関係会社
内外木材工業株式会社
内外木材工業株式会社の歴史は、明治三十八年(一九〇五)六月発足した大林組製材工場にはじまる。これを設けた目的は、当時の大林組が木造建築を事業主体としたことから、木材の品質管理とコストダウンをはかるためであるが、のちにトロッコその他工事機械の管理をも行なうようになり、大正十一年(一九二二)十月工作所と改称された。初代所長は常務取締役白杉亀造が兼任し、関東大震災後大林組が東京に進出したときは、東京工場も開設された。このころは製材工場をすでに脱却し、優秀な工人を多数擁して、建具、造作、家具等の美術木工分野に定評を得ていた。当時大阪では松竹座、鴻池銀行本店、大阪倶楽部、住友ビルその他、東京では歌舞伎座、三菱仲二八号館、東京野村ビル等、代表的建築の内装工事を行なっている。またようやく実用化されはじめたベニヤ合板の製造も、他にさきがけて着手した。
大林組工作所のこの部門を発展させ、独立会社としたものが、昭和六年(一九三一)十月一日創立された内外木材工芸株式会社であり、その名称が示すように事業目的は美術木工であった。資本金は一〇〇万円、本店を大阪市港区(現・大正区)千島町六番地におき、役員は左のごとくである。
- 取締役会長
- 大林義雄(大林組社長)
- 常務取締役
- 富田義敬
- 取締役
- 大林賢四郎(大林組副社長)
- 石田信夫 (大林組横浜支店長)
- 小原孝平(大林組本店営業部長)
- 松本儀八(大林組本店住宅部長)
- 監査役
- 大林亀松(大林組監査役)
- 今林彦太郎(大林組本店設計部長)
- 三宅勘太郎(大林組工作所東京工場長)
内外木材工芸は、その最新の設備と優秀な技術によって木工業界をリードし、国会議事堂、各皇族邸、英、米、仏各国大使館、華族会館、日本銀行本店、三井本館、東京、大阪中央放送局、大阪証券取引所、神戸大丸等有名建築のほか、満州、華北にも進出して、関東軍司令部、満州中央銀行、満州国国務院、天津商業学校その他の内装工事にも従事した。これらのなかには大林組関係の工事もあるが、むしろ他業者が施工した建物を、特命によって施工した場合が多い。しかし、やがて日華事変が勃発し、時勢が急転して戦時体制にはいるとともに業態も大きく変化した。主たる事業は工場の暗幕工事、公用木材の調達およびそのための山林経営、車輌用合板の製造、軍用船舶の艤装等に転換され、社名も昭和十八年(一九四三)三月内外木材工業株式会社と改称した。満州国に現地法人、大林木材工業株式会社を設立し、木製航空機の部材製作に当たったのもこの当時である。
戦況の悪化にともない、軍用機の生産増強はいよいよ急務となったが、これに要する資材は底をつき、窮余の策として案出されたのが木製航空機であった。昭和十九年二月、内外木材工業自身もこれを専業とすることとなり、機体および補助タンク等の製造に当たった。さらに翌二十年七月には、一歩を進めて三菱航空機工業と提携し、社名も三菱飛行機木材工業株式会社と改め、同社から役員を迎え、暗号名神武四二六五号の軍需工場に指定された。しかしほどなく戦争は終結したため、同年八月末には三菱木質工業株式会社と再改称したが、すでに三菱との提携は意義を失なった。そこで大林組の復興再出発と呼応し、三菱側役員は退陣して、同二十一年二月ふたたび内外木材工業の旧称にかえり、事業も建具、造作、家具等の木工および合板製造を主とすることに復した。
戦災によって東京、大阪の工場を失ない、わずかに稼動したのは京都工場のみであり、また工事もほとんど進駐軍関係にかぎられ、苦難の時代がつづいた。しかし、やがて戦後復興が進展し、ビル建設がはじまった昭和二十六年(一九五一)以後は、次第に業績を回復し、大阪国際見本市会館、東京日活国際会館等、この年新築されたビルをはじめ、多くのビルの増改築に当たり、内装工事を施工した。この間東京、大阪の両工場も再開され、資本金も昭和二十四年六月に四五〇万円、同二十八年五月には一三五〇万円に増資された。その後ビルの巨大化、デラックス化が進み、インテリア工事がいよいよ重視されるようになると、それが業績の上昇につながった。これは戦前の実績と名声によるものでもあるが、内外木材工業が大林組工作所以来伝統とした設備の改善、技術の向上につとめた成果である。
昭和三十一年(一九五六)七月、本社工場で製作する事務用家具の全種目に対し、日本工業規格(JIS)の表示を認可された。また同四十一年六月には東京工場が、難燃化粧合板日本農林規格(JAS)認定工場に指定された。同年設置した研究室によって開発された各種難燃、準不燃、不燃の化粧合板も、それぞれ法定防火材料として建設省の認定をうけたが、火災時の有毒ガスと煙が問題化するとともに、昭和四十四年(一九六九)五月建築基準法施行令が改正され、従来の認定はすべて解除された。新基準は強化され、防煙基準も付加されたため、さらに改良を加えた結果、八品目は再審査に合格し、改めて法定防火材料に認定された。
このうち特にすぐれ、他の追随をゆるさないのは内外化粧不燃板SA、同SP、内外カラー不燃板Pの三種である。不燃板製作の問題点は、断熱材を他の建材と接着させることにあるが、研究室では、当時日本アスベスト会社が硅酸カルシウム石綿板を開発中であるのに注目し、これに協力するとともに、完成後独占契約をむすんで使用権を獲得した。硅酸カルシウム石綿板の特性は断熱性が高く、接着剤によって木材、ガラス、金属、コンクリート等あらゆる材料と完全に接着し、しかも紙のように薄くすることができる点にある。以上三種の不燃板は、これをサンドウィッチ状に用いて開発したもので、耐火性にすぐれ、また火にあっても有毒ガスや煙を発生しない。不燃板SAはアスベストラックス、同SPは石膏ボードとの複合板、同Pは表面をカラーアルミ板としたもので、いずれも加工性が高く、用途によってそれぞれ特色を発揮する。
これは創業以来特色とした木工技術が、工芸的に優秀であるのみならず、材質面においても飛躍的進歩をとげたことを実証したもので、この成果は東宮御所、吹上御所をはじめ、帝国劇場、国立劇場、帝国ホテル等、最近の代表的建築に示されているが、新宮殿造営に際しても主要内装工事を特命された。
難燃、準不燃、不燃化粧合板を用いた間仕切、ナイガイ・タイトスクリーン、ノッツウォールも開発され、耐火性、遮音性、防塵性等にすぐれた効果を発揮している。またボウリング関係にも進出し、レーンのガーター施工を行ない、ピンの開発研究と取組むなど新分野の開拓につとめている。大林組が設立した住宅会社、大林ハウジングが、大型パネルによる木質プレハブ住宅を採用したことも、以上の技術的成果をふまえたものであるが、将来この方面での新建材、新工法の開発が期待される。大林ハウジング設立に当たっては、常務取締役灘山敏が同社常務取締役として出向し、両社一体の実を示した。
資本金は昭和三十四年(一九五九)一月、五〇〇〇万円に増資され、さらに同三十六年四月一億五〇〇〇万円となって現在におよんでいる。従業員は職員および工員が三二〇名、社外工(下請)約四〇〇名で、各種木工機械は二四〇台に達する。営業機関ならびに現役員は左のごとくである。
- 本社・本社工場 大阪府大東市谷川二丁目一〇〇番地
- 東京支店・東京工場 埼玉県入間郡大井町大字亀久保一一五〇番地
- 東京支店営業部 東京都千代田区内神田一丁目一四番地の八 長谷川第五ビル内
- 札幌連絡所 札幌市南一条東一丁目 古内ビル内
- 取締役社長
- 大林芳郎(大林組社長)
- 専務取締役
- 佐藤辰夫
- 常務取締役
- 梶山苞夫
- 奥宮 守
- 神原千之輔
- 取締役
- 荒川初雄(大林組副社長)
- 石渡雅男(大林組副社長)
- 谷口尚武(大林組専務取締役)
- 灘山 敏(大林ハウジング常務取締役)
- 小河 博
- 釜坂清市
- 榊原 茂
- 監査役
- 嶋道朔郎(大林組副社長)
- 小寺芳夫(大林組監査役)
- 相談役
- 白杉嘉明三(大林組相談役)