大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 深まる軍事色

第一節 満州事変以後

日満一体―企業はきそって満州進出

浜口内閣が基調とした井上財政は、都市では産業を萎縮させて失業問題がおこり、地方では農産物価格の下落によって、欠食児童、娘の身売りなど深刻な社会不安を生んだ。また幣原外交は英米追従とよばれ、軍部や右翼の急進分子から排撃された。ロンドン海軍軍縮条約の成立、大陸政策の後退などが彼らの危機感をあおったためである。

昭和五年(一九三〇)十一月、浜口首相は狙撃されて重傷を負い、翌六年四月、若槻内閣に代わったが、政策はそのまま引きつがれた。折りから世界恐慌の余波を受け、不況はいよいよ激しく、軍部、右翼の動きも激化した。この年九月におこった満州事変は、この局面を打開しようとする彼らの焦燥のあらわれであった。

これと期を同じくして、イギリスが金本位制を離脱したため井上財政は破綻し、十二月に若槻内閣は倒れ、政友会の犬養内閣に代わった。新内閣は成立の日に金の輸出を禁止し、つづいて満州事変費支弁のための公債発行、日銀公定歩合の引下げを行なうなど、高橋蔵相の積極財政に急転回した。

これによって産業は活発となり、昭和八年の綿布輸出高はイギリスを抜いて世界第一位となり、人絹の生産高も世界第二位となった。企業の新設、増資による資本高は一〇億七〇〇〇万円と前年の約三倍になり、総輸出額も前年にくらべ二七%増を示した。しかしこのときわが国が強行した満州国承認は、国際連盟脱退につながり、イギリス、アメリカをはじめ自由主義諸国と対決せざるを得ないことになった。イギリスは日印通商条約の廃棄を通告し、他の諸国もソシアルダンピングと非難して、日本商品の受入れをこばむにいたった。

国際的に孤立した日本は、日満一体の経済体制強化をせまられ、満州重工業会社の設立をはじめ、内地企業もきそって満州に進出した。

首都の代表的建築を次々と施工

大林組は昭和六年(一九三一)大連に出張所を設け、満州進出の手がかりとしたが、この気運に乗じ同八年、大連出張所を支店に昇格し、業務拡大にそなえた。まず新京(現・長春)の関東軍司令部庁舎新築工事を受注し、翌九年には満州国国務院庁舎、満州中央銀行の建設に着工したが、いずれも首都新京を飾る代表的建築であった。なかでも満州中央銀行は、昭和十三年(一九三八)九月竣工まで四年二カ月を要し、地下二階、地上四階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、延八〇〇〇坪(二万六四〇〇平方メートル)、請負金額四五一万円、満州第一の建築と称された。

このほか新京の関東局庁舎、東京海上火災ビル、奉天(現・瀋陽)の満鉄総合事務所などの建築があり、軍工事には関東軍野戦航空廠、公主嶺航空隊本部、同兵舎などの施設、満鉄関係には甘井子火力発電所、牡丹江機関庫や敦図線第四工区、天図線第五工区、図寧線第四工区、同第一一工区などの鉄道工事がある。また民間工事では奉天の国華ゴム、東洋タイヤ工業、錦州の東綿紡織、満州合成燃料の各工場があげられる。このような工事の増大に対処し、昭和九年(一九三四)一月、大連支店所管下に新京、奉天両出張所を設けたが、同十三年(一九三八)二月、支店を奉店にうつし奉天支店とし、大連は出張所に改めた。

このころ、大林組の首脳人事に大きな動きがあった。その第一は昭和七年(一九三二)十二月、近藤博夫、中村寅之助が入社し、ともに取締役支配人に就任したことである。近藤は京都帝大土木工学科出身で、大阪市港湾部長の現職から招かれ、現業部長事務取扱、関係会社東洋鋪装(現・大林道路)取締役を兼ねた。これが技術陣に重きを加えたのはいうまでもないが、彼はまた行政面にも長じていた。昭和二十年(一九四五)七月、戦時建設団近畿地方団設立に際し理事・総務部長に推され、さらに同二十二年四月の統一選挙には大阪の初代民選市長となったことがそれを証明している。また、中村は東京帝大政治学科を卒業後、内務省を経て朝鮮総督府にはいり、当時高等官一統、殖産局長の任にあった。入社後は東洋鋪装、内外木材工芸両社の監査役を兼ね、機構の整備、制度の近代化などにつとめた。定年制を実施し、従来作業現場の休日が一日、十五日であったものを第一、第三日曜日と改め、本店、支店は毎日曜日を休日としたのもこの当時のことである。他産業にくらべて遅れていた業界にとって、これらは画期的というべき制度であった。

近藤、中村が入社して一年後の昭和八年(一九三三)十二月、取締役技師長直木倫太郎が辞任した。満州国建国に際し、国土建設の任に当たるため、請われて大陸科学院長、国道局長に就任したのであるが、のちに同国参議の地位についた。

関東軍司令部庁舎
〈満州〉昭和9年8月竣工
関東軍司令部庁舎
〈満州〉昭和9年8月竣工
満州国国務院民政部庁舎
〈満州〉昭和13年10月竣工
設計 満州国営繕需品局
満州国国務院民政部庁舎
〈満州〉昭和13年10月竣工
設計 満州国営繕需品局
満州中央銀行本店
〈満州〉昭和13年9月竣工
設計 西村好時建築事務所
満州中央銀行本店
〈満州〉昭和13年9月竣工
設計 西村好時建築事務所

賢四郎副社長急逝―多方面にわたる大きな業績

昭和十年(一九三五)三月十四日、副社長大林賢四郎が腎臓病でたおれ、同月三十一日、脳出血を併発して急逝した。五十歳であった。兵庫県御影の自邸で密葬ののち、四月四日、四天王寺本坊において大林組社葬が盛大にいとなまれた。

賢四郎は大林家の一員として、社長義雄の義兄に当たるが、白杉亀造とともに大林組をささえる柱であった。技術陣の最高頭脳として積極的に海外知識をとり入れ、岡、直木、近藤ら土木担当者に手腕をふるわせると同時に、みずからは建築部門を統轄した。この面での大きな業績の一つに、昭和十年(一九三五)刊行した「現場従業員指針」の編集がある。事務経理、建築、設備、電気の四部に分かれ、ポケット型の通巻二三〇〇ページにおよぶハンドブックで、科学的経営の基礎を示すものであった。やや長文にわたるが、第一集第七章のうち、工事予算統制の一部を以下に引用する。

賢四郎副社長
賢四郎副社長

一 意義…予算統制の真の意義は、予算と実施との計数対照をもって満足するものにあらず、事前に損益を予想し、しかもこれが対策上あらゆる合理化を強調して、正当なる生産原価を低下するの点に存す。すなわち購買の合理化と現業の合理化とはその主たる方法にして、この二個の合理化を行なう上においての苦心、手腕、努力が予算統制上の真の意義たるを知るべきなり。

二 購買の合理化…安価購買(実質的に)、適時購買、適質購買、適量購買、敵産購買、適法購買等を称するものにして、主として購買係の責任事項に属す。

三 現業の合理化…正当なる数量の短縮を根本目的とするものにして、材料の短縮、手間の短縮、時間の短縮、経費の短縮の四種に要約するを得べく、これらは現場主任の責任事項に属す。

(一)材料の短縮
イ 仕様書および図面の徹底的通暁、ロ 能率、経済を主とせる現寸図の作成、ハ 注文明細数量の経済的拾い出し、ニ 適時注文、ホ 適時収納、ヘ 厳正なる収納、ト 注文者側検収時の真摯なる協調、チ 倉庫設備と整理の徹底、リ 配給上厳格なる取締り、ヌ 使用上浪費防止の周到なる指導および監視、ル 技術上合理的なる経済的使用、ヲ 短尺物応用等の節約的使用、ワ 損傷防止の養生、カ 注文者、設計者および監督者の信用獲得、ヨ 残材、不要材等の適法なる処分、タ 整然たる記録

(二)手間の短縮
イ 世話役、小頭、職工の選択、ロ 技術的指導と監督の励行、ハ 巧妙なる作業順序による手持ちの絶無、ニ 縦の和親提携、ホ 横の連絡協調、ヘ 作業設備の完全化、ト 工事場内の整頓、チ 動作短縮の設備および手法の研究ならびに督励、リ 作業の訓練熟達、ヌ 使用器具の標準化、ル 疲労回復に対する休養の実施、ヲ 災害の防止、ワ 適時奨励法の実施、カ 夜業の全廃

(三)時間の短縮
イ 時間の金銭的価値の自覚、ロ 不自然なる突貫的観念の放棄、ハ 迅速なる起工、ニ 周到なる計画の樹立、ホ 巧妙なる段取りの遂行、ヘ 徹底せる打合わせの励行、ト 材料および手間の合理的注文、チ 材料収納と出面の督励、リ 時間の元首、ヌ 作業設備の完全化、ル あらゆる事故発生または二重手間の防止 (手間の短縮と時間の短縮とは共通関連せるもの多し)

(四)経費の短縮
イ なるべく僅少なる従業員をもってする奮闘、ロ 用済み従業員の転勤または傭人解職の促進、ハ やむを得ざるもののほか出張のさしひかえ、ニ 膨大放漫なる仮説設計の禁止、ホ でき得る限り仮設材の反復使用、ヘ 仮設材その他工具等の減失防止、ト 適応せる工事機械の請求、チ 適法なる取扱いにより工事機械の休止または修繕等の減殺、リ 用済工事機械の迅速なる処分、ヌ 動力、借地料等の安価交渉、ル 工事の順調を期し夜業の全廃、ヲ 災害または事故による冗費の絶無、ワ 各種消耗品の節約使用

四 予算の編成…請負工事決定後二十日以内に(追加および設計変更による増減は、その決定のつど)本、支店(営)において綿密なる計算のもとに作成し、それぞれ関係先に配布するものとす。(営業所、常設出張所においても編成する場合あり)

五 実施の責任者…性質上購買に対する責任者は購買係なりといえども、総体に対する責任者は工場長たる現場主任(主任なきときは主席)にして、現場主任はつねに各工事に対する所要の数量単位(材料、手間、時間とも)はもちろん、購買単価にも精通し予算実行の成否につき、絶えず研究を怠るべからず。

現場従業員指針
現場従業員指針

彼はまた営業担当者としては伊藤哲郎のあとを受け、これに劣らぬ才能を示した。東北人的な強い性格といわれたが、よくそれを抑えて内外に接し、かえって信頼を増した。経理にも明るく、昭和七年(一九三二)十一月制定された工事費予算統制規程も彼の発案によるものであった。これは従来工事が決定すると、入札見積書をそのまま予算の基準としていたのを改め、内容を分析再編成し、経理関係者とも連絡して実施予算とするものである。

賢四郎は交友関係も広く、美術、邦楽に趣味をもち、また泉郎と号し俳人としても一家をなした。没後刊行された句集は、その師松瀬青々によって高く評価されている。この人材を失なったことは、景気が好転し社業が繁忙を加えつつある時期であっただけに、大林組にとって大きな打撃であった。

賢四郎の死によって、社長補佐の重任はひとえに白杉亀造の双肩にかかった。そこでこの年十二月、専務取締役制を設け、白杉がこれに就任した。同時に取締役支配人鈴木甫(東京担当)、近藤博夫、中村寅之助がいずれも常務取締役となり、従来の植村克己とともに四常務制がしかれた。

泉郎句碑
泉郎句碑

大林農場を法人化

昭和七年(一九三二)六月、社長大林義雄が大林家の事業として経営した朝鮮の大林農場を、法人化して株式会社大林農場とした。資本金は一〇〇万円(払込金額二五万円)で、本社を大林組本店内におき、取締役会長に大林義雄、取締役に大林賢四郎、白杉亀造、多田栄吉、小島幹吾が選任され、監査役は大林亀松、直木倫太郎で、小島が農場長として現地に駐在した。

農場は黄海道安岳郡大遠面にあり、朝鮮総督府の米穀増産計画に即応し、昭和三年開墾に着手した。日露戦争中、新義州に開設された大林製材工場の所長多田栄吉が、そのころ北鮮の有力者として在鮮していたので、彼が種々斡旋につとめ、同五年、安寧水利組合の用水路完成を待って作付けを開始した。

作付け面積は、一五〇〇ヘクタール、耕作に従事する小作人に家屋、農具を貸与し、その数は五百余戸におよんだ。これを五農区に分け、農区ごとに四名の指導員を付し、農耕技術のほか日常生活、衛生などの指導をも行なった。また私立学校文成義塾を設け、五学級三〇〇名の学童を収容、教育した。水田は塩分を含み、その改良に苦心を重ねたが、のちにはモミで六万石余の収穫をあげるにいたった。この農場は昭和二十年の終戦により消滅したが、当時の払込金は八〇万円に達していた。

株式会社大林農場
株式会社大林農場

東洋鋪装株式会社を設立

翌昭和八年(一九三三)八月、道路舗装とその関連業務をいとなむため、東洋鋪装株式会社を設立した。資本金は一〇万円(半額払込)で、本店を東京・丸ノ内一丁目、三菱仲二十八号館内においた。

この会社は昭和五年十一月に創立された日本ビチュマルス株式会社(現・東亜道路工業)から分離独立したもので、元来は大林組と横浜財閥系の日本液体アスファルト工業と、米国スタンダード石油系の日米合弁会社であった。米国インタナショナル・ビチューメント・エマルジョン会社と技術提携して、アメリカからアスファルトを輸入し、アスファルト乳剤の製造、販売を行なうとともに、これを使用した簡易舗装工事の施工をも業とした。当時の日本では道路舗装は開始されたばかりで、大部分の道路は未だ簡易舗装の段階にあったため、業績はきわめて順調であった。追浜海軍飛行場の舗装工事を大倉土木(現・大成建設)と激戦の末獲得し、優秀な施工で当局の期待にこたえることができたが、これがわが国における飛行場のアスファルト舗装の最初とされる。

これが分離独立するにいたったのは、昭和七年、横須賀海軍施設部から同社の営業担当者船倉貞一(大林組から出向)に、硫黄島飛行場建設の秘密命令を受けたのが動機である。海軍は同社が日米合弁会社であることを知らず、この特命となったものであるが、工事の性格は当然将来の日米開戦にそなえるためと推測されたので、同社はこの特命を辞退した。大林組としても、今後の国際情勢を考慮し、大林組系重役および社員はこの会社を脱退して、新たに設立したのが東洋鋪装株式会社である。社長をおかず、専務取締役を代表者とし、役員は次のとおりであった。

専務取締役 牛島航(前日本ビチュマルス専務取締役)、取締役 植村克己(大林組常務取締役)、同 直木倫太郎(同取締役技師長)、同 近藤博夫(同取締役支配人)、同 加藤源次(神戸市加藤合名社長)、監査役 中村寅之助(大林組取締役支配人)、同 松井清足(同取締役東京支店長)、同 榎並充造(神戸商工会議所会頭)

牛島航は元大阪府土木部長で、日本ビチュマルス専務就任は、大林組の斡旋によるものであった。

東洋鋪装は海軍省、国鉄、東京市などのほか、青森、愛知、京都、島根などの各府県でも工事を請負い、一時は大いに発展した。しかし昭和十二年(一九三七)、日華事変の拡大とともに道路工事が激減したため、開店休業を余儀なくされた。このため業務は大林組東京支店があずかり、牛島専務は退任して、植村克己が代表取締役となった。

これが復活したのは戦後の昭和二十三年(一九四八)で、資本金も増資に増資を重ねて三億円となり、同四十二年(一九六七)二月、名称を大林道路株式会社と改めた。昭和四十五年十月、資本金を五億円に、翌四十六年四月には六億円に増資し株式は東京証券取引所第二部に上場されたが、さらに同四十七年三月七億五〇〇〇万円に増資した。

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