大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二編 本記

十二 朝鮮の奉仕 四十一歳―四十四歳 1 京義間停車場及機關庫工事

無謀の擧

當時朝鮮の地に羽翼を張つてゐた大倉組その他の同業者は、相當年月の下に、地方的の經驗も積み、且つ勢力も張つてゐたので行くとして可ならざるはなかつたが、大林組に至つては、人情風俗も、運輸系統も、諸材料の市場關係も、職工の能力又は賃銀等も、殆どお先眞暗で飛び込んで行つたのだから、辛酸苦楚のこれに伴なふのは當然である。

停車場工事の難

まして五十九箇所に分布された停車場工事に至つては監督も統制も採れたものでない。加ふるに當時鐵道敷設未完成の際、山あり、川あり、沼あり、原ありで、彼の朝鮮特有の荒涼たる山野を行くのだから諸材料の運搬には言語に絶する困難が付き纒つたのである。中には職工の宿所も無く食料さへ滿足に求め得られない邊陬(へんすう)の地もあつた。だから能率の擧らぬのは無論のこと、職工等の逸散を防ぐ爲には多大の苦心と犧牲を拂つたのである。このやうな有樣だから順調に工事の進捗する筈がなく、工費も亦嵩む一方で、工程の央にも達しない内に請負金の大半が支出されてしまつた。全く支離滅裂の状態で徒に軍部當局の怒りを買ふに過ぎなかつた。大阪本店の故人宛に臨時軍用鐵道監部より嚴重な問責的督促又は召喚電報が頻(しき)りに飛來する。折も折、内地に於ては第四師團、第五師團、第十一師團等より尨大且つ火急な豫備病院建設の用命を受けて鼎の沸くやうな混雜さ、豪邁不覊(ごうまいふき)の故人もこの時ばかりは狼狽せざるを得なかつた。

白杉氏の渡鮮

遂に急遽股肱(ここう)白杉氏を派遣して收拾の任に當らしめることゝした。白杉氏は、出發に臨み在鮮の關係社員一同に對して仁川支店に集合すべき旨を豫め電命して置いたので、上陸するや直ちに現状を聽取すると共に將來の對策を凝議し、その成案を得ると同時に、故人に宛て資金二十萬圓と、社員二十人、大工、手傳、左官を合せ三百五十人の急送を打電し、萬事の手配を充分に整へた後臨時軍用鐵道監部に出頭した。その時白杉氏は二十九歳の靑年であつた。

若造

弱冠白杉氏の出頭を見た某係官は眞赤になつて『大林芳五郞といふ男は無責任極まる奴だ。何故自ら出頭しないか。人もあらうに君のやうな若造で何が出來る。事こゝに至つては工事の返上を命ずるより外に途がない』と、とり付く島もない激怒である。白杉氏はたゞ低頭平身暫時の猶豫を請ふて支店の宿舍に戻つた。氏は無能呼ばはりされた首尾からしても、是非自分の電請が故人に容れられてほしい。道すがらそれのみ案じて歸宿すると、間もなく故人より『承知した、直ぐ送る』との返電が着いた。氏は我が事成れりと泣かんばかりに喜んだ。數日を出でずして資金は完全に入手し、社員、職工も續々やつて來る。氏は遲延挽回に全力を傾倒して鬪つた。

反對の褒詞

須臾(しゅゆ)にして竣成の峠がありありと見えて來て係官の愁雲を一掃することが出來た。その時某係官は白杉氏に對ひ、今度は正反對に故人を激賞し、『大林といふ人は見上げた男だ。良い家來を有つたもの。若造と蔑視(みくび)つた君にあゝした手腕があるとは想像も及ばなかつた。この上ともしつかりやつて貰ひたい』との言葉であつた。白杉氏も亦『入社以來五箇年、自分に對して故人の信任の深いのをこの時ほど痛切に感じたことはなかつた。士は知る者の爲に死すといふが、詳しい報國も手にしない内に、如何に報告の赤誠より出たとはいへ、二十九歳の若造が打つた一片の電報に對し、直ちに二十萬といふ大金を送られたその襟度の大に思ひ當つた時、自分はこの人の爲ならといふ堅い決心が出來上つたのである』と今に當時の感激を洩されてゐる。白杉氏が故人の歿後、生きた出師表(すいしのひょう)を織り出したのもこれが最初の動機となつたのである。

さしも困難を極めた工事も、白杉氏の畫策統制宜しきを得、遂に無事竣成を告げたのであつた。

犧牲となつた大林組

初めこの工事の請負が發表された時、朝鮮の事情に通曉する請負業者の全部は、巧に種々な口實を設けてこれを回避したものださうで、恰も良し不知案内の大林が飛び込んで來たのを幸ひに、こゝぞとばかり大林組を利用したものであるとは、當時の口さがなき京童の取沙汰で信を置くに足らないが、何人がその衝に當るとしても同一運命を辿つたことは想像に難くない。故人はかくして現實的には莫大な損失を招いたが、翕然(きゅうぜん)と起つた軍部當局の同情と、白杉氏の殉職的決心を促し得たその收獲は何ものにも替へ難い尊いものであつた。

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