大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 創業のころ

第三節 大林組の創立

待機四年―創業に踏み切る

「大林芳五郎伝」は、彼が明治二十一年(一八八八)に砂崎家を去り、同二十五年(一八九二)創業にいたる四年間を「雌伏の時期」としている。「ただ二、三親近より依頼された小請負または下請負業等に甘んじ」とのべ、また明治二十二年(一八八九)には、水沢新太郎氏らとともに、和歌山県紀ノ川上流に石綿鉱視察にいったことも書いている。この間の由五郎の行動については明らかでないが、独立自営を志しながらも、この恐慌に際会して、ときを待たざるを得なかったものと想像される。

しかしこの不況は、間もなく銀の国際価格下落によって救われた。実質的に銀本位国であった日本は、これで輸入が抑制され、輸出は増大して景気は回復した。国内市場の狭隘を思い知らされた紡績業は、これを機として販路を大陸にもとめ、海ひとつへだてた朝鮮半島に進出した。またここは雑貨にとっても絶好の市場であり、そのためにこれら産業の基地である大阪の発展は目ざましかった。紡績包装用などで需要の増した製紙業も盛んになり、近江出身の豪商阿部市郎兵衛、その弟市太郎、分家彦太郎氏ら阿部一族は阿部製紙所を創立した。待機四年の大林由五郎が、ついに志を得たのはそのときであった。

明治二十五年(一八九二)一月十八日、彼はこの工場建設工事の入札に参加して、落札することに成功した。大阪府西成郡川北村西野新田(現・大阪市此花区西野下之町)の工場敷地整地と、煉瓦造の工場および石造倉庫十棟の建設工事である。請負金額は三万六〇〇〇円で、当時の米価石当たり約七円から推して、現在の一億数千万円に相当する。彼はこの日から七日後の、一月二十五日を創業の日と定めた。ときに年二十八歳、店舗は西区靱南通四丁目六二番地(現・西区靱本町三丁目九一番地)で、住居を兼ねていた。

このころ水沢氏は鉱山業に転じ、奈良県十津川でアンチモニー採掘に従事するため、請負業に関するいっさいを由五郎に譲った。

当時大阪には、前にのべたように大溝、木村その他の先輩業者がいたが、いずれも棟梁、親方の出身者で、大規模業者としては日本土木の支店があったが、すでに不振の時代にはいっていた。彼が工事落札に成功し、創業に踏みきったことは、ときを得たといわなければならない。しかし、さなきだに排他的なこの社会が、ほとんど無名に近く、しかも他業出身者の彼を、好意の目で迎えるはずはなかった。

羨望と嫉妬の環境のなかで、由五郎は将来の運命をかけ、工事に全力を集中した。このとき彼を助けた部下に、麹屋時代の同僚福松こと福本源太郎や、小原伊三郎、下里熊次郎らがいる。この工事は定められた期限内に完成して、周囲から意外とされたのみならず、すぐれた施工によって、阿部製紙幹部を満足させた。これは明治三十年(一八九七)五月、同工場が火災で焼失したとき、工場建物など一四件、汽罐、機械基礎など一七件の復旧工事に当たり、また同二十七年(一八九四)十月、同じ阿部一族経営の金巾製織四貫島工場建設を受託したことで立証される。

この信任は同時に、由五郎個人の人格に対するものでもあった。阿部製紙の幹部社員松本行政氏は、明治二十六年(一八九三)六月、その甥伊藤哲郎を彼に託し入店させた。伊藤は当時二十二歳であるが、のちにのべる白杉嘉明三(初名亀造)とともに、やがて大林組の柱石となった。明治四十二年(一九〇九)、合資会社大林組設立に当たり、無限責任の出資社員、業務執行社員となった人物で、この結びつきにも宿命的というべきものがある。

由五郎(創業当時)
由五郎(創業当時)
創業当時の店舗
創業当時の店舗
1階
1階
2階
2階

分に過ぎる大工事を次々に消化

請負業者として出発するに当たり、棟梁、親方の経験をもたない由五郎が武器としたのは、そのすぐれた管理、経営能力であった。しかし同じ立場の大倉喜八郎や藤田伝三郎のように、大資本も権力の背景ももたなかった。創業に際して、彼が最も苦心したのは資金関係で、少なくとも一万円の準備を必要としたのに対して、わずかに一〇〇〇円の用意があるにすぎなかった。これを助けてくれたのが亡父徳七の友人片山和助氏で、その提供による五〇〇〇円と、未亡人美喜の蓄えを合わせたものが、全資本金だったといわれる。

明治二十六年(一八九三)三月、由五郎は朝日紡績の今宮工場建設を受注した。これは当時の大業者大溝組その他の指名者中に、かろうじて割りこんで獲得したもので、資金的にはいよいよ苦境に立たされた。材料の点でも信用取引は困難で、大量購入はできなかったから、工事の進行に合わせ必要量をととのえる状態であった。このとき彼の人柄を高く評価し、救いの手をさしのべたのが堀江の材木商、佐々木伊兵衛氏である。

由五郎は、木材の仕入れには、かならずみずからこの店をおとずれた。値段は一銭、二銭の端数も値切らず、現金で支払う代り、品質の吟味はきわめて厳重であった。そして態度は謙譲で、番頭、丁稚に対しても尊大の風がないのが佐々木氏の目にとまった。それがもとで交際がはじまり、やがて深い友情が生まれた。同氏はその後木材の供給を無条件で引受け、さらに進んで資金を融通し、保証人となるなど、あらゆる援助を惜しまなかった。創業間もない彼が、分不相応といえる大仕事を消化し得たかげには、片山、佐々木両氏の力があったのを忘れることはできない。

しかし、初仕事であるこの阿部製紙工場工事は、経済的には若干の損失を招いた。それは施工の完璧を期するあまり、材料を厳選したことと、労務賃金が比較的高かったためであるが、これはある程度彼が予期したものではないかと考えられる。それは使用資材の吟味と賃金支払いの確実・迅速は、彼が終生信条としたところで、創業に際して特にこれらが強調されたと思われるからである。

朝日紡績工事の請負額は四万三〇〇〇円であったが、のちに追加工事を加えて総額八万三〇〇〇円に達した。この会社は明治二十一年創立の今宮紡績が、翌年難波紡績に継承され、さらにこの年、日野九郎兵衛氏を社長として新発足したものである。綿業勃興の機運に乗じて新工場建設に着手しただけに、発注者にとって最大の関心事は竣工の期日であった。

工期は三月二日から十月十五日までの契約であったが、由五郎がまだ実績のない二十九歳の青年請負師であることに対し、会社側では若干の不安をもった。しかし、すでに資金的に裏づけを得た彼は、十分の自信をもって確約し、万一工期が遅れた場合、遅延日数一日について一〇〇〇円の違約金を支払うことを自発的に申入れた。これに対して会社側も、期日前に完成した場合、一日について二〇〇〇円の賞金を提供することを約した。

こうして、時間と仕事との競争が開始された。由五郎は雨の日も風の日も現場に立ち、みずから指揮をとった。そして煉瓦造の工場、倉庫など一八件は期日に先立つこと三日、十月十二日に完成した。日野社長は約束どおり賞金を与えたが、彼は辞退して受けず、落成祝いとして会社に贈った。このことは会社側に大きな感銘を与えたばかりか、美談として広く伝えられ、大林の名を高からしめた。

明治二十九年(一八九六)五月、朝日紡績は広島県能美島に新工場を建設するに際し、その施工を由五郎に特命している。

片山和助氏
片山和助氏
佐々木伊兵衛氏
佐々木伊兵衛氏
阿部製鉄所工場
〈大阪〉明治25年8月竣工
阿部製鉄所工場
〈大阪〉明治25年8月竣工
朝日紡績株式会社今宮工場
〈大阪〉明治26年10月竣工
朝日紡績株式会社今宮工場
〈大阪〉明治26年10月竣工
同社能美島工場
〈広島〉明治30年6月竣工
同社能美島工場
〈広島〉明治30年6月竣工

新進業者として頭角をあらわす

明治二十五年(一八九二)の創業から、同二十七年までの三年間に受託した工事は、阿部製紙所工場、朝日紡績今宮工場、金巾製織四貫島工場と、一年一件にすぎない。しかし以上にのべたように、その誠実な仕事ぶりは発注者の信用を得て、のちの発展の布石となった。またこのころは由五郎個人にとっても、身辺にいくつかの変化があった。

その第一は明治二十五年(一八九二)七月、前年迎えた妻ミキとの間に、長女ふさが生まれたことである。ふさは大正三年(一九一四)四月、(注)藤泉賢四郎を迎え、分家して「新宅」と称した。つづいて明治二十七年(一八九四)九月長男義雄が生まれたが、その十月十八日には母美喜を失った。彼女は由五郎の大成を見るにいたらなかったが、このときすでに彼は阿部製紙と朝日紡績の二工事を完成し、新興業者として頭角をあらわしていた。美喜はゆかりの地、靱に居をかまえ、貸家数軒をもって「大林裏」とよばれ、悠々自適するだけの余裕があった。大林家の再興者としての彼に、十分の期待をかけて永眠することができたであろう。なお、同二十九年(一八九六)一月、二男永三郎が誕生したが、間もなく早世した。

金巾製織株式会社四貫島工場
〈大阪〉明治28年10月竣工
金巾製織株式会社四貫島工場
〈大阪〉明治28年10月竣工

紡績ブーム―一挙に業績を拡大

明治二十七年(一八九四)八月一日、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争が開始された。朝鮮をめぐって、日本は新市場の獲得を目ざし、清国は国威を守ろうとする主導権争いであった。このとき日本の勝利を予見したのは、イギリスしかなかったが、開国以来富国強兵を目標に、近代化の道を歩みつつあったわが国に対し、老大国清国は敵し得なかった。翌二十八年四月、講和が成立し、日本は朝鮮における優位と、台湾、遼東半島に新領土を得た。遼東半島はその直後、露、独、仏三国の共同勧告をいれて返還し、これは三国干渉とよばれて、やがて日露戦争の一因となったが、このとき得た償金二億三〇〇〇万両(チール)(邦貨換算三億六〇〇〇万円)によって、日本は金本位制をとり、欧米なみになることができた。

戦争がブームをよぶのは常であるが、建設業界もこれを機として大きく伸張した。輸送手段が未発達で、そのほとんどを人力に依存した当時、戦場には軍夫が多数使用されたが、その供給に当たったのは請負業者である。それは人夫の募集と管理に最も経験があったからで、特に広島、大阪の業者がこれに動員された。また戦時中は砲兵工廠その他の軍事施設の増築、戦後は軍備拡充による兵舎の新設など、軍関係の工事が急増し、これも業界を繁栄させた。

明治二十八年(一八九五)十一月、大阪硫曹会社工場と、大阪府第二尋常中学校(現・三国丘高校)の工事を獲得した彼は、翌二十九年にいたり、一気に業績を拡大した。紡績ブームの波に乗って続々新設された大和紡績、近江麻糸紡績、日本絹糸紡績、尼ヶ崎紡績、日本繊糸の各工場と、前にのべた朝日紡績の能美島工場や日本刷子工場、近江銀行の建築工事、土木関係では讃岐鉄道延長線工事の九件で、範囲も大阪のみにとどまらなかった。これが産業界の好況を反映したものであるのはいうまでもないが、近江麻糸や近江銀行が、阿部製紙の阿部一族の資本系列である点からみて、由五郎の信用を物語るものであろう。

これら工事の請負金額は、朝日紡績能美島工場が一四万円、日本繊糸工場が一五万円で、現在の四~五億円に相当すると思われるが、その他は二万円ないし五万円だったといわれる。このころ大阪の業界は、木村音右衛門が財界の巨頭松本重太郎を得意先としたように、固定した顧客をもつ者が多く、入札を軽視する傾向があった。その間にあって由五郎は、積極的に入札による工事を請負い、それを手がかりとして信用を増大し、さらに業績をあげることにつとめた。

日清戦争当時に基礎をかため、その後大をなした地元業者として、鴻池組、錢高組、松村組などがあげられる。東京業者では、前にのべた日本土木の分身、大阪土木会社はふるわずに消え、やや遅れて大倉土木組(現・大成建設)が関西に進出した。また清水組(現・清水建設)も明治二十七年九月、大阪平野町電話交換局工事を、京都出張店から出張して施工している。

このようにして、ようやく本格化した洋風建築や鉄道、橋梁などの工事は業界の様相を一変させた。これにたえ得る能力のある者は生き残り、そうでない者は滅びるか、没落する以外に道はなかった。彼が新参のハンディキャップを負いながら、よく先輩業者をしのぐことができたのは、この変動期に乗じた鋭い洞察力と、絶えざる努力のたまものである。またその人格に由来するものであるが、次々に多くの支持者があらわれ、彼を守り、助けたことも忘れてはならない。

片山、佐々木両氏は資金を援助し、阿部氏一族や日野氏らは発注者として由五郎を応援したが、見えざる力として「木屋市」野口栄次郎が陰にいた。暴力を背景とした「談合(団子)取り」とよばれる悪習は昭和初期までみられたが、このころから明治末期にかけてがその最もはなはだしい時代であった。由五郎がみずからを守らねばならなかったとき、「木屋市」の存在は、彼につながる関西の顔役、親分とともに、大きな助けになった。

明治三十年(一八九七)には、大阪舎密工業、大阪製薬、毛斯綸紡織の工場や、九州倉庫会社の倉庫のほか、前にのべた阿部製紙所の火災復旧工事を施工した。翌三十一年は、大阪府第三尋常中学校(現・八尾高校)、同第四尋常中学校(現・茨木高校)、日本繊糸会社寄宿舎、京都の大日本武徳会演武場を請負い、六月には大阪築港工事を受託した。この築港工事中、由五郎は業界にはいって最初の危機を迎えたのであるが、同時にこれを乗り切ることによって、創業の期を終えたといえる。

注・藤泉賢四郎は、明治十八年(一八八五)福島県三春町に生まれ、同四十四年(一九一一)七月、東京帝国大学建築学科を卒業、合資会社大林組に入社した。大正三年大林姓を名乗り、同七年(一九一八)、株式会社改組とともに常務取締役、同十三年には副社長となったが、昭和十年(一九三五)三月病没した。
ふさとの間に長男一郎(大正三年四月九日生)、二男芳郎(大正七年四月十七日生)、長女文子(大正六年四月二十日生)、二女敏子(大正十年六月三十日生)の二男二女がある。二男芳郎は叔父に当たる二代目社長義雄の養子となって本家を継ぎ、その後三代目社長となり、現在にいたっている。長女文子は岸和田市岡田惣吉氏の二男芳茂(大正元年十一月二十日生、昭和十一年東京商科大学卒)を婿に迎えて分家し、大林姓を称し、芳茂は現に常務取締役である。二女敏子は同業鴻池組の社長、鴻池藤一氏に嫁した。

大阪硫曹株式会社工場
〈大阪〉明治29年5月竣工
大阪硫曹株式会社工場
〈大阪〉明治29年5月竣工
日本絹糸紡績株式会社工場
〈兵庫〉明治30年5月竣工
日本絹糸紡績株式会社工場
〈兵庫〉明治30年5月竣工
近江麻糸紡績株式会社工場
〈滋賀〉明治30年4月竣工
近江麻糸紡績株式会社工場
〈滋賀〉明治30年4月竣工
大和紡績株式会社工場
〈奈良〉昭和30年6月竣工
大和紡績株式会社工場
〈奈良〉昭和30年6月竣工
大阪舎密工業株式会社工場
〈大阪〉明治31年5月竣工
大阪舎密工業株式会社工場
〈大阪〉明治31年5月竣工
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