大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

一 故人の祖

故人の祖

大林家は、故人の父德七氏が、大阪商人として由緖ある林家より分れて一家を創立したものである。仍(よっ)て順序上先づ林家の家系より説くことにしたい。

等しく皆皇國の民、遠い遠い祖先を温ねたら一に歸するだらうし、王侯將相何んぞ種あらんやで、豐公のやうな例もあるのだから、祖先の穿鑿(せんさく)に力瘤(ちからこぶ)を入れるほどの價値はないかも知れない。

大阪商人の系圖觀

殊に大阪は元來商人街として發達して來た關係もあり、自然町民の殆ど總べては富を積むことによつて自己の滿足と樂土をもとめんとしたもので、金銀至上の思想が大阪の上下を支配したものである。さうして一面經濟關係の發達につれ、士、農、工、商の階級觀念が破壞せられると共に、最下級視せられた商人の實勢力が諸大名をも凌ぐ世となり、蒲生君平でさへ『大阪の豪商一度怒つて天下の諸侯懼(おそ)るゝの威あり』とまで喝破し、又福澤諭吉先生がその先考百助氏を語つて、『父は大阪の藩邸に在勤し、當時の富豪大賈(たいこ)に近接して財政の衝に當り、或は藩米を賣り、“或は藩債を募り”、金利の高低を論じ、返濟期限の緩急を談じ、時に或は金主の歡心を得んが爲にとて共に飮み共に遊戯する等大阪町人社會の交際に俗中の俗を極めて、恰も二十餘年を紅塵の間に消磨したる如くである』と言つたほどで、相當の儒者であつた百助氏でさへ藩公の爲に身を挺して町人の鼻息をうかがつたのである。殊に明治維新當時は各藩共、兵船戎器を需(もと)むるの要に迫られて藩幣頓(とみ)に涸渇したので、血眼となつて藩債の調達に狂奔したものである。明治四年廢藩置縣の時整理された大阪だけの藩債が實に三千六百萬圓といふ巨額に達してゐた。

藩債と御用金

この中、天保以前のものが約一千二百萬圓、以後元治に至る二十年間のものが約九百萬圓、慶應より明治に亙(わた)る僅か數年間のものが約一千五百萬圓といふのだから、維新當時の藩債が特に莫大であつたことゝ大阪町民が經濟王國の大堅壘(けんるい)に盤居して諸大名の間にいかに重きをなしてゐたかゞ察せられる。而して大阪財力の大を示すものは、獨り藩債のみでなく、寶暦十一年以後慶應二年に至る百五年間に於て、大阪の負擔した幕府に對する御用金は圓貨に換算して優に一億圓を突破し、更に維新朝廷に納めた御用金も少くない。或る經濟學者が『大阪の財力が無かつたなら、明治維新の大業がかくまで速かに達成しなかつたであらう』と言つてゐるが、眞に然りだ。しかるに古來經濟的の功勞者とか犧牲者とかは、その立場や仕事がぢみな關係もあるであらうが、歴史の上には閑却され勝ちの傾向がある。

明治維新の功勞者

古きは彼の肅何の如き、韓信や張良ほどの光彩が放たれてゐない。近くは二宮尊德や河村瑞軒の如き、一劍客ほども人口に膾炙(かいしゃ)されてゐず、王政復古の大功勞者たる大阪町人の名聲も一般史上には殆ど顯(あら)はれてゐない。殊に當時三井組と共に御用金調達の中堅であつた小野組と島田組は明治六年に瓦解してしまつたが、國民中一掬(いっきく)同情の涙を灑(そそ)いだ者が幾人あつたらうか。だから大阪町人は、歴史に生きるとか名譽を追ふとかの慾望よりも、西鶴の言つた『金銀が町人の氏系圖なるべし』で、金さへあれば大名も頭を下げて來るといふ自負心から、黄金萬能の思想に培はれ、氏素性を誇る興昧などには頗(すこぶ)る冷淡であつたのである。

故人の血液

しかしながら大林家は大阪商人として立派な祖先を有つてゐる。片岡直輝翁をして『何人の血を稟(う)けてかくも剛俠にして仁義に敦(あつ)い性格を得たか』と歎ぜしめた如く、故人の温い筋骨の間には、祖先の香血か脈々として流れてゐたことが思はれる。今それを系譜に就いて述べて見よう。

しかるに不幸にして天明、享保二回の祝融は大林家の菩提寺たる龍淵寺の宗務帳、過去帳その他一切の書類を烏有に歸せしめたので、遠祖に遡つて詳細に稽(かんが)へる資料に乏しいが、大林家に傳はつた系譜並に大火後に成れる龍淵寺の過去帳その他の記録に基けば、林德兵衛重則氏が中興の祖とも見るべく、故に本編に於ては氏を林家の初代に擧げたのである。

初代重則氏

初代重則氏は、淀川過書船の元締を許され、御用提燈を用ひ、帶刀御免で、士分たる待遇を受けた人である。

常時大阪の人口四十萬人中、兩刀を手挾む武士階級は、城代(十萬石程度の大名)及その從者、加藩(四藩あつて四、五萬石程度の大名)及その從者、京橋口及玉造口の定番及その從者、町奉行及與力(よりき)同心、船奉行並に各藩の藏屋敷詰(藏屋敷は幕末百十を算し、主として中の島に多く、現大阪ビルと新大阪ホテルとの中間、東神倉庫はその遺物)等總人員五、六百を出でず、江戸に比して寥々たるの觀があり、自然同心等の末輩に至るまで羽振りを利かしたものである。數に於て少いだけに四圍(しい)の着目が多い。常にその羽振りを見るにつけても、金銀至上主義の大阪町人とはいへ、一面又名譽とか權勢とかを望まぬものでもない。畢竟金と名譽とを比較するから金を選ぶのだが、金と名譽とを並び獲られゝばこれに越したことはない。

帶刀御免

故に大阪人は町人であつて帶刀を許されることを名譽として子々孫々に誇つたものである。當時の大阪に於て代々帶刀を許された町人は、町奉行の下に在つてその行政の任に當つてゐた大阪全町僅かに二十人の惣年寄と、船奉行の下に在つて淀川航行の支配權を握つてゐた淀川過書船(淀川に於てのみ古くから行はれてゐた航通免許の船)の元締等で、その數極めて少く、共に富裕で且つ人材でなければ勤められぬ職務であつた。

過書船

當時の淀川は、京阪を繫ぐ唯一の交通機關であつて、日々數十百の船舶が織るが如くに輻輳し、この間をクラハンカ又はすわひ女の物賣り船までが漕ぎ交り、舷歌十里、實に殷賑(いんしん)を極めたものである。自然これが取締の要が起つて來たばかりでなく、皇城の地京都の咽喉をなす關門でもあつたから、通行船は勿論その乘客並に貨物等に對しては嚴重な檢閲と監視が拂はれたもので、この取締や檢閲、監視等を掌(つかさど)つたのが淀川過書船の元締であつて、その責任は極めて重且つ大であつた。重則氏はこの過書船の元締を允(ゆる)されたのである。以て氏の人物才幹の非凡であつたことが察せられる。

重則氏の信仰

重則氏は、特に信心に篤く、世を二代德兵衛重孝氏に讓つた後の晩年は、專ら久遠の大法に歸依し、常に法衣を纒つて僧侶の風格を學び、涅槃の門を慕つて菩提寺その他に對する寄進少からず、猶綽々(しゃくしゃく)たる裕福の分限を樂んで、元祿十三年三月十五日この世を去つた。『林家の祖先は僧侶である』との傳説は、恐らくこゝから出た口碑なるべく、功成り名遂げた後悠々自適、法門に餘生を送つたその心事の崇高さを偲ぶとき、愈人物の偉大さが窺はれるのである。

二代重孝氏

二代德兵衛重孝氏は、父重則氏の如き覇氣を有たなかつたが、温厚篤實、孜々(しし)として倦(う)まず、親讓りの過書船元締の大任を果した人で、享保十五年三月二十八日に永眠した。

三代重淨氏

三代德兵衛重淨氏に至つては、祖父重則氏の再來といつてよく、實に豪放豁達(かったつ)の偉丈夫であつた。父祖は淀川に於てその驥足(きそく)を展べたが、重淨氏は更に一歩を進め、その活舞臺(かつぶたい)を縹渺(ひょうびょう)たる蒼海に選び、瀨戸内海はいはずもがな、四國の南端より九州方面へまでも、その持船泰運丸に乘じて商品交易の鵬翼を張つたものである。就中(なかんずく)桐材に着眼して土佐堀に問屋を設け、盛にこれを販賣した。當時海上には多くの海賊が橫行跋扈(ばっこ)し、まして一隻の帆前船を以て時に怒濤狂瀾の間を往來するのだから、危險極まりなきものがあつたに拘らず、氏は平然自若、依然その雄圖(ゆうと)を續けたのである。さうした海上の生活實に二十數年、家運彌々(いよいよ)隆盛を加へ、寶暦九年八月二日に歿(な)くなつた。

四代正固氏

四代德兵衛正固氏も父を輔けて業を共にした勇敢な鬪士であつたが、家督相續後僅か十五年にして、安永三年一月十四日夭折(ようせつ)した。

五代篤固氏

五代德兵衛篤固氏も亦父祖の箕裘(ききゅう)を繼ぎ、海運業の外、肥物商をも營み、父祖の如き豪邁(ごうまい)の風はなかつたが頗る謹嚴淸直(きんげんせいちょく)の人で、業務の經營三十三年の長きに彌り、家運倍々隆昌、文化四年七月二十三日六十一歳を以て歿した。龍淵寺記録に徴すれば、氏は、その葬儀に會葬者堂に溢れて前庭を埋めたこと、三寶歸依の志篤くして多額の寄進のあつたことなどより推し、恐らく林家歴代の中で富裕の第一人者であらう。

六代篤祐氏

六代德右衛門篤祐氏は、先代篤固氏に嗣子がなかつた爲、妹たみ子の養嗣子となつて六代を繼いだ人である。氏は實直な先代の鑑識に適つたほどあつて、孜々黽勉(びんべん)業務に勵み、養家の聲望を墜(おと)さず、天保十二年十月二十二日六十四歳で逝つた。

七代德助氏

七代德助氏は、先代篤祐氏の長男であつて、これ亦謹嚴眞摯の人であつた。氏の時代に於て海運業を捨て專ら肥物及鹽(しお)の販賣を業とした。氏に性格も酷似せる五歳を隔てた弟德七氏があつた。この人が分家して大林家の始祖となつたのである。

八代德助氏

八代德助氏は、七代德助氏の嗣子德太郞氏が病弱の爲、長女祿子の婿養子として迎へられ八代を襲いだ人である。氏の時代が彼の明治維新の革命時で、財界に一大變革を來し、古來踏襲し來つた商業上の慣習も制度も一朝にして破壞せられ、巨商富豪の倒産相次ぐといふ慘憺(さんたん)たる時期であり、その決河の勢を以てする恐慌を突破することは尋常容易の業ではなく、殊に家庭に於ては妻女、嗣子相次いで夭折し、家運漸く傾き、多年潤ひ來つた富より離れるの悲運に陷つたのであつて、一掬同情の涙を禁じ得ない。

九代榮子

九代榮子は、大崎家より入つて九代を襲ぎ、大阪市西區京町堀上通三丁目に現住されて居る。

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