大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

七 故人の修業時代 -宮城西丸及山里地形工事- 

皇居炎上

明治大帝には、明治二年三月二十七日京都より東京城に着御、皇居を元江戸城西丸(本丸は文久年間に全燒、再建を見ず)に奠(さだ)め給ひ、萬機を御總攬遊ばされたが、明治六年五月五日、四面の若葉の萌え始めた頃、ゆくりなくも午前一時二十分後宮より火を失して忽ち滿城に延燒し、德川時代の精華を極めた宮殿も僅か三時間にして灰燼(かいじん)に歸してしまつた。

兩陛下には一時吹上御苑瀧見茶屋に御避難遊ばされ、ついで赤阪離宮(元紀州侯邸)へ御遷幸、同離宮を假皇居と定められ、明治二十二年一月十一日まで行在遊ばされた。

大帝、幼にして先帝を喪はせられ、祖宗の皇謨(こうぼ)を繼がせ給ふたが、時偶明治維新の騷擾期(そうじょうき)とて夙夜宸襟(しゃくやしんきん)を惱まし給ひ、漸く王政復古の大業を遂げさせられて政途纔(わず)かに緖に就いた折しも、今又池魚の災に遇はせ給ふ。申すも御痛はしき極みである。群臣恐懼(きょうく)措くところを知らず、皇居造營の議は澎湃(ほうはい)として國民の間に起り、獻金を願ふ者すら簇出(そうしゅつ)するに至つたが、英明仁慈にまします 大帝には、國用夥多(かた)の時民産を損し黎庶を苦しましむることなかるべし、との難有き御詔さへ下し給ひ、その後一藩侯の邸に御起居遊ばされたこと十六年の久しきに彌らせ給ふたのである。古へ 仁德天皇が三年の間御宸居の御造營を止めさせ給ひし御儉德にも似て、民庶を恤(めぐ)み給ふ御聖德の大、日月を仰ぐがやうである。

その後又明治十年西南戰爭の不祥事が勃發し、皇居御造營の議も自然御沙汰罷(や)みとなつてゐたが、明治十二年九月に至つて漸く御造營の勅宣が下され、こゝに初めて掛官等の任命を見て愈御造營が具體化されることゝなつた。

宮城の御位置

先づ第一に御位置の御選定が必要な爲、軈て舊(きゅう)本丸、西丸、山里等の地質を檢査せしめられた結果、西丸及山里の一部が好適の地として御決定遊ばされたのである。

宮城の御樣式

第二は建築の御樣式で、洋風、和風種々の案が議に上つたのであつたが、申すも畏れ多いことながら 大帝は當時巨額の費を要する洋舘案を却けられ、たゞ通風、採光、煖房、裝飾等に於て洋風の長を採り、宮内省を除くの外は全部和風木造案を御採納になつたのである。御儉德の大御心を拜するとき、唯々懼(おそ)れ戰くばかりである。

地形工事

御位置も御樣式の大體も御決定を見たので、明治十七年四月十七日地鎭祭を行はせられたのであつたが、これより先、御位置の御決定後間もなく、明治十六年六月より地形工事が始められた。その後伊藤宮内卿の計畫たる最後の模樣替(謁見所等の規模を大にすること、宮内省の位置を紅葉山下に變更、宮殿向屋根瓦を銅板葺とすること等)の御決定になつたのは明治十八年五月であつて、爾後拮据(きっきょ)經營、明治二十一年十月に至つて大小の工事全部が竣成したのである。故に工事に費された眞の日數は、地形工事着手以後五年有餘の久しきに彌つたわけである。

不磨の大典

兩陛下には明治二十二年一月十一日赤阪離宮より御遷幸遊ばされ、こゝに初めて宮城と稱すべき旨仰出され、その翌月十一日紀元節の佳辰には、千古不磨の大典たる帝國憲法をその新殿に於て發布せられたのであつて、瑞雲は千代田の宮城に靉靆(たなび)き、國運伸張の禎祥は燦として六合に輝きわたつたのである。

砂崎氏はその光輝ある御造營中の、しかも最初の地形工事を拜命したのであつて、故人も亦期せずして同工事の初期に參加し得たもので、千載一遇の好機といつてよいのである。

德さんの名

これより先、故人上京の折、下里氏より美馬氏に宛てた紹介状は頗(すこぶ)る振つたもので「拙者出入の旦那筋、大林の德さんを御紹介申上候」といふ意味のものであつた。

故に砂崎家に修業中の五年間は德さんの名で始終した。故人自身としても多年德さんの名に馴れてゐたから、感じからしてもピンと來るし且つ親しみもあつたのである。上京後三日間は何等の命もなかつたが、故人は掃除、水撒き、雜巾掛などその何たるを問はず眞面目に働いた。砂崎氏の心中では、『相當の家筋に生れ、呉服屋を營業として來た人間には、到底請負業などは勤まらないだらう』といふ懸念もあつたやうだが、故人の日常は案に相違の眞劍さである。三日目の朝、砂崎氏より『德さん、今日から現場だよ。序の要件もあるから私が連れて行つてやらう。支度をなさい』との命が下つた。故人は雀躍して喜んだ。

希望への第一歩

生れて初めて與へられた法被と腹掛を着け、(當時は未だ一般に洋服が用ひられてゐなかつた。堂々たる請負業者でさへ、法被の上に縞の羽織を着けたやうな時代であつた)主人に從つて希望への第一歩を踏み出したのである。道々皇居炎上の詳しい物語など聞きつゝ半藏門から御所に入つた。驚くべし、樅や松の交叉せる鬱蒼たる大森林、夏なほ冷いやりと寒さを覺えるほどで、神苑といはうか、仙境といはうか、その神々しさに故人は身心の緊き締まるを覺えずにはゐられなかつた。幾多の鳥の囀(さえず)りや蟬時雨に包まれながら默々として林間の小徑を進む。感慨は後から後と湧いて來る。『自分は何んたる幸福な身であらう。修業への第一歩から、畏くも一天萬乘の 陛下の御園に入るの光營に浴するとは。たゞ身を粉にして御奉公するのみだ』と堅い決心が眉宇(びう)に現れたのであつた。ふと林を出づれば晝のやう、そこは濶々とした大庭園、遠く銀杏の並木が續き、遙かに御正門の伏見櫓が望まれ、しかも人一人見えぬ靜寂さ、幽嚴そのものゝ姿である。故人はこの崇高無限の靈氣に打たれて感極まつた。折しも砂崎氏は歩みを停め、北の方遙かに見える樹頭を指し、『明治六年皇居炎上の折、御痛はしくも 兩陛下が身を以て難を避けさせられ、暫く御軫憂(しんゆう)遊ばされた瀧見御茶屋はあの森の中である』と説明し、長大息して禮拜された。故人はもう立つてゐられない。言下に跪いてしまつた。

誠忠の眞情

陛下猶ゐませるの思ひ、恭しく伏し拜んだ。眞情は自然より發する。思はず跪坐(きざ)した故人の眞情、砂崎氏はこれを顧みてまたとなく喜ばれた。今そこに跪坐した靑年が、他日 大帝の御陵造營の恩命に浴するとは、奇しき運命の靈妙さをまざまざと感得されるのである。

行くこと暫し、現場に着いた。燒くがやうな炎天に百人許りの筋骨逞しい土工人夫が汗みどろになつて働いてゐる。彼等は砂崎氏の姿を見るなり親に甘へるやうな表情で御辭儀をする。砂崎氏は『暑いのに御苦勞だな』と言つて慰める。その一言を聞いただけで彼等は滿足さうに働き續ける。故人はその一瞬に矢張り『慈(なさ)け』だなと悟つた。その日は關係方面への紹介に終り、愈その翌日から出面係を命ぜられ、先輩より親切な傳授を受けたのである。

初擔任

當時西丸への出入口は正門(現二重橋)、坂下門、半藏門、乾門の四ケ所であつたが、故人は半藏門の出面係であつて、一定の時間に集合した者を引卒して現場に連れて行くのである。故人は翌早朝半藏門外一定の溜り場に先着した。ポツリポツリと土工人夫がやつて來る。先づ出面簿を開いて姓名を問ふのだが、未だ江戸辯(ことば)に通じない故人は『おまはんのお名前は』とやつた。彼は怪訝の顏つき、『べらぼうめ、おまはんのお名前なんて勿體ねえものは有つてゐやしねえ。名かい、名なら熊だよ』といふ調子、仕事に就いた冐頭に泡を喰つてしまつた。しかし簡單な仕事だから笑はれながらもお茶を濁した。その日又現場で先輩から虎を呼べと命ぜられ、『虎はんゐまへんか』とやつたら、呼ばれた虎公頗る不機嫌の態、『オイッ、虎ッて呼んでくんねえな。張りきつた威勢が脱けツちまはアね』とやられた。東京辯の必要は豫期してゐたが、名前の呼び捨ては意外であつた。

呼び捨て

しかるに先輩達の總べては彼等を呼ぶに『虎ッ』『熊ッ』『八ッ』と呼び捨てだ。しかも氣合がぴつたりと合つて、彼等は唯々諾々として反抗の氣勢など塵ほどもない。實際彼等に接觸して見ると、直情徑行といはうか、素朴單調といはうか、純眞の情眞に愛すべきものがある。ましてや勿體なくも皇居御造營に當る身のその光榮に感激し、放歌するもの、巫山戯(ふざけ)るもの、一定時間内に煙草を吸ふものなどは一人もゐず、赤誠を捧げて奉仕せんとする念が滿ち溢れてゐた。その僞らざる彼等の純情を掬(すく)む時、故人は飛び付くほど可愛く感じられたのであつた。

貴重な體驗

現場に於ける故人は出面係の外、自ら進んで帳面付もやる、日誌も書く、算盤もおく、小使もやる、掃除もする。

偶閑があると直ぐ現場に走り出て、あの畚(もっこ)の重さはどれ位だらう、あの石は何人かゝつて動かせるか、あの一坪の土を掘るに何人かゝるかなど、土工の群に交つて時に鶴嘴(つるはし)も持つ、畚も擔ぐ、石も動かすといふ熱心さ。況んや體軀の巨大と腕力の強さは專門家の彼等さへ後へに瞠若(どうじゃく)たる有樣。『德さんは年こそ若いが偉いものだ』といふ感歎の聲が隨所に湧き、又故人の彼等に對する慈愛の念が加つて行くに隨(したが)つて、上方の白(日に焦けぬ折)とか贅六(ざいろく)の兄イとかの綽名(あだな)も何時しか消え失せて、『德さん、德さん』と懷かしまれるやうになつて來た。最初尊稱を付けぬと彼等を呼び得なかつた故人も、日を經るに順つて、『虎公』となり、最後は『虎ッ』と呼べるやうになつて來た。無論その時は仕事の大局も呑み込めた時である。彼等の尊敬は翕然(きゅうぜん)として故人に集つて來た。さうなると命令の行はれざるなく、愈仕事に膏が乘つて行くのであつた。

杭打

地形工事の内容は、鋤取り、地均し、突固め、石垣、杭打等であつたが、就中(なかんずく)杭打工事は最も至難を極めたものであつて、當時はスチームハンマー等の工事機械も動力もなく、比較的長い松杭を、櫓を組んで數多の人夫等が綱を手ぐつて分銅で打込むのだから、時間もかゝるし骨も折れたのである。しかし勇ましいもので、元氣に滿ちた音頭と掛聲は城内紅葉山に谺(こだま)して御代萬歳を壽(ことほ)ぐかのやうであつた。

水中に飛込む

この工事中、二重橋工事測量の際、足場が狹かつた爲技師が誤つて測量器械を御堀の中に轉落させたことがあつた。御堀は相當深いし、生憎引揚げに適する道具もなかつた。

しかし當時としては頗る貴重の品だから、技師や故人は心苛つばかり、土工等を顧みて水中への飛込みを命じたが、その朝は寒氣凛烈、水面に薄氷さへ張つてゐたので、土工等は相顧みて誰一人飛び込もうとする者がなかつた。その樣子を察した故人は、いきなり素裸となるやザンブとばかり水中に潜り、些かの損傷もなく無事器械を引揚げたが、故人の肌の處々は薄氷で切れたのか血が滲み出てゐた。晩年故人が一杯機嫌の折々に、『世間には水火の中へも飛び込むといふことがあるが、俺はかうした經驗を有つてゐるよ』と當時の意氣を語つてゐた。故人は明治十七年二月、地形工事の大體が終了したので、更に地上本工事に入るまでの期間、同じく砂崎氏の請負にかゝる赤羽、品川間の鐵道工事に轉務(てんむ)することゝなつた。かくて前年の七月より七ケ月餘に亙(わた)る御造營の地形工事に於て、故人は何を敎へられたか。杭打工事を除く外は至つて平易簡單な工事であつたから、技術方面の收獲は極めて少かつたであらう。

偉大な賜

さりながら故人は偉大なる賜を贏(か)ち獲たのである。それは部下職工人夫の統制術である。職工人夫の輩、素より六鞱三畧(りくとうさんりゃく)の所謂群雄とは稱し難いが、總べての事業に於て、人心を收攪するの一事は事業遂行の成否を支配する重大性を帶びるものであつて、殊に請負業界の如きは最も然りだ。故人はその天賦の性格が然らしめたところもあらうが、この工事場の僅々(きんきん)七ケ月の短期間に於て得難き統制上の呼吸を呑み込み得たのである。後年如何にこの七ケ月の體驗が役立つたか、蓋(けだ)し思ひ半ばに過ぎるものがあらう。薀蓄(うんちく)もあり、才能も秀でた相當の人材が、たゞ單に部下統制の技に長じなかつた爲思はぬ失敗を招いた例は乏しくない。我等は、故人が一職工、一人夫に採つたその關心を他山の石として大に學ばなければならない。

江戸開城直後の二重橋
江戸開城直後の二重橋
江戸開城直後の大手門
江戸開城直後の大手門
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