大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

編外 手向艸(たむけぐさ)(寄稿及談話)

もたれ合

天野利三郞

世の中は、自分一人で生活の出來るものでなく、もたれ、もたれつ、皆が相倚つて所謂共存共榮で行くのが本當だらうと思ひます。金貸しばかりあつて借り人が無かつたなら金融業者は商賣になりません。私は或る銀行家から、誰々さんには相當御便宜を計つてゐますとか、又は御世話申上げてゐますとか、如何にも恩に着せがましいお話を承つたことがありましたが、その時私は、『銀行からするなら、借り人はお客ぢやありませんか。御贔負に預つてゐますといふのが當然でせう。預金者ばかりがあつて、利廻りの薄い公債位を買つてゐては銀行は立ち行きますまい』と言つて注意したことがありました。故に私からするならば、大林さんは堅いお客樣だつたのです。この靠(もた)れ合ふことで一ツの美談があります。それは北濱銀行事件の時、大林さんは恩人岩下翁の窮地を救はんものと自己の全財産を提供し、岩下翁は銀行からするなら大林君はお客だ、そんな好意は御無用、と言つて斷られたことを聞いてゐますが、雙方(そうほう)共、私の考へにピタリ篏つた實に見上げた行動と常に敬服してゐるのであります。そして『金融家は小さな眼で世間を見ずに、大林さんのやうな堅い事業家にはドシドシ融通して行つてこそ貴重なお金を有効に活用させるといふものだ』と二、三の銀行家にも慫慂(しょうよう)したことがあつたほど、大林さんはお堅い人でした。次に大林さんは非常に朗かで、何かにつけ天眞爛漫の人でした。私の有馬に在る別莊に來られた時など、私方の女中を利用して大阪の宿坊に電話をかけ、相手に燒餅を燒かせなどして、子供のやうに喜んでゐたこともありまして、左樣に天眞爛漫なだけ、總べてに打解けて何等の蟠(わだかま)りも不安もなく、氣持よく御交際が出來たことを歡んでゐます。

故人の伸びた姿

佐藤勇七

故人は同業者間では一頭地を拔いてゐて、何れの方面から見ても完全に近い人であつた。初めて識つたのは明治三十五年六月二十五日だつたと覺えて居る。私が中之島公會堂(以前の建物)を請負つた時、大分紛擾(ふんじょう)のあつた揚句だつたので、大溝組(その頃の大阪では一流の請負業者)主人の肝煎りで、大西屋に請負業者を招待した時であつた。故人の如何にも親分肌なところにすつかり敬慕し、爾來同業者間では最も親しい交誼を續け、種々と恩顧を受け、佐藤組としての私が失敗の時など、肉身も及ばぬ配慮を得たことは感銘に堪へないものがある。

一擧にして名聲を博す

明治三十六年大阪に内國勸業博覽會が開催せられ、その建築を請負つたのを一轉機として大林組の名聲を一層高められた。この博覽會の入札資格は十萬圓以上の工事を請負つた經驗のある者に限るといふことであつたので、入札有資格者は大倉組、淸水組、それに大林組の三人しかなかつた。入札の結果は大林組に落札したのであるが、利益としては大してなかつたやうに聞いてゐる。故人も亦利益そのものよりは名譽を第一にしてゐられた。

上博覽會工事の爲疑獄事件が勃發して、故人は一時收容の憂目に會ひ、種々嚴重な取調べを受けられたが、全部の責を一身に負つて終始一貫誠意を示された結果、豫審免訴になつた。この事件で、官廳(かんちょう)や會社方面に於ける故人の名聲と信用は一段と加はり、私などもよく官廳などで『大林といふ男は偉い男だ。絶對に信用が出來る』と聞かされたものである。

俘虜(ふりょ)收容所と故人の奮鬪

濱寺の俘虜收容所建築に就ては、既に故人は入札が發表される前に大體所要の材木やその他の材料を準備されて居た。その商才と機敏には寧ろ同業者が一驚を喫したのであつたが、この入札も大倉組、淸水組、大林組の手によつて爲され、夜の七時頃愈入札が始められ先づ竣工期間の入札であつたが、開票の結果大倉組が二ケ月、淸水組が一ケ月半、大林組が二十五日といふ順序で遂に大林の手に落ちた。

愈工事に着手すると、疾風迅雷的に懸賞制度によつて惜し氣もなく金を散じ、晝夜兼行豫定の期日にこれを竣工せしめられた。私は他に所用があつて、着工十日程を經て事務所に故人を訪ねたところ、故人はヨレヨレになつた洋服を示し、『家を出る時には新調のを着て來たのがこの通りになつた』といはれたが、實に慘憺(さんたん)たるものであつた。

利益の配當を金主に

一時私の金主と故人の金主とが同一の人であつたことがある。その人曰く、『大林は豪(えら)い男だ。あの人に一度金を融通したら、後を續けずにはゐられない』と感歎久しうしたる後『君達のやうな普通の借り方と違つて、あの人は、約束の期日には間違なく元利揃へて皆濟(かいさい)した上に、利益金を出して、お蔭でこれだけの利益を見ました、この利益は私の獨占すべき性質のものでないから、この中半額をお收め願ひたい、と辭を低うしていふことに未だ嘗て一回も間違つたことはない』と。私はこの話を聞いて誠に自ら顧みて赤面すると共に故人の誠意に感服した。恐らく故人が東西一流の縉紳(しんしん)と交際を爲し、無條件でその支持者たらしめた所以はこゝにあつたのであらうと思ふ。

二言といはず延滯償金を納付

大阪砲兵工廠に故人が出入されるやうになつたのは、明治三十八年頃からだつたと覺えて居る。日露戰爭中乃至戰後は、緊急を要する施設も多く、工事の延滯償金規程が却々(なかなか)嚴重で、中には一日の延滯償金が請負額の二百分の一、百分の一といつた殆ど苛酷に近いものもあり、且つ施工上に於ても隨分嚴格を極め、期日嚴守で有名な大林組でさへ可成り大金の延滯償金を申付けられたことがあつた。橋本組も私も同樣の憂目に遇ひ、私は丁度故人がそれを申し付けられて歸られた後へ出頭し、『それは困る。何とかもう少し負けて貰はなくては立つ瀨がない』といつた風に實情を陳情、哀訴嘆願した。その時の係りは石澤技師で、實に公平無私の人であつたが、『先刻大林組にも償金を申渡したところ二言といはず承知致しましたといつた。請負者はあれだけの誠意がなくてはならぬ。しかるにお前は泣き言をいつて負けろとは不都合千萬だ』とひどい權幕で叱りつけられた。我々の如き普通の者はいつて見たところで結局どうにもならぬものもいはずにはゐられなかつたのに、その邊のことを故人はチヤンと心得てゐられた。

白杉氏の功績

何の事業でもであるが、特に請負業には女房役にその人を得ることが重大な要素を爲すものであることはいふまでもない。故人には白杉氏といふどの點からいつても申分のない女房役を得られたことが故人の光を益大ならしめたもので、大林組が今日の大をなしたのは決して偶然ではないのである。

燃ゆる事業愛

菊池侃二

故人は當時の土木建築請負業者中毅然として一頭地を拔いた人格の士で、官廳方面に於ても故人なら何事も任せきりで監督は不用だといはれたほどだ。苟(いやしく)も故人が請負つた仕事に於て手を拔くといつたやうなことは未だ嘗つてなかつたのみならず、場合によつては犧牲を忍んで仕樣書以上の仕事を爲し、『大林は無茶に廉い札を入れて人困らせをする』と寧ろ同業者から異端者扱をされたが、平然として自信に生きてゐた。古武士そのまゝの責任感の強いことに至つては絶對に他人の追隨を許さぬものがあつた。

組織的に學問はされなかつたと聞いて居るが、驚くべき明晳細緻な組織的頭腦は、如何なる難問をも立所にこれを解決し、事に當つて動ずるといつたやうなことがなかつた。

故人は平等を尊び、その人に接するや貴賤に論なく、親疎に別なく、終始同じ態度で燃ゆるやうな人間愛を以てこれを迎へ、その事業に携はるや、事業そのものを熱愛して決してこれをおろそかにしなかつた。

しかし人に對し、事業に對し、全身の愛を傾けた一方、自己に奉ずること頗(すこぶ)る疎く、殊に身體を虐使した結果、惜しい哉、前途ある生涯を不幸短命に終られた。思へば實に千秋の遺恨である。

(つよ)い力と優しい力

菊池幽芳

私は西宮で故人の借家に住つて居た關係でお心易くなつたといふだけで、故人を訪問して會談したやうなことは一度もなく、從つて語るべき材料も有つて居ないが、普通の家主と違つて我事のやうに何かと親切に面倒を見て頂いたことを、今も尚大いに感謝してゐる。偶然途上で逢つて立話の中にも、何等腹藏ない開けつ放しの快活な態度は、いつも愉快に感ぜられた。この二つは故人に對する深い印象として未だにハツキリと頭に刻みつけられて居る。かういふ風な強い事業力の半面に、優しい人情味の饒かな故人の傳記は、多くの敎訓を後人に貽(のこ)すことゝ信じて本傳の完成を祈る。

放膽(ほうたん)と細心

予の見たる故人は風釆等には一切無頓着な人であつた。その風丯(ふうぼう)は何となく寬くりした事業家肌の人で、事を處するに果斷、一度び意を決したが最後私情に支配さるゝことなく、大局を洞觀して一直線に邁進した。一見如何にも放膽一方の所謂猪武者のやうであつたが、又一面非常に緻密なところがあつた。故人の遣つて來られた事業を通觀すると、頗る大ざつぱなやうであるが、實は極めて組織的な計數に基礎が置かれて居るのに驚かされる。この男性的な放膽は實に千思萬考、細心の工夫から生れ來たものであつた。

天もし故人に假すに猶二十年を以てせば、社會に殘したその功績は蓋(けだ)し測るべからざるものがあつたらうに、實に惜しいことをしたと思ふ。

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