大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 創業のころ

第一節 大林芳五郎―おいたち

乾物問屋「大徳」の三男―初名は由五郎

企業のもつ社是、社風は、創業者の個性を反映するのが常であるが、大林組の八十年を回顧するとき、特にその感が深い。それは大林家の当主が三代にわたり、社長の職を継承したことにもよるであろうが、初代大林芳五郎の精神が、現代もなお強く生き残っているからである。心の持ちかたにおいて誠実、事業の信条として廉、速、良をかかげ、それを実践したのは彼であった。大林組が今日の大をなした理由は、いくつかあげられるが、主としてこの伝統にもとづくものと考えられる。そこで、この八十年史を記述するに当たっても、まず大林芳五郎その人からはじめなければならない。

芳五郎は元治元年(一八六四)九月十四日、大阪靱永代浜(現・西区靱公園)の塩と北海産乾物問屋「大徳」、大林徳七の三男として生まれた。初名は由五郎で、芳五郎は明治三十五年(一九〇二)以後の称である。徳七は代々「大和屋」を名乗った林家から分かれ、大和屋の「大」を冠して大林としたもので、大林家の始祖となった。

林家の出自は河内国志紀郡の名族、林臣海主と伝えられるが、菩提寺竜淵寺過去帳その他の資料により、元禄十三年(一七〇〇)没の林徳兵衛重則を中興の祖とする。彼は大阪、伏見間の水運に当たった淀川過書船の元締として、苗字帯刀、御用提灯を許された。南、北、天満三郷の総年寄とともに、武士として待遇された少数の大阪町人のひとりで、これらの職につくのは、人材であると同時に富商であることを要したから、大和屋は当時の大町人であったと思われる。

淀川過書船
淀川過書船

過書船元締の職は、重則、重孝、重浄の三代にわたって受けつがれ、重浄はさらに持ち船泰運丸によって海運業をいとなんだ。その範囲は、瀬戸内海から九州におよぶ水域で、特に桐材の輸送と販売に力を入れ、土佐堀に問屋を設けて、いよいよ富み栄えた。こののち正固、篤固、篤祐、徳助とつづき、篤固は海運業のほかに肥物(肥料用乾しイワシ)商をも兼ねたが、歴代のうち、重則、重浄、篤固の三名が、特にすぐれていたといわれる。徳助にいたって海運業をやめ、塩と肥物類の問屋を専業とした。

大林家の始祖徳七は、この七代目徳助の弟で、分家して「大徳」を店名とし、本家と同じ業をいとなんだ。あたかも幕末維新の動乱期に当たり、幕府が本拠とした大阪は、長州征伐、兵庫開港問題など、政情不安と経済変動の渦中にあり、また新政府成立後は、藩債処分、株仲間解散、銀目廃止などによって、大阪商人が壊滅的打撃を受けた時期である。この激動のときに一家を創立し、しかも間口一五間(二七メートル)の店舗をはるにいたったというから徳七の器量を知るべきであろう。

その徳七は明治六年(一八七三)十月、六十四歳で没した。遺族は未亡人美喜と、こま、たね、太三郎、由五郎、たか、の二男三女(長男直二郎は早世)で、由五郎はときに九歳であった。家業はそのまま美喜が継続したが、大阪経済の最も沈滞したときでもあり、いかに勝気であったとはいえ女の身として経営に当たるにたえず、ついに七年にして店を譲らざるを得なかった。

呉服商「麹屋」で人生修業第一歩

由五郎は明治三年(一八七〇)、六歳のとき、太郎助橋南詰(現・西区阿波堀通二丁目あたり)の寺子屋西村太郎助の塾に入門したが、同五年(一八七二)学制が発布され、大阪最初の小学校・西大組六番校(のちに靱小学校となり廃校)が開かれると、ここに転じた。当時の同窓に、のちの有力実業家、(注)金沢仁作、志方勢七、田中市太郎の諸氏がいる。このころの彼は目が大きく、頬がゆたかで、肉づきがよく、見るからに愛らしい少年だったと伝えられる。

徳七の死の翌年春、由五郎はわずか二年で学業をやめ、西区問屋橋北詰(現・西長堀北通三丁目あたり)の呉服商麹屋又兵衛氏の店に丁稚見習いとなった。当時「大徳」はまだ営業中で、一〇名近い雇い人もいたから、これは貧窮のためではない。丁稚奉公は一般に行なわれた商家の職業教育で、病弱な兄太三郎に代わり、大林家を継ぐためであった。徳七はその臨終に当たり彼を枕元に招き、無意識のうちに手さぐりで彼の頭をなでさすりながら「えらい者になれよ」と遺言したといわれる。太三郎は明治九年(一八七六)僧籍にはいり、由五郎が家督を相続したが、それは亡父の意志によるものであった。

由五郎(麹屋時代)
由五郎(麹屋時代)

丁稚となった彼は、角帯に前垂れをかけた前髪姿(まだ商家では断髪が行なわれなかった)で、名も徳松と改めさせられた。掃除や水くみなどの家事雑用から修業をはじめ、店頭に出たのは約一年のちである。記憶力にすぐれた彼は、接客の方法、呉服の種類名称をはじめ、記帳整理にいたるまで、必要な実務知識を三年たたないうちに身につけた。彼の性格である周到と綿密は父から受け、果断や機敏は母に似たといわれるが、それらの長所はここでも発揮された。また後年にみられる人間的魅力も、すでに当時からそなえていたらしく、年長者を含む十数名の丁稚はいつかその統制に服するようになった。

こうした能力を主人又兵衛氏に認められ、三番番頭に抜擢されたのは、明治十三年(一八八〇)、彼が十六歳のときである。番頭にふさわしく、徳助の名を与えられたが、それは「十八歳にいたるまで番頭たるを得ず」という店則を破るものであった。

麹屋又兵衛氏
麹屋又兵衛氏

家名の興隆―安易を捨て独り立ちへ

この麹屋は堀江六丁目の大呉服商、麹屋太平の分家であるが、このあたりでは大店に数えられていた。又兵衛氏夫妻に男子がなかったので、娘に養子をとるつもりであったため、由五郎の破格の抜擢は、その候補者としてであった。これは母美喜にも伝えられたが、すでに大林家の当主である彼には、他家を継ぐ意思はなかった。「大徳」はすでに家業をやめ、二姉は嫁ぎ、兄は仏門にはいって、家には母と妹を残すのみである。「家」に対する観念が絶対的であった当時、大林の家名を興すことこそ、彼に与えられた最高の使命でなければならなかったからである。彼が熟慮の末、目前の安易な道を捨て、主家を去ったのは明治十五年(一八八二)十一月、十八歳のときのことである。のちに大林組創業に当たり、彼を助けて大林組四天王のひとりとよばれた福本源太郎は、このころ麹屋の丁稚で福松と称していた。

由五郎のこの行動は、一時的にではあれ又兵衛氏に不快の念を与え、忘恩の徒と感じさせたようである。しかし、のちにその誤解がとけたのは、明治二十三年(一八九〇)九月、新町焼けとよばれた大火に際してであった。このとき請負師となっていた由五郎は、旧主家の急を知ってかけつけ、部下十余名とともに身を挺して奮闘した。家財や商品を運べるかぎり倉庫におさめ、完全に目塗りをしたため、店は焼けたが動産のほとんどは救うことができた。これを機縁として交情が復活し、明治三十六年(一九〇三)、又兵衛氏の死にいたるまで変わることがなかった。この年はあたかも大阪に第五回内国勧業博覧会が開かれ、その会場建設は大林組によって行なわれて、由五郎の名は全国に知れわたっていた。このことは彼にとって、旧主に対するなによりの報恩であったと思われる。

麹屋を去った由五郎は、独立して呉服の小売商を開業した。しかし、その決意と努力にもかかわらず、この独立は失敗であった。明治十五年(一八八二)は西南戦争後のインフレーション収拾のため、松方大蔵卿が行なった緊縮政策によって、はなはだしい不況の年であった。呉服商などの新規開業には、最も不適当な時期であり、同時に由五郎の淡泊な性格も、この種の業に合わなかったようである。掛け売り制度であったから、販売成績は上がっても集金が問題で、集金の督促などということは彼の最も不得手とするところであった。そのため開業して半年もたたないうちに、早くも資金的にゆきづまるようになった。

由五郎(呉服商自営時代)
由五郎(呉服商自営時代)

転針―土木建築請負業を志す

彼が人生航路に転針を試み、土木建築請負業に志したのは、このときである。請負師の名が遊侠の徒と混同され、なかば賤業視された当時、この道をえらぶについては相当な勇気を要したであろう。しかもそれをあえてしたのは彼の達見で、この業の本質をよく見きわめ、将来の発展を確信したからにほかならない。

そのころの大阪は文明開化の一先端で、造幣局や川口居留地の煉瓦造洋館、京都、神戸間の鉄道開通は、人々の目を見はらせた。だが由五郎の場合は、単にそれを驚異として受けとめたばかりでなく、さらに触発されて、これらの建設にまで思いをおよぼしたのであった。すでに麹屋にいた時代から、外国の大建築の写真や印刷物に興味をもち、ひまのあるたびに見ていたといわれるのをみても、この決心が一時的な思いつきでなかったのが知られる。

彼はその修業の地として、東京をえらんだ。それは文化の中心として適当と考えられたのみでなく、同時に周囲の偏見に対する配慮から、自由な環境をもとめる意味もあったようである。この望みは幸いにしてかなえられ、知人の紹介で宮内省出入りの請負業者、砂崎庄次郎氏のもとに身をよせることができた。明治十六年(一八八三)七月、由五郎十九歳のときである。

砂崎家は、桓武天皇のころから御所の作事方をつとめ、中祖安兵衛は慶長年間(一七世紀初頭)、角倉了以とともに高瀬川を開いた家柄である。また慶応三年(一八六七)には孝明天皇御陵の築造に当たり、遷都後は東京に移って宮内省御用となった。由五郎入店の当時は、明治六年(一八七三)に焼失した皇居造営のため、旧西丸と山里の地形工事を請負っていた。

砂崎庄次郎氏のもとで皇居造営工事に従事

このころ東京の業界では、渋沢栄一の知遇を得た清水組が君臨し、大倉組商会も土木部門に大きく進出していた。砂崎家はそれにくらべ、かならずしも大業者とはいえなかったが、彼がここに入門したことは幸運だったといわなければならない。それは庄次郎氏が家柄にふさわしい人格者であったので、技術、知識を習得したことのほかに、その人柄の影響を強く受けたことである。由五郎の人間形成に当たって、麹屋又兵衛、砂崎庄次郎の両氏は、ともに忘れることのできない人々であった。

彼は入店三日目に、皇居工事現場の出面係を命じられた。その後は「徳さん」の名でよばれ、出面、帳付け、そろばんなどの庶務会計を担当した。法被(はっぴ)と腹掛を着て、荒くれ男たちと交わるのは、生まれてはじめての経験であるが、もちまえの融和性でたちまち彼らと親しくなった。また、その堂々たる体軀と強い腕力は、男たちを畏怖させるものがあったといわれる。

この工事は翌十七年(一八八四)二月に一応終了して、本工事にかかるまで若干の余裕があった。そこで次に担当したのが、東海道線と東北本線をつなぐ品川、赤羽間の鉄道工事である。これは延長一三マイル(二〇・八キロ)を十四カ月で完成するという、当時としては驚異的な短期工事であった。この間、彼は測量、切取り、盛土、運搬から土留め、石垣、埋管にいたるまで、土木に関するひととおりの基礎知識を習得した。

この工事中、その精励ぶりを見た砂崎氏の知人吉田定氏から、名古屋師団豊橋分営の兵舎工事について応援を依頼された。由五郎は建築については全然知識も経験もないので、かたく辞退したが、吉田氏は重ねて懇望した。また砂崎氏も将来のためにと勧めたので、ついに意を決して半年を期限に承諾した。

その担当は材料係で、木材の種類や名称さえ知らない彼にとって、重い負担であったことはいうまでもない。しかし、生来の負けじ魂とあくなき研究心によって、材料の品位や特質、用途、価格など必要な知識をたちまち身につけ、さらに現場に立って、その材料がいかに用いられるかを見守った。このことは当然、煉瓦工事、石工事、大工工事、左官工事など、当時行なわれた建築工事の施工全般を把握するに役立った。またこのとき彼は、はじめて施主、監督と直接折衝する立場におかれたが、これも大きな収穫だったといわなければならない。

ここで半年をすごしたのち、明治十八年(一八八五)五月帰京した由五郎は、本格的になった皇居造営工事に従事した。工事はほとんどが直営であったが、砂崎家では関連の各種工事二八件を請負ったので、彼も参加することができた。最初の地形工事と鉄道工事で、土木関係の基礎知識を得て、さらに小規模ながら兵舎工事で建築の経験をもったことは、彼を大きく成長させた。砂崎氏が旅行で不在中、女官部屋の敷地盛土と地ならし工事の見積りを命じられ、彼自身が積算して見積書を提出するまでになった。

この見積りはきわめて低く、帰京した砂崎氏の目には損害必至とみられた。責任を感じた由五郎は、みずからこの工事を担当して、昼夜をわかたずはたらいた。その結果、工期以前に竣成したばかりか、決算には若干の利益を生じて周囲を驚かせた話が伝えられている。 皇居は明治二十二年(一八八九年)一月完成し、憲法発布式典は紀元節(二月十一日)にここで行なわれたが、規模においても、材料、施工についても、木造建築では空前のものといわれた。砂崎家が担当した部分は、同二十年(一八八七)秋にほぼ終わり、由五郎が関与したのは二年間にすぎないが、この模範的大工事を体験したことは、のちの彼に大きな影響を残した。大林組の伝統とする材料の精選と入念な施工は、ここから発したといわれる。

砂崎庄次郎氏
砂崎庄次郎氏

懇請され四年ぶりに帰阪

このころ、砂崎氏の友人水沢新太郎氏が、大阪鉄道会社(のちの関西鉄道、国鉄関西線)の初期工事を請負った。水沢氏もまた由五郎の力量を知っていたので、その借用かたを懇請し、砂崎氏もこれを快諾した。志を立てて上京した彼は、こうして四年ぶりに郷里大阪の土を踏んだのである。

大阪鉄道は弘世三郎氏の設立にかかり、生駒の南端大和川溪谷を迂回し、大阪と奈良を結ぶ路線である。最も難工事だったのは亀ノ瀬隧道で、絶壁に大規模な足場を組んで施工しなければならないので、技術の幼稚だったこの時代には、容易ならぬものがあった。またこれに従事する土工たちも、多くの部屋の寄り合いであるため、紛争がたえなかった。ここでも由五郎の人間的魅力と、強い統制力が、遺憾なく発揮された話がある。

それは工区の境界争いで、彼は厳密な測量を行なって裁定を下したが、丹波源という土工が服さず、仕事を捨てて決闘状を送ってきた。彼は指定された場所へ単身おもむき、得物を手にした数十名の土工らにかこまれながら、ついに彼らを説得することに成功した。これは彼の勇気もさることながら、偶然この地で再会した麹屋時代の旧友、野口栄次郎の見えざる力があったといわれる。

野口は北野の大地主、木屋市兵衛の長子として生まれ、はじめは俳優、のちに遊侠の群に投じて、当時「木屋市」親分の名で関西一円に知られていたが、ある事情のため、請負業者の名にかくれてこの現場にいたもので、それが由五郎に幸いした。「木屋市」親分の友であるということが、土工たちを圧倒するに十分な条件であり、またそれが彼の自信を裏づけたと思われるからである。

労働力の供給が請負業の相当部分を占めていた当時、これら遊侠の徒が業界に勢力をもつことは、ある程度避けがたかった。そこには多くの弊害もあったが、同時に人と人とのつながりによって、はじめて成り立つ業である以上、彼らの存在を便とする場合も多かった。由五郎と野口は、たがいに相許した友で、利用するための交友ではなかったが、結果的には大いに役立ったようである。由五郎の抱擁力は、のちに伝法の「伊之助」、幸町の「淡熊」、梅田の「難波福」その他、有力顔役を彼の支持者とさせた。いずれも「木屋市」野口栄次郎とのつながりから生じたもので業界粛正のため悪徳業者と戦うに当たって、強力な援護者となった。

明治二十一年(一八八八)夏、水沢氏は明治工業会社の下請負で、呉軍港の築造に着手した。関西鉄道の工事は進行中であったが、由五郎は水沢氏の命でここに移った。しかし約三カ月ののち、部下の労務者が技師長と衝突する事件がおこり、彼は挺身して問題の解決をはかったが、それが原因で帰京することになった。

由五郎はこれを契機として砂崎家を去り、大阪に帰った。やがて四年後の明治二十五年(一八九二)、請負業者として独立したのであるが、砂崎家との交情は終生変わることがなかった。

注・金沢、志方、田中は、いずれも林家と同じく靱の肥物商として聞こえた富商の家柄である。
金沢仁作氏は、平野紡績社長仁兵衛氏の子息で、同社専務、摂津紡績、大日本紡績取締役となり、大阪府会議員や衆議院議員に選ばれ、衆議院全院委員長にもなった。
志方勢七氏は、日本綿花、摂津醤油の各社長で、和泉紡績、大阪瓦斯、日本火災、豊国火災、日華生命などの取締役を兼ねた。
田中市太郎氏は、大阪商船の創立者で、藤田伝三郎、松本重太郎とならび称された田中市兵衛氏の子息で、日本綿花社長(志方氏の前任)その他広く実業界に活躍し、大阪商業会議所副会頭となった。

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