大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

三十四 北陽演舞場工事 四十九歳―五十二歳

大林組がその施工を誇る和風木造の代表的美術建築は、何といつても大阪曾根崎の北陽演舞場であらう。

和風建築中の白眉

大正元年十二月に工を起し、同四年四月十五日に竣成したものであつて、輪奐の美は絢爛人目を奪ふに足るもの。恐らく明治以後に於ける我が國和風建築中の白眉と稱するも取て溢美の言ではあるまい。下にその内容を畧記(りゃくき)して見よう。

眞の檜舞臺(ぶたい)

○建築樣式は、藤原時代より室町及桃山時代を貫く代表的建築物の粹を巧に織り交ぜた御殿風とも稱すべきもの。

○材種は總べて尾州檜を用ひ、長押の如きは通り八間に達する長尺ものがあり、しかも全部無節といふ豪勢さで眞に檜舞臺の名に愧ぢない。その他杉戸の一枚板なども誇りの一つである。

○各部の構想及裝飾即ち蟇股(かえるまた)、懸魚(げきょ)、各組物、檜樣彫刻模樣等は、室町、桃山兩樣式を混融統一し、觀覽席の大天井は二重折上支輪付き小組格天井で、控室たる日本間の各室にはそれぞれ醍醐棚、書院、火燈窓、花樣欄間などを付し、貴賓室内部の襖は軟錦縁仕立に、常時畫壇の雄、櫻谷、楯彦、嘯谷等が雄渾(ゆうこん)の筆を染め、その妍雅(けんが)、壯麗、恰も聚樂の第や桃山御殿等を偲ばしむるもの。

○建築各繪樣の意匠は、舞踊を象徴するに最も相應しい蝶と獅子を主題に、蝶に添ふ花と、獅子に添ふ牡丹とを頗(すこぶ)る高尚幽雅に圖案化し、これを各所の彫刻及模樣に表現したものである。

○電燈器具を和樣建築に調和せしむる爲には特に深甚の注意を拂つた。觀覽席中央のシヤンデリヤの如きは、天蓋に瓔珞(ようらく)を象り、且つ光力を增大ならしむる爲切子硝子を應用し、その他各室の器具は古式の暗燈又は雪洞風を巧に美化したもので、この試みは恐らく我が國に於ける嚆矢(こうし)であつたらう。

○その他各部に亙(わた)つて説明すると限りもないが、建坪が比較的に狹隘であつた爲、地方席を時に觀覽席に變更する移動裝置を施した點などは、その當時北陽演舞場に於て初めて試みた機械設備としての斬新なものであらう。

かうした名建築の任に當つた者の苦心は耿々として言語に絶するものがあり、今にその苦心談の數々が殘つてゐる。

北陽演舞場 全景
北陽演舞場 全景
北陽演舞場 觀覽席
北陽演舞場 觀覽席

苦心の跡

時の擔當主任者は故人が最も信任を拂つてゐた建築部長の松本禹象氏(後常務取締役、現囑託員)で、幾多の苦心中彼のシヤンデリヤの如き、考慮に考慮を重ねて見ても會心の想が浮んで來ず、徒に焦慮煩悶するのみであつたが、或る日同氏が或る寺院に知人の葬に列した折、フト金色燦爛たる天蓋とその瓔珞が眼に入り、氏は『是れだ』とばかり、思はず絶叫して邊りを驚かしたことは有名で、思はぬ所にヒントを得た氏は、更に當時氏の助手たりし美術學校出身の木村得三郞氏(現理事、東京支店設計部長)に考案を命じて遂に所期の目的を達したのであつた。その他檜材及貴重材の蒐集にも絶大の苦心を拂ひ、名古屋製材所を督して畢生(ひっせい)の努力を傾倒せしめ、或は松本氏自身が山陰、北陸の地を跋渉(ばっしょう)してこれが物色に努むるなど、多數係員は寢食を忘れて事に當つたのである。かうした苦心苦鬪の結晶が軈て光輝ある明治末期の名建築となつて現はれたもので、朝野爲に傾駭(けいがい)、白熱的大喝釆を博するに至つたのである。

呉下の舊(きゅう)阿蒙

初め本建築の依賴を受けたとき、故人は和風美術建築を扱ふ最初であり、部下係員の技術練磨上好箇の資料たるのみならず、大林組が美術建築への一期を劃(かく)する重大意義も含まれてゐるので、全く利害を離れてたゞ單に「良いものを拵(こしら)へよ、技術に活きよ、組の聲價を高めよ」といふことのみを念願として進んだのであつて、もし故人にこの犧牲的果斷がなかつたなら、大林組は相變(かわ)らず呉下の舊阿蒙で永久にバラツク師の域を脱しなかつたであらう。ただ斷膓の感に堪へなかつたことは、本工事の竣成前故人は二豎(にじゅ)の冒すところとなり、この榮ある建築の威容に接するの機會を永久に失つたことであつて、纔(わずか)に松本氏が病床に持參した寫眞を眺め、眼に嬉し涙を光らせ、『よく出來たね』と言つた一言がこの世の名殘となつたことである。

本建築に際し、當時京都府古社寺の技師たりし龜岡末吉氏が該博なる蘊蓄(うんちく)を傾けて指導されたことを感謝するものである。

日本産檜の節無し

曾根崎新地組合總取締 大西熊吉氏談

曾根崎新地の演舞場が燒失して以來、再築の議が再三起つたのであるが、どうも資金の關係上纒りがつかず、温習會の度毎に帝國座や老松座を借り受けて漸くお茶を濁してゐた。何時までもかうしたことでは曾根崎新地の名にかゝはるといふ論が段々強くなつて來て、一流藝妓が組織して居た柳櫻會あたりでは演舞場が再築されぬやうなら他の廓に鞍替するなどと言ひ出し、役員間にも再築論が勢力を占めるに至り、偶岩下淸周翁の奔走により愈再築の議が決した。素より豐かな財源を以てするのでないから、これはどうしても任俠の名の高い大林氏に總べてを打明けて懇願するには如くはないといふので、その内情を打明けて故人の裁量に一任したのであつて、幸ひ故人は早速快諾されると共に、故人自身としても本工事に對して非常な興味を有ち、特に優秀な技術的手腕ある故人の信任深き松本禹象氏をして專らその任に當らしめられたのである。

最初「心去りの總檜無節」といふ設計だつたから、これはとても出來ない相談だといふので、臺灣檜(たいわんひのき)を代用にといふ話もあつたが、なるべく内地産にして欲しいといふ當方の希望に同情された故人は、松本氏に向つて、『先方の希望通りにしたら何うか。どうせ利益は幾許もないと決つた以上、いつそ欲得を離れてやらうぢやないか』と言つて、當方の希望を容れられたその男らしい態度にはたゞたゞ感服の外はなかつた。

總建坪五百三坪、これを總檜心去り無節でやらうといふのだから、材料を集めるだけでも容易な業でなく、隨(したが)つてこれが爲に大林組の拂はれた犧牲と苦心は尋常一樣のものでなく、加ふるに心なき建築業者であれば、ニス位で濟ますやうな箇所でも總べて高價な漆塗りとせられた如き、如何に故人が細心の注意を拂はれたかを知り得べく、松本氏がよく故人の意を體されて遺憾なきを期せられたのと共に、誠に感謝に堪へない次第である。

建築中始終檢分に來られた故人が、或る時私の肩を叩いて、『大西さん大分苦しみましたぜ。しかしこの檜に節があれば節一つに千圓の罰金を出しますよ』と言はれたほど確信を持たれたのである。大正四年四月に壯麗比類なきこの建築が竣成され、直ちに浪華踊の第一回を名實共に備つた眞の檜舞臺に於て公演し、非常な好評を博すると同時に、その建築の美は世人をして驚倒せしめたのであつた。今日再びかくの如き建築を得んと欲しても、言ふべくして行ふことの出來ないものと確く信じてゐる。

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