大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

二十二 廣島瓦斯と廣島電軌の創設 四十六歳―四十七歳

事業界の處女作

岩下翁の後援を得て以來、天馬空を行くの勢を以て進んで行つた故人は、更に岩下翁より事業界に進出を勸説(かんせつ)され、さなきだに先天的に進取の氣に燃える故人の氣魄は忽ち燎原の火の如く、敢然として馬を事業界の陣頭に乘り入れたのであつた。

即ちその處女作として廣島瓦斯會社を創立したのであつて、しかも水際立つて鮮かなその手腕は、玄人跣足(はだし)といつてよく、大阪財界の一角に偉なる哉大林を叫ばしめたのである。時は明治四十二年十月、片岡直輝、岩下淸周、島德藏、志方勢七、渡邊千代三郞の諸氏並に廣島の有力者數名と共に組織したものであつて、未だ曾て事業經營に參畫したことの無かつた物堅い片岡翁を出馬せしめた故人の手腕は、事業界進出の第一歩に於ての大成功であつた。而して片岡翁を社長に戴き、故人は取締役であつた。白杉氏は『當時翁と故人とは單に知合といふ程度の交際であつたのに、僅か一宵の會見で起業の相談が忽ち纒り、翁自ら社長の任を諾されるなど、偉人間の肝膽(かんたん)相照す動機は如何にも神秘的だ』と言つてゐられるほど、當時大阪事業界に於ける一話題となつたものである。

廣島電軌

越えて四十三年二月、廣島瓦斯と同じ顏觸で、廣島電氣軌道會社が生れた。故人は創立委員長で開業と同時に社長の任に就いた。これより先、廣島電氣軌道設立の認可申請は四件を數へ、互に縣當局に猛運動を試みたのであつたが、就中(なかんずく)福澤桃助氏を背景とする松永安左衛門氏等東京派の運動は最も熾烈を極めたものであつた。しかるに東京派の出願線と、故人等大阪派の出願線とが偶然一致してゐた爲、縣當局は兩派に對し相互妥協の得策なるを勸説したが、東京派は先願を楯に一歩も讓る意思はなかつた。偶松永氏の廣島入を耳にした故人は、一夕飄然(ひょうぜん)として松永氏をその旅宿に訪(とぶら)ひ、胸襟を披して懇談した。

廣島電軌櫓下停留場
廣島電軌櫓下停留場
廣島電軌千田町發電所前
廣島電軌千田町發電所前

松永氏の雅量

會談の内容は知るよしもないが、松永氏は全幅の好意を以て自派の出願權を無條件の下に放棄することを諾された。勿論豪宕大腹(ごうとうたいふく)な松永氏の雅量が、いはゞ當時電氣事業上の小學生だつた故人を憐んでの讓歩であつたかも知れないが、一夕の談笑によつて相當縺れた問題が解決したのは、當時一種の奇蹟として眺められたのであつて、剛腹な岩下翁を動かし、謹直な片岡翁を起たせ、今又松永氏の雅量を買ふなど、恰も蘇秦が六國連衝の華かさにも似て、故人の樽俎折衝(そんそせっしょう)の間に於ける才腕は想像も出來ないほど鮮かなものがあつた。

同社は大正元年に至つて營業を開始し、池田源十郞氏を常務取締役に任じ、業務日を追ふて隆盛に向ひつゝあつた折、同五年故人の物故に遇つて神戸鈴木商店系の經營に移つたが、その後瓦斯會社と合併して廣島人士の手に歸し、今や業務倍々隆昌を加へつゝある。

廣島電軌と土地買收

元廣島電軌專務取締役 池田源十郞氏談

故人は極めて果斷直行の人で、一度び是なりと信じたが最後、一路邁進して他を顧みなかつたものである。さればとて徒らに猪突的に進むのではない。進む中に非なりと見極めがつけば、方向を轉換することも極めて淡白で、些かも躊躇するところがなかつた。

廣島電軌が創立されて愈用地買收に着手したところが、地主連は會社の交渉に對して誠意ある態度に出でず、法外な値段を吹きかけ、果ては不賣同盟を作つて對抗するなど到底穩和な手段による解決は困難な状態となつたので、會社側でも對抗上已むを得ず全部を土地收用審査會にかけたのであつたが、不賣同盟側もこの強硬な態度に怖れをなし、漸次良好の進捗を見て買收の結末を告げるに至つた。

その當時廣島に堀内茂吉といふ同地方で一、二を爭ふ請負師があつた。この人は故人に似た性格の人で頗(すこぶ)る義俠心に富み、若手ではあつたが却々(なかなか)のやり手であつた。同氏は故人の苦境に同情し、地主と會社との間の調停に立つて東部方面の買收に種々斡旋するところあり、故人は氏と會見して無條件の下に一任してしまつた。私等は『土地買收に付ては既に標準値段が決定して居り、それを超過しては延(ひ)いて他方面にも影響し、由々しき困難を來すかも知れないから、この限度を超過しないといふ條件で一任して貰ひたい』と提言したのであつたが、故人は私等の意見をたゞ『フンフン』と馬耳東風的に聞いてゐただけのやうで、結局夫々交渉は纒つたが、値段は果して豫算を超過して居り、遣り繰に辛苦したことがある。しかしこの場合僅かな價格の高低に拘泥して徒らに時日を遷延せば、更に買收に困難を來すのみならず、總べての計畫に齟齬を來し、それが爲に蒙(こうむ)る會社の損害はより以上多大なものがあつて、一般の非難も亦免れなかつたであらうと思はれる。實に故人は眼を大局の上に注いだのであつて、その果斷はよく危地を救ひ得たのである。その他西部は海塚新八氏の盡力や、重役の一人たる故早速整爾氏の力によつて解決を見たのであるが、何れも故人の先見と果斷に負ふところが頗る多かつた。

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