大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一編 前期

四 故人の幼時

パツチリとした眼、キツパリとした眉、丸い輪廓の豐頬、肉付のよい體軀、見るからに可愛らしい子、これが故人の幼時に於ける風貌である。他日砂崎氏が故人の容貌を一目視て惚れ込んだのも偶然ではない。戰場のやうな激しい商賣の行はれる靱、丁稚小僧に至るまで氣が早い。かうした環境に育つた故人、不具でゞもなかつたなら腕白は當然のこと。しかしその腕白にも二樣ある。一は無邪氣なもの、一は陰險なもの。故人の腕白は前者に屬するもので、先考德七氏がこの少年の前途に望みを囑し、『大林家を興すのはこの子だ。他の子供等と違つて手におへぬ中にもどこか大きな面白いところがある』と常に語つて可愛がつたこと一と通りでなく、その臨終の際、既に明を失つてゐたが、故人を枕頭(まくらもと)に招き、『由や、由や』と言つて手さぐりに頭といはず顏といはず撫で廻し、遂に指端を故人の口中にまで入れ、『偉い者になれよ』と言つたのが最後の言葉であつて、數ある子女の内、別けて故人に對する愛着の強烈さを窺ふに足り、故人も亦父の愛を偲び、父の遺した最後の言葉は終生耳の底にこびり付いて離れなかつたのである。

寺小屋と小學校

明治三年七歳の時より同五年九歳に至るまで、町内の志方勢七、田中市太郞、金澤仁作の諸氏と共に、太郞助橋南詰なる西村太郞助翁の寺小屋に入門して昔風の敎育を受けた。明治五年には大阪最初の小學校西大組六番校(今の靱小學校)が開校したので、朋輩と共に轉學(てんがく)して最初の小學校敎育を受けたのである。この學校こそ故人にとつては記念の母校である。

究明癖

時に腕白の振舞もあつたさうだが、よいことには先天的に物事を究明する癖があり、家庭に於て『この子は五月蠅(うるさ)いな』と言はれたほど何事にもあれ根堀り葉堀り追及して已まなかつたのが常で、この習性が學校に於ても鋒鋩(ほうぼう)を現はし、總べての點に注意深く、腕白に似合はぬ篤學振(とくがくぶり)を示して、學業は常に衆を抽(ぬき)んでてゐた。成功後の晩年は祕書あり從者ありで筆執ることも尠かつたが、稀に殘るその筆蹟は性格をよく現はした雄渾(ゆうこん)のものである。

竹馬の友

元代議士 金澤仁作氏談

大林さんと私とは暫く寺小屋友達でした。同じ朋輩の志方勢七さんや田中市太郞さんも大林さんと前後して物故されて、當年の腕白仲間で生存してゐるのは私一人になりました。

大林さんの御成功は私共靱仲間の名譽としてゐる。その子供時代のことは私の記憶には多く殘つてゐないが、寺子屋の西村先生の薄暗い二階の敎室で、草紙に水を流して手習をしたふうをするなど、お互に子供らしいわるさをしました。先生から司馬温公の甕割りの話を聞いての歸りがけに、どこかの用水に石を投げて『司馬温公の甕割りぢや』と騷いで叱られたこともありました。大林さんは腕白にかけては一黨(いっとう)の親分であつたが、學業も衆に秀でてゐた。父上德七さんが歿くなられてから、いつしか麴屋呉服店へ奉公に行かれて、暫く私達と消息を絶たれました。

志方さんと私とは相變(かわ)らず多年竹馬の友情を續けてゐた。志方さんの宅は精進肥料といつて油糟を主とした農業肥料で、大和、河内などの山國を得意とし、私方は海産肥料を主として江州、若狹邊から註文が參りました。大林さんの父上はよく本家へ見えたので子供心にもよく覺えてゐる。體格のよい、温和しい、正直なお人でした。『德七さんは見上げた人だ』とよく本家の仁兵衛老人が人に話してゐました。

靱の海産問屋と小賣との關係や、仕入先と賣捌きの方法などは今詳しく申上げる必要はないが、北は北海道及北國筋、南は中國、四國邊からも仕入れたもので、殊に北の方から來る人の風俗や言葉などは中々面白いものでした。しかし大林さんは幼少の頃から靱の家業を離れ、身一つで樣々の苦勞を體驗され、遂に堂々たる建築業者として大林組を創始し、大林家中興の大業を成就されたのであつて、一生を靱以外に出たことのない私共には、大林さんの御成功は實に異常の驚歎ともいへます。

大林さんとは晩年に屢(しばしば)お目にかゝり、時々昔話などして親しい御交際をしてゐたが、今は昔の知友の皆樣に死別れて私獨りが佗しい餘生を送つてゐる次第で、寂寞の感を禁じ得ません。

編者曰く、金澤氏は故人の幼友達として大切な方であつた。この話をして頂いて間もなく、氏も亦逝去せられ、故人の親しい竹馬の友は全く一人も居られなくなつた。

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