大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

二 長逝 五十三歳

長逝

故人は、大正五年一月二十四日午後九時五十分、ミキ子夫人、息義雄、長女房子、愛婿賢四郞の諸氏を首(はじ)め近親一門並に砂崎庄次郞翁、佐々木伊兵衛翁、今西林三郞氏等に枕頭(まくらもと)を護られ、現世の煩惱を斷滅して、安らかに、靜に、眠るが如く大往生を遂げられたのである。享年五十三、噫(ああ)

看護十ケ月、寸時も蓐(しとね)側を離れなかつた面窶(おもやつ)れのミキ子夫人の慟哭、我が子を失つたやうに拳骨で涙を拭ひつゝ慟き悲しむ砂崎翁、一家一門、一族郞黨(ろうとう)、眞に心から聲を放つて泣いた。沙羅雙樹の下に涅槃に入つた釋尊が、生きとし生ける禽獸(きんじゅう)の末にまで慕ひ悼まるゝその尊さにも似て、故人の一生涯を通じて堆積された宏大な德行が、かく衆人をして追慕已まざらしめたのである。

嗚呼、巨星は隕ちた。眞の才幹を揮つたのは僅に十星霜に過ぎず、今や脂の乘りきつた矢先、なほ籍すに春秋を以てせば、勢の趣くところ必ずや世を蓋ふに足るものがあつたであらうに、しかも事業界發達の過渡期に於て、堅實豪快な故人を失つたことは、事業界にとつても一大損失といはざるを得まい。

急遽枕頭に馳せつけた知友の中、とりわけ岩下翁の顏には限りなき哀愁の情が形はれ、往年華城の一名物としてその豪俠を謳(うた)はれた故人の遺骸に對し、瞑目時を久しうして感慨に沈む樣は他所目にも哀れをとゞめ、同じ思ひの今西林三郞氏と相見てたゞ長大息するのみであつた。

岩下翁の愁嘆

岩下翁は人々に向ひ、『誠に惜しい人物を失ひました。故人の如きは男子中の眞男子。信義に敦く、友情に富み、當世得易からざる人物だつた』と述懷を洩されたが、その言々悲痛を極め、列座の人々孰(いず)れも涙を呑んだのであつた。

達人の最後

赤十字社大阪支部病院長醫學博士 前田松苗氏談

私は、大林氏のやうな偉大な性格の持主の病氣に對する觀念について觀察することは、刀圭家としての一の義務と心得、細かにその行状を見つめてゐたのであるが、病中大阪より夙川別邸へ引越をする際、幹部社員を枕頭に呼んで後事を託される有樣を傍で見聞してゐると、その人々に應じてそれぞれの注意を與へ、毫も命令がましいことなく、穩かに『よいか』、『賴むよ』といつた風で、豐かな人情味と細心周到な性格が窺はれて感激せずにはゐられなかつた。

私は、最初故人をたゞ豪放な人とのみ考へてゐたので、定めし病中にも強情を張つて治療上に困難を來す場合も多からう、と豫期してゐたのであるが、醫師を絶對に信じ、極めて柔順にその言を容れ、病人通例の昂奮もなく、療養專一と心を落つけてゐられた。實際あゝした活動家で事業も手廣くやつてゐられるだけ、事業上焦慮される問題もあり、焦慮の結果は如何な人でも氣儘が出るものであるが、故人には見たくともそれが無かつた。これはその人の性格にもよるが、多くは餘程の修養を積まれた確固たる信念の持主でなくては出來ないことである。

私が故人と知り合になつたのは上原元帥を通じてゞあつた。上原元帥が赤十字病院に入院されてゐた時に再々來られたやうだが、それが故人であることをはつきりと知らなかつた。その後元帥が退院されて、夙川の大林氏別邸で養生をされるやうになつてから、初めてあの時の人が有名な大林氏であつたことが判つた。

元帥は常に故人を評して、「實に愉快な男でのう、あゝいふ男は國家の爲に必要だよ』と非常に意氣に感じて推賞されてゐたが、後に至つて或る人から旅順口閉塞船の石材積込みのことを聞くに及んで、これある哉と感じたのであつた。

夙川に轉居するときも、どういふ方法で病人を動かすことが對症上合理的であるかと、いふ點について協議の結果、電車を借り切つて、電車の中で釣臺(つりだい)をそのまゝ擔ぐことに決定したのであつたが、相當時間重態な病人には隨分苦しかつたであらうと思はれる。それをよく堪え忍んだことは少からぬ訓練の結果であつたらうが、『苦しいでせう』、『いや大したことはない』と故さらに微笑を浮べられたのを、私は涙なくしては見てゐられなかつた。故人が瞑目された時、『俄に大木が倒れたやうに感じた』と實感を洩された人があつたが、私も亦かく直感したのであつた。

人事を盡した對症療法

主治醫 別府諭一氏談

故人の病症に對する手當は、楠本、坪井、前田、高安諸博士に、京都の中西博士、東京の入澤博士といつた風に、殆ど天下の國手がその蘊蓄(うんちく)を傾倒して對症療法を施され、その下に眞島醫學博士を首め、私達數名の醫師が交互に附添ひ、毎日前記の博士が會議を開いてその手當と處方をされ、夜は當直の醫師が詰め切つて一刻も離れず、看護の手も充分であり、手當としては些の遺憾もなく殆ど人事を盡したのであつたが、天壽は如何とも致し難く、遂にその效果を見るに至らなかつたことは眞に遺憾の極みであつた。病因はあゝした元氣一杯の人で、不眠不休的活動家によくある過勞の結果で、糖尿病がそれを誘導したものである。途中で西宮夙川の別邸に轉地をされたのであつたが、病氣は依然一進一退の状態を續け、逝くなられる直前まで極めて意識は明瞭で、少しの取り亂した樣子もなく自若として居られたのは、その修養と人格が偲ばれて肅然襟を正さしめるものがあつた。

太つ腹な人であつただけに強情でもあつた。しかしながら治療に對しては如何なる場合も柔順に、醫師を絶對に信じて心持よくこれを受け入れ、靜脈注射の如きは、今でこそ醫術も進んで何んでもないことであるが、その當時は極めて新らしい對症療法とされてゐたものも喜んで應諾された。今日私がこの靜脈注射に自信を持ち得るのも、かうした故人の襟度から得たものが多く、それを思ふとき感慨無量のものがある。

臨終の際は前記の諸先生孰れも立會されたのであるが、安らかに所謂大往生を遂げられたのは、大人物の名に恥ぢぬものであつたと口を揃へて推賞せられたのである。

弔問者

翌一月二十五日、訃報一度び傳はるや、夙川邸への弔問客は陸續(りくぞく)として絶えず、その數無慮一千六百餘名の多きに達した。その他遠隔の地からの弔詞、弔電は山をなし、故人の生前に於ける交友範圍が如何に廣汎(こうはん)であつたかを想はせた。

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