めた思出の多い土地でもあり、まして文化の中心をなす大帝都のことゝて、故人は單に陸軍省との連絡程度のものでなく、機會だにあらば本業の羽翼を伸ばさんものと翹望(ぎょうぼう)して已まなかつた。しかし彼の地には業界の雄淸水組あり、大倉組あり、その他群雄割據してゐて、この金城湯池への進出は蓋(けだ)し容易のものでなく、纔(わず)かに明治三十九年四月、出張所の名稱を支店に變(か)へ、更に明治四十二年四月、支店を麴町區内幸町に移轉して多少陣容を張つて見たものゝ、彼岸に到達するには前途猶遼遠たるものがあつた。

宿志實現

恰も好し、朝鮮龍山工事に拔群の功を樹てゝ歸還した植村克己氏(現常務取締役)の献策もあり、遂に同氏を實際的業務の總帥として東都に送り、こゝに初めて宿志實現の曙光が認められるに至つた。時は明治四十二年十一月である。

當時東京方面に於ける業務上の親近知已といへば、砂崎翁の外同業安藤德之助氏、石井權藏氏、長谷川金太郞氏等寥々たるもので、その他には何處をふり向いても知る邊のない、まして得意先もない處女地に業を擴めやうとするのだから、初めは一流請負工事の如きは指名に入ることも出來ず、僅かに微々たる公入札を追ふてお茶を濁すといふ始末であつた。

談合取の弊

而して當時は地方的感情の濃厚な時代でもあつたので、所謂上方贅六(ざいろく)に對する反感もあり、且つ二、三流以下の請負業者間には談合、談合取等の弊風が橫溢してゐたので、彼等一團の爲に暴力を以て入札を阻止せられたこと一再ならず、この間に處して業務を開拓する苦心は想像に餘りあるものがあり、二年にして僅かに千住製絨所第五工場及根津小學校の小工事を取得したに過ぎなかつた。しかし待てば海路の日和とやら、千載一遇の好機が降つて湧いたのであつた。それは大東京の玄關たる東京中央ステーシヨンが入札に附せられたことである。

東京驛の入札

指名の入札者は關東の雄淸水組、大倉組、安藤組等の四、五と、關西に於ては獨り大林組のみが加へられた。圖らずもこの光榮に浴した故人は、多年の宿望を遂ぐるはこの機とばかり、東都進出の宣傳用としてこの工事に對し五萬圓の缺損を豫め覺悟したのであつたが、開札の結果驚くべし、淸水組と大林組との札は偶然同額であつて、再入札の下に決戰が行はれることゝなつた。

宣傳費の有効化

植村氏の胸中には缺損覺悟の「五萬圓」が適切に動き出し、再入札には思ひ切つた减額を斷行することが出來、遂に未曾有な大工事請負の榮冠を獲得したのであつた。未だ關東に名をなさず、二流三流の同業者にさへ見縊(みくび)られてゐた大林組が、關東の覇者たる淸水組等と角逐して指名入札者の榮譽を博したばかりでなく、更にその工事を請負ふに至つたのだから、恰も旭日冲天、威容凛として東海の天を壓するの觀があつたのである。東都の請負界は擧朝震駭(きょちょうしんがい) ともいふ有樣、中には竊(ひそか)に下請を請ひ來る者なども輩出して痛快極まりなきものがあつた。

土木建築の二大豪華版

關西に生駒隧道の大工事を施工しつゝあつた大林組は、幾許もなく關東に於てこの大工事を請負ふに至り、前者は我が國土木界の白眉、後者は帝都の玄關をなす我が國建築界の精華、請負界に於ける東西の二大豪華版といつてよく、この兩工事を取得した故人の得意想ふべしである。殊に東京驛は帝都訪問の第一印象となるものであるから、その構造は我が國の建築を代表する巧緻の粹でなければならない。故に政府は夙(つと)にこれが建築案に對して最善の努力を拂ひ、當時本邦建築界の泰斗(たいと)工學博士辰野金吾氏の設計に俟ち、明治三十六年の頃、松井組が先づその基礎工事に着手したのであつたが、偶日露戰役の勃發と共に一時工事の中止を見、同四十一年三月より再び工を起し、基礎工事漸く成るに及び、明治四十四年三月その上部工事を大林組が拜命し、遂に大正三年八月これを竣功せしめたのである。

構造の大要

構造は鐵骨鐵筋に石材及煉瓦併用の最新ルネツサンス式、總坪數三千百八十餘坪、工費總額二百八十七萬圓、これに要した主要材料の員數は煉瓦八百九十萬個、セメント二萬五千樽、石材八萬二千切、木材一萬八千二百尺〆、杭木一萬一千五百本、鐵材三千五百噸といふ尨大なもので、使役職工人夫の延數は七十四萬人に達したのであつて、以てその建物の大を窺ふことが出來る。大林組は、かゝる稀有の大工事であつたが、秩序整然、洗練の技を遺憾なく發揮し、豫期以上の成績を以て工を竣へ、その構造は當時我が建築界に於ける近代藝術の華として輝く首都の玄關を飾ることゝなつたのである。

本工事施工の際は時方に生駒隧道工事の最中であつた爲、故人は上京の機會も尠なかつたが、隔月に一回位は上京して何くれとなく指揮したのであつた。

東京中央ステーシヨン
全景
東京中央ステーシヨン
全景
東京中央ステーシヨン
大天井
東京中央ステーシヨン
大天井
東京中央ステーシヨン
貴賓室
東京中央ステーシヨン
貴賓室

宮城禮拜

旅館から工事現場に着いて俥を降りると、故人は、先づ以て當時何等視界を遮るものゝなかつた丸の内を隔てゝ、宮城に向つて禮拜するのを常とした。殊に桃山御斂葬(れんそう)後上京の折などは、先帝を偲びまいらせたのであらう、暫し佇立(ちょりつ)して身動きもせず、沈思瞑目、誠忠の樣がありありと讀まれるのであつた。この森嚴崇高な光景を目撃した多くの現場員は、覺えず靈氣に打たれたやうに身慄いしたさうで、現場員は豫(かね)てからかうした故人の活きた敎訓に動かされ、毎朝出勤の際は必ず先づ宮城を禮拜したものである。

破格の褒状

この大工事が完成するや、鐵道院より優秀な成績を賞せられ破格にも下の褒状を下附された。

合資會社 大林組

中央停車場ノ新築ニ際シテ諸般ノ工事ヲ請負ヒ爾來約三箇年間銳意勵精(れいせい)毫モ遲滯ナク完全ニ之ヲ竣功セシメ成績顯著ナルヲ以テ茲(ここ)ニ之ヲ賞ス

大正三年八月十五日

鐵道院

東京驛はかくして歐米諸國の停車場に比し毫も遜色のない世界的雄姿を誇るに至つたが、特に記すべきことは、工事の全部に一分の隙もない精緻を極めた施工であつて、後日彼の關東大震火災の時、些の罅裂(かれつ)さへも見せずに巍然(ぎぜん)たる姿を示したのは、一の驚異として衆人の絶讃を博したのであつた。

震火災時の東京驛

實にこの大震災は偶然にも建築物の優劣を判別する一大試練となつたもので、大林組施工の東京驛、日本興業銀行、臺灣(たいわん)銀行、社會局廳舍等の建築物が、幸に損害皆無であつたその成績は、心窃かに誇りとしたものであつて、同時に洋建築は震災に危險なりとする一部論者に對し有力な無言の駁論(ばくろん)となり、結局誠實を以て積んだ煉瓦は崩壞するものでないとの一語に歸着し、過去に於ける大林組の誠實さが期せずして立證せられ、爾後翕然(じごきゅうぜん)として東都の信用が大林組に集つたことは、故人も以て地下に莞爾たるべく、且つ植村氏の奮鬪も遂に酬ひられて漸く實を結んだのであつた。

東京驛工事餘談

鐵道省技師 金井彦三郞氏談

私が現職當時、鐵道省の仕事は淸水組が殆ど一手に請負つてゐました。大林組の話はよく聞いてゐましたが、直接工事を監督したことはありませんでした。大林氏は明治三十六年の大阪大博覽會工事を請負つて以來頓(とみ)に名聲を上げたやうでした。私も當時の博覽會の建築物を見ましたが、博覽會等の建物は一時的のものであるから、一般の請負人はたゞ急造的に造ればよいといふ觀念の下に構造に手をぬくことが多い爲、建造物の平均が取れてゐないのを常とします。しかるに大阪大博覽會の建物にはこの缺點が更に見當らなかつたのです。かうした美點は氏の生命ともいへませう。部下が氏の大精神を納得して働いてゐることを如實に物語つて居ります。その後私の監督の下に東京驛の建設が實現することになりまして、明治四十四年三月から大林組の仕事を見ることになりました。東京驛の仕事は基礎、鐵骨、建築と三部に區劃(くかく)され、基礎工事は全部直營の下に施工致しまして、鐵骨は石川島造船所へ、建築は淸水滿之助氏と大林芳五郞氏の二名の入札が不思議にも同額であつたので、再入札を行つた結果、大林氏の方が値引に成功して落札したのであります。かくて東京驛は大林組の手で建設されましたが、過ぐる大正十二年の關東震火災の際に一點の損所だに生じなかつたのは、監督官たりし私と請負者たりし大林氏との意氣がどれだけ相合ふたかを語るに足るものであります。

大震火災の折、あの紅炎の中に包まれて、殆ど滿都の崩壞を前に巍然として運輸の便を助けてゐた東京驛の雄姿を見た時、私は泣くほどに嬉しかつたのです。もし大林氏が世に在つたならば當時の苦心の空しくなかつたことを語り合うものを、それも今は徒らに思ひ出の種となるばかりまことに殘念であります。同工事は大正三年末最終の完成を見ましたが、大林氏がその魂を打込んだ東京驛の仕事について私の最も愉快に感じたことは、會計檢査院の檢査を受けた際であつて、その檢査官は私に對し『如何なる請負工事でも私が檢査しますと必ず多少の缺點を發見する。私は請負人にとつては鬼門です。この工事も私が一見すれば屹度(きっと)どこかに缺點を見出します』と究明的細密に檢査せられましたが、『金井さん、驚きました。本建築は完全です。私にとつては記録破りです』と感嘆せられました。如何に峻烈な檢査官の檢閲に遭ふも、工事當局者が誠實を以て終始したものは決して點の打ち所がありません。私は初めてその仕事振りを監督して大林氏の堅實な家法を尊敬すると共に、責任者たる私も非常の名譽を博しました。

その後建造物の一部をホテルに割り當てることに決したので、これも大林組と淸水組とに入札させましたが、その結果淸水組に落札しました。實際淸水組として、在來鐵道の仕事を一手に引受けて來たものが晴れの東京驛を大林組に取られたのは如何にも遺憾であるといふので、せめてはホテルだけでも我が手で建造したいとの意思の下に、無暗に安く札を入れたのであつたことを後から聞きました。このことを聞知した大林氏は『あゝ良いことをした。これで私も淸水さんに對し同業者としての情誼が保たれます。お蔭で心持が晴れ晴れしました』と物語られ、私は益大林氏の爲人(ひととなり)に感じ入りました。

驛内棟上の猫の彫刻に就て、竣成當時或る新聞紙が『左甚五郞が日光廟に猫を彫つた例によつて何かの縁起でもあるのか。又建物と猫とは何か關係があるのか』等の問を發して問題視せられたことがあり、宏壯な西洋建築と猫の彫刻との比較話は一寸面白い話柄でしたが、それは大林氏にとつて何の縁起もありませんのでした。工事が出來上つた時、材料と材料との接合場所に鐵板が表面露出するのはいかにも美感を殺ぐといふので、大林組の人に私の案として鳥でも飛ばして見たらどうかといつたところ、家の中に鳥が飛んでゐるのも可笑しいといふ人もあり、辰野博士が『猫にするがよい。猫は甚五郞の附きものだ』と言はれ、この一場の笑話が事實となつたものです。

(ついで)に驛内の彫刻について一言するのも愛嬌かと存じます。即ち東京驛内の出入口の室の圓内には夫々の方位に十二の干支を象つた彫刻があり、皇族室の入口のものは三本足の鴉の彫刻でありますが、それは太陽を意味したものです。又皇族室の裝飾に各種の「面」の彫刻がありますが、落成當時御幼少で在らせられた朝香宮殿下がお二人づれで御成りの折、お茶を召上りながら不圖その珍面にお目がとまり、大層お笑ひになるのでお伴の方が伺ひますと、『あの面は内の誰かに全くそつくりだ』と仰有つてお笑ひになつたのでした。皇族室入口の壁畫は色々と詮議の結果、故黑田淸輝、和田英作兩畫伯に依賴して、士、農、工、商の交通を揮毫することになりました。そしてその海の交通は汽船、陸の交通は汽車と決定し、汽船のモデルは慥(たし)か八坂丸と記憶してゐます。

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