大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

資料

関係会社

内外木材工業株式会社

内外木材工業株式会社の歴史は、明治三十八年(一九〇五)六月発足した大林組製材工場にはじまる。これを設けた目的は、当時の大林組が木造建築を事業主体としたことから、木材の品質管理とコストダウンをはかるためであるが、のちにトロッコその他工事機械の管理をも行なうようになり、大正十一年(一九二二)十月工作所と改称された。初代所長は常務取締役白杉亀造が兼任し、関東大震災後大林組が東京に進出したときは、東京工場も開設された。このころは製材工場をすでに脱却し、優秀な工人を多数擁して、建具、造作、家具等の美術木工分野に定評を得ていた。当時大阪では松竹座、鴻池銀行本店、大阪倶楽部、住友ビルその他、東京では歌舞伎座、三菱仲二八号館、東京野村ビル等、代表的建築の内装工事を行なっている。またようやく実用化されはじめたベニヤ合板の製造も、他にさきがけて着手した。

大林組工作所のこの部門を発展させ、独立会社としたものが、昭和六年(一九三一)十月一日創立された内外木材工芸株式会社であり、その名称が示すように事業目的は美術木工であった。資本金は一〇〇万円、本店を大阪市港区(現・大正区)千島町六番地におき、役員は左のごとくである。

取締役会長
大林義雄(大林組社長)
常務取締役
富田義敬
取締役
大林賢四郎(大林組副社長)
石田信夫 (大林組横浜支店長)
小原孝平(大林組本店営業部長)
松本儀八(大林組本店住宅部長)
監査役
大林亀松(大林組監査役)
今林彦太郎(大林組本店設計部長)
三宅勘太郎(大林組工作所東京工場長)

内外木材工芸は、その最新の設備と優秀な技術によって木工業界をリードし、国会議事堂、各皇族邸、英、米、仏各国大使館、華族会館、日本銀行本店、三井本館、東京、大阪中央放送局、大阪証券取引所、神戸大丸等有名建築のほか、満州、華北にも進出して、関東軍司令部、満州中央銀行、満州国国務院、天津商業学校その他の内装工事にも従事した。これらのなかには大林組関係の工事もあるが、むしろ他業者が施工した建物を、特命によって施工した場合が多い。しかし、やがて日華事変が勃発し、時勢が急転して戦時体制にはいるとともに業態も大きく変化した。主たる事業は工場の暗幕工事、公用木材の調達およびそのための山林経営、車輌用合板の製造、軍用船舶の艤装等に転換され、社名も昭和十八年(一九四三)三月内外木材工業株式会社と改称した。満州国に現地法人、大林木材工業株式会社を設立し、木製航空機の部材製作に当たったのもこの当時である。

戦況の悪化にともない、軍用機の生産増強はいよいよ急務となったが、これに要する資材は底をつき、窮余の策として案出されたのが木製航空機であった。昭和十九年二月、内外木材工業自身もこれを専業とすることとなり、機体および補助タンク等の製造に当たった。さらに翌二十年七月には、一歩を進めて三菱航空機工業と提携し、社名も三菱飛行機木材工業株式会社と改め、同社から役員を迎え、暗号名神武四二六五号の軍需工場に指定された。しかしほどなく戦争は終結したため、同年八月末には三菱木質工業株式会社と再改称したが、すでに三菱との提携は意義を失なった。そこで大林組の復興再出発と呼応し、三菱側役員は退陣して、同二十一年二月ふたたび内外木材工業の旧称にかえり、事業も建具、造作、家具等の木工および合板製造を主とすることに復した。

戦災によって東京、大阪の工場を失ない、わずかに稼動したのは京都工場のみであり、また工事もほとんど進駐軍関係にかぎられ、苦難の時代がつづいた。しかし、やがて戦後復興が進展し、ビル建設がはじまった昭和二十六年(一九五一)以後は、次第に業績を回復し、大阪国際見本市会館、東京日活国際会館等、この年新築されたビルをはじめ、多くのビルの増改築に当たり、内装工事を施工した。この間東京、大阪の両工場も再開され、資本金も昭和二十四年六月に四五〇万円、同二十八年五月には一三五〇万円に増資された。その後ビルの巨大化、デラックス化が進み、インテリア工事がいよいよ重視されるようになると、それが業績の上昇につながった。これは戦前の実績と名声によるものでもあるが、内外木材工業が大林組工作所以来伝統とした設備の改善、技術の向上につとめた成果である。

昭和三十一年(一九五六)七月、本社工場で製作する事務用家具の全種目に対し、日本工業規格(JIS)の表示を認可された。また同四十一年六月には東京工場が、難燃化粧合板日本農林規格(JAS)認定工場に指定された。同年設置した研究室によって開発された各種難燃、準不燃、不燃の化粧合板も、それぞれ法定防火材料として建設省の認定をうけたが、火災時の有毒ガスと煙が問題化するとともに、昭和四十四年(一九六九)五月建築基準法施行令が改正され、従来の認定はすべて解除された。新基準は強化され、防煙基準も付加されたため、さらに改良を加えた結果、八品目は再審査に合格し、改めて法定防火材料に認定された。

このうち特にすぐれ、他の追随をゆるさないのは内外化粧不燃板SA、同SP、内外カラー不燃板Pの三種である。不燃板製作の問題点は、断熱材を他の建材と接着させることにあるが、研究室では、当時日本アスベスト会社が硅酸カルシウム石綿板を開発中であるのに注目し、これに協力するとともに、完成後独占契約をむすんで使用権を獲得した。硅酸カルシウム石綿板の特性は断熱性が高く、接着剤によって木材、ガラス、金属、コンクリート等あらゆる材料と完全に接着し、しかも紙のように薄くすることができる点にある。以上三種の不燃板は、これをサンドウィッチ状に用いて開発したもので、耐火性にすぐれ、また火にあっても有毒ガスや煙を発生しない。不燃板SAはアスベストラックス、同SPは石膏ボードとの複合板、同Pは表面をカラーアルミ板としたもので、いずれも加工性が高く、用途によってそれぞれ特色を発揮する。

これは創業以来特色とした木工技術が、工芸的に優秀であるのみならず、材質面においても飛躍的進歩をとげたことを実証したもので、この成果は東宮御所、吹上御所をはじめ、帝国劇場、国立劇場、帝国ホテル等、最近の代表的建築に示されているが、新宮殿造営に際しても主要内装工事を特命された。

難燃、準不燃、不燃化粧合板を用いた間仕切、ナイガイ・タイトスクリーン、ノッツウォールも開発され、耐火性、遮音性、防塵性等にすぐれた効果を発揮している。またボウリング関係にも進出し、レーンのガーター施工を行ない、ピンの開発研究と取組むなど新分野の開拓につとめている。大林組が設立した住宅会社、大林ハウジングが、大型パネルによる木質プレハブ住宅を採用したことも、以上の技術的成果をふまえたものであるが、将来この方面での新建材、新工法の開発が期待される。大林ハウジング設立に当たっては、常務取締役灘山敏が同社常務取締役として出向し、両社一体の実を示した。

資本金は昭和三十四年(一九五九)一月、五〇〇〇万円に増資され、さらに同三十六年四月一億五〇〇〇万円となって現在におよんでいる。従業員は職員および工員が三二〇名、社外工(下請)約四〇〇名で、各種木工機械は二四〇台に達する。営業機関ならびに現役員は左のごとくである。

  • 本社・本社工場 大阪府大東市谷川二丁目一〇〇番地
  • 東京支店・東京工場 埼玉県入間郡大井町大字亀久保一一五〇番地
  • 東京支店営業部 東京都千代田区内神田一丁目一四番地の八 長谷川第五ビル内
  • 札幌連絡所 札幌市南一条東一丁目 古内ビル内
取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
専務取締役
佐藤辰夫
常務取締役
梶山苞夫
奥宮 守
神原千之輔
取締役
荒川初雄(大林組副社長)
石渡雅男(大林組副社長)
谷口尚武(大林組専務取締役)
灘山 敏(大林ハウジング常務取締役)
小河 博
釜坂清市
榊原 茂
監査役
嶋道朔郎(大林組副社長)
小寺芳夫(大林組監査役)
相談役
白杉嘉明三(大林組相談役)

大林道路株式会社

昭和五年(一九三〇)十一月、アメリカのスタンダード・ヴァキューム・オイル・カンパニーとインタナショナル・ビチューメント・エマルジョンズ・コーポレーションの二企業が日本に進出し、大林組および日本液体アスファルト工業(横浜財界系)と提携して日本ビチュマルス株式会社を創立した。当時ようやく着手された日本の道路舗装に着目した米企業が、インタナショナル・ビチューメント・エマルジョン社のもつ特許を使用し、簡易舗装工事の請負と、その材料であるアスファルト乳剤の製造販売を行なう目的であった。計画は適宜に適し、業績はきわめて順調で、翌六年には横須賀海軍施設部から追浜飛行場の舗装工事を受注した。わが国飛行場がアスファルト舗装を行なった最初である。

この施工によって海軍の信頼を得た同社は、さらに翌七年、硫黄島に飛行場を建設する密命を受けた。もとより対米作戦にそなえるためであるが、海軍は同社が日米合弁会社であることを知らず、特命したものであった。この折衝に当たった船倉貞一は大林組の出向社員で、事情をのべて工事を辞退したが、大林組としてもしだいに切迫する国際情勢を考慮し、役員および社員をひきあげて同社を離脱した。その結果新たに成立したのが、昭和八年(一九三三)八月二十六日創立された東洋舗装株式会社で、大林道路株式会社の前身である。

新会社の資本金は一〇万円、大林組および神戸財界の出資によった。役員は以下のとおりで、社長をおかず専務取締役が会社を代表した。代表者牛島航は大阪府土木部長から、大林組の斡旋により日本ビチュマルスに入社し、大林系役員と行動をともにしたものである。

専務取締役
牛島 航
取締役
植村克己(大林組常務取締役)
直木倫太郎(大林組取締役技師長)
近藤博夫(大林組取締役支配人)
加藤源次(神戸市加藤合名会社社長)
監査役
中村寅之助(大林組取締役支配人)
松井清足(大林組取締役東京支店長)
榎並充造(神戸商工会議所会頭)

東洋舗装は横浜に工場を設け、アスファルト乳剤の製造、販売を行なうとともに、海軍省、国鉄、東京市等の工事をはじめ、大林組の下請として多くの舗装工事に従事した。当時は軍需産業の勃興により、自動車輸送が増加したため道路舗装が進展し、北は青森、西は山陰地方にまで業域が拡張された。しかし昭和十二年(一九三七)日華事変突発以後は、予算の重点が軍にうつり、道路工事は減少の一途をたどった。そこで横浜工場を閉鎖し、牛島専務は退任して、開店休業のまま植村克己が代表取締役となり、大林組東京支店が会社を管理することとなった。

業務が再開されたのは戦後の昭和二十三年(一九四八)で、大林組が受注した進駐軍三沢基地住宅の周辺道路舗装が最初である。次いで翌二十四年には東京都、横浜市の道路、アメリカ大使館工事等を行ない、建設業法による登録も完了した。このころから事業もほぼ軌道に乗り、進駐軍関係を中心に東京都工事や、明電舎工場の構内舗装等民間工事も受注するようになった。これを反映して資本金も増資に増資を重ね、昭和三十年(一九五五)三月には一〇〇〇万円となり、機械、人員も整備された。政府もこのころ経済復興をはかるため、昭和二十九年に道路整備五カ年計画を策定し、同三十一年には日本道路公団を発足させ、道路整備特別措置法を施行するなど、道路行政に積極姿勢をとった。これによって高速自動車国道、都市高速道路の建設が開始され、また昭和三十五年(一九六〇)以後の経済成長期にはいると、民間設備投資の活発化にともない、工場構内舗装等の民間工事も増加した。東洋舗装も名神高速、東名高速、首都高速、阪神高速等をはじめ、北海道層雲峡、伊勢志摩スカイライン等、全国にわたり自動車道路を建設した。民間工事も東芝横浜工場その他数多いが、ほかに大阪国際空港駐車場、新潟空港B滑走路等の空港工事や、横浜港および大阪南港コンテナー埠頭等の港湾施設も施工している。これらの工事内容は、アスファルトコンクリート、セメントコンクリートによる舗装工事と、これに関連する土木工事で、大林組施工の下請をも含むものである。

業績の向上と営業規模の拡大につれ、資本金も左のごとく増大したが、昭和四十二年(一九六七)二月、社名を大林道路株式会社と改称した。これは大林組との協力関係を明確にし、両社の提携を強化するとともに、発注者の信頼を深めることを意図したものである。

資本金の変遷(昭和三十四年以後)

四〇〇〇万円
昭和三十四年二月
一億円
  三十五年九月
二億円
  三十八年四月
三億円
  四十年五月
五億円
  四十五年十月
六億円
  四十六年十月
六億九〇〇〇万円
  四十六年十月
七億五〇〇〇万円
  四十七年三月

なお株式は昭和四十六年四月一日、東京証券取引所第二部に上場され、大阪証券取引所でも同四十七年三月から上場された。

現在施工中の主要工事に、中央道小牧多治見舗装工事、新東京国際空港(成田)A滑走路および誘導路舗装その他があるが、住宅建設の活発化とともに、住宅公団、住宅供給公社の団地内環境整備、民間の宅地造成等、新しい分野にも進出している。技術に対する研究も怠らず、流動やひび割れを防ぐ舗装混合物OD-NFや、セメント添加剤OD-SPLを開発し、すべての道路路盤に適するOD路盤工法、ODGすべり止め工法等、独自の技術も実用化した。営業成績はきわめて好調であるが、ことに大林道路と改称して以来の業績上昇は目ざましく、常に業界の上位を占めている。日本道路建設業協会の調査によれば、道路工事のみの実績において、昭和四十二年度に第九位、同四十三年度に第七位、同四十四年度に第五位、同四十五年度には第六位と、連続して十位以内にある。

営業機関および役員は、現在左記のとおりである。

  • 本店 東京都新宿区新宿一丁目七六 共益ビル内
  • 大阪支店 大阪市東区釣鐘町二丁目三六 ニュー大阪ビル内
  • 札幌支店 札幌市北四条西六丁目一―一 毎日札幌会館ビル内
  • 仙台支店 仙台市本町二丁目五の一 大林組仙台支店内
  • 名古屋支店 名古屋市東区武平町四丁目三 名古屋大林ビル内
  • 広島支店 広島市大手町三丁目八の三 今井ビル内
  • 福岡支店 福岡市赤坂一丁目一三の二
  • 出張所 盛岡、新潟、宇都宮、鹿島、浦和、千葉、横浜、静岡、神戸、高松、高知、岡山、鳥取、松江、下松、熊本
  • 東京機械工場 浦和市沼影六〇八
  • 大阪機械工場 大阪府門真市上馬伏六六三
  • 機械分工場 札幌、名古屋、広島、福岡
  • 門真アスコン工場 大阪機械工場内
  • 試験所 東京機械工場内
取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
取締役副社長
船倉貞一
専務取締役
池田雄二
長沼典郷
常務取締役
杉浦武夫
戸田 博
取締役
中野了三
杉下正臣
渡辺五郎
渡辺忠雄(三和銀行会長)
松島清重(大阪セメント社長)
浅田敏章(大阪スタヂアム社長)
宮森和夫(丸善石油社長)
浜地辰助(大林組顧問)
赤野 豊(大林組専務取締役)
井上忠熊(大林組常務取締役)
武田良一(大林組顧問)
足立 力(大林組取締役)
監査役
田所鎌次郎
嶋道朔郎(大林組副社長)

大林不動産株式会社

大林不動産株式会社は、昭和三十年(一九五五)一月十七日に創立された浪速土地株式会社の後身である。このころ好況に乗じて設備投資は急増したが、同時に地価の上昇も顕著となり、ビルや工場の新築を意図しても、用地難によって阻害されることがしばしばあった。その場合大林組は、敷地の入手についても斡旋の労をとり、発注者の便宜をはかってきたが、これを積極的に行なうことは工事獲得につながり、営業活動の手段ともなった。そこで適当な土地を物色して先行投資し、あるいは売買や賃貸の仲介の業をいとなむため、設立したのが浪速土地株式会社である。

創立当初の役員は左のごとくで、資本金は一〇〇〇万円、全額大林組の出資によった。

取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
常務取締役
多田栄吉
取締役
田辺 信(大林組専務取締役)
塚本 浩(大林組常務取締役)
角野千代造
監査役
酒井彌三郎(大林組監査役)
相談役
白杉嘉明三(大林組相談役)
中村寅之助(大林組相談役)

業務内容は不動産の所有、売買、賃貸および仲介と、損害保険代理業務で、東京海上火災、住友海上火災等有力一四会社と代理店契約をむすんだ。当時本店は大林組本店内におき、東京駐在員を同東京支店内に常駐させた。

その後自動車時代の到来を迎えて駐車場業務を開始し、大阪に堂浜モータープール(堂島・新大ビル裏通)と難波橋駐車場(難波橋北詰)、熱海駅第一ビル前に熱海駅前駐車場を開設した。営業成績はきわめて良好で、現在取扱い延台数は年間約九万台、駐車料収入は約一億一〇〇〇万円にのぼる。また保険代理業務も発展をつづけ、現在国内損保会社一九社のほか、AIU(アメリカン・インタナショナル・アンダライタース)およびBIG(ブリティッシュ・インシュアランス・グループ)とも代理契約を締結し、年間の保険料収入は二億六五〇〇万円に達している。この間資本金も昭和三十六年(一九六一)七月には五〇〇〇万円、同四十三年(一九六八)一月には一億円、同四十五年(一九七〇)六月に一億五〇〇〇万円、同四十六年六月には二億円に増資された。

不動産事業も昭和四十年以後は大きく転換し、デベロッパーとして宅地造成と分譲に進出した。最初に着手したのは横浜市戸塚区の湘南桂台地区で、昭和四十二年二月から北鎌倉に接する山林約一二八ヘクタールを買収し、大林組および大林道路によって造成を開始した。第一次造成の計画面積は約四三万一〇〇〇平方メートル、完成宅地面積は約二四万六五〇〇平方メートルにおよび、これを昭和四十四年十月、同四十五年八月、同四十六年四月の三期に分けて分譲を完了した。つづく第二次造成の計画総面積は、約八五万平方メートルを予定している。このほか日本生命が造成した兵庫県芦屋甲南台を、同社の委託によって分譲販売を行なったが、昭和四十四年から同四十五年にかけて受託した五一区画の全部を売りつくした。

このように業域は関西関東にひろがり、住宅産業の進展とともにさらに拡大が期待されるため、昭和四十五年(一九七〇)十月二十七日、地域的な社名である浪速土地株式会社を改め、大林不動産株式会社とした。これによって大林組との関係はより明確となり、今後マンションの建設、分譲、賃貸や、大林ハウジングと提携して、土地付住宅分譲の面にも進出することが考えられている。

現在の営業機関ならびに役員は、以下のとおりである。

  • 東京本社 東京都千代田区神田司町二丁目三 東京大林ビル別館内
  • 本店 大阪市東区釣鐘町二丁目三六 ニュー大阪ビル内
取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
専務取締役
吉野鉄治
常務取締役
平井義雄
取締役
嶋道朔郎(大林組副社長)
荒川初雄(大林組副社長)
山田新三郎(大林組副社長)
赤野 豊(大林組専務取締役)
岡田 正(大林組専務取締役)
金子 孟
監査役
小寺芳夫(大林組監査役)
相談役
白杉嘉明三(大林組相談役)

株式会社ショックベトン・ジャパン

ショックベトンとは、ショックを与えて締め固めを行なったコンクリート製品のことで、ペトンはオランダ語でコンクリートを意味する。昭和三十九年(一九六四)ごろ、わが国において建築工事にプレキャストコンクリートのカーテンウォール工法がとり入れられた当時、最もすぐれたPCコンクリートとしていち早く大林組が導入したものである。

ショックベトン工法は、オランダのショックベトン社が特許権を有し、他のPCコンクリートにくらべて均質、高密度でひずみが少なく、しかもデザインが自由であるなど多くの特色がある。これに注目した大林組は、昭和三十九年三月、取締役河田明雄をオランダに派遣し、同社と技術提携契約をむすび、日本におけるショックベトンの製造販売、取付工事を行なうこととなった。昭和四十年一月二十三日に創立された株式会社ショックベトン・ジャパンがすなわちそれで、資本金は一億円、全額大林組の出資によるものである。

創立当時の役員は以下のとおりであった。

取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
専務取締役
宮原 渉(大林組取締役)
取締役
高瀬正之
浅賀博澄
五十嵐芳雄(大林組副社長)
石渡雅男(大林組専務取締役)
河田明雄(大林組常務取締役)
髙久近信(大林組取締役)
監査役
嶋道朔郎(大林組専務取締役)
山田新三郎(大林組常務取締役)

ショックベトンの特色は、主としてコンクリート打ちこみの過程にあり、原則的にゼロ・スランプのコンクリートを均質に締め固める点にある。締め固めに用いられるショッキングは、在来のバイブレーションによるものとは全然異質で、バイブレーションの欠点である共振現象、局部的な無振動現象はみられず、振動の強弱の差によって生ずる不均一性もない。これはショッキングが、堅固な基盤の上に据えられた鋼製テーブルによって行なわれ、テーブル上に緊結された型枠中のコンクリートが、あらゆる部分で一様に動き、まったく均一に骨材を分布するためである。ショックテーブルの動きは上下方向で、テーブル自体が持ち上げられ、かつ落下する。落下の際のショックにより、大きな加速度が得られるが、くりかえしの回数は毎分約二五〇回、動きの範囲は数ミリメートルである。

バイブレーション工法による場合、型枠内のコンクリート材料の各粒子は、単純な正弦波形をなして動くが、ショックベトンは複雑な減衰振動波形のくりかえしとなる。これによってコンクリート中の各粒子は、たがいに固有の動きを示して安定する。このようにして型枠内へ段階的に投入されたコンクリートは、下層から順に締め固められ、これにともないコンクリート中の気泡は上部へ追い出され、上層のコンクリートにショッキングを伝達し、均質、高密度のコンクリートが形成されるのである。

製品の第一号は、同年七月建設された清瀬の大林組技術研究所の外壁に用いられ、その後PCコンクリートのカーテンウォールが増加するにともない、しだいに声価を高めた。ショックベトンを用いて大林組が施工した建築は数多く、電通本社ビル、同恒産ビル、住友商事ビル、大阪国際空港ターミナルビル、三井銀行事務センター、ヤンマーディーゼル中央研究所、東京造形大学、武蔵野音楽大学、近畿電気通信局、毎日札幌会館等はその代表的なものであるが、大林組自身も名古屋大林ビルに用い、また現在建設中の超高層大阪大林ビルにも採用する。他業者の間にもひろく使用され、山之内製薬焼津工場(清水建設)、大石寺納骨堂(大成建設)、神戸三宮市街地住宅(竹中工務店)、東京新宿国立医療センター(熊谷組)、奈良農協ビル(奥村組)、日本ヴォーグ社(鹿島建設)、電力中央研究所(間組)、渋谷開発ビル(東急建設)、超高層のホテル・パシフィック(鹿島建設、東京建設共同企業体)その他多数ある。また松下グループの万国博記念タイムカプセル収納箱にも用いられ、土木工事用として地下鉄セグメントにも採用された。

工場諸設備も完璧を期し、ショックテーブルは一〇メートル×二メートル、五メートル×二・五メートル、四メートル×二・五メートルの三台、全自動バッチャープラント二基用二台、各種ミキサーや油圧式耐圧試験機(二〇〇トン)その他を設備している。営業機関および現役員は下記のごとくである。

  • 本社工場 埼玉県川越市南台一丁目一〇の四
  • 東京事務所 東京都千代田区神田司町二丁目三 東京大林ビル別館内
  • 大阪事務所 大阪市東区船越町二丁目三二 大林組船越町分室内
取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
常務取締役
浅賀博澄
取締役
高瀬正之
渡辺正三
石渡雅男(大林組副社長)
河田明雄(大林組専務取締役)
高久近信(大林組常務取締役)
田中重雄(大林組取締役)
監査役
嶋道朔郎(大林組副社長)
山田新三郎(大林組副社長)

東洋ビルサービス株式会社

東洋ビルサービス株式会社は、建物および設備の管理、営繕や、清掃その他の雑作業請負を事業目的とする。昭和三十八年(一九六三)十月一日創立され、ときはあたかも黄金の六〇年代とよばれて、各地にビル建設が相次いだ時代であった。これらの建物の保全や清掃を所有者自身が行なうことは、不経済であり煩雑でもあるところから、これを専業とする企業があらわれたが、東洋ビルサービスもその一つである。設立の動機は大林組が施工した建物に対するアフターサービスを主としたが、のちに発展して現在は広く一般ビルを対象としている。当初の資本金は三〇〇万円で、役員は下記のごとくであった。

代表取締役
永田重一
取締役
小倉康治
五十嵐芳雄(大林組副社長)
宮原 渉(大林組専務取締役)
高橋誠義(大林組直轄工事部設備部長)
監査役
大林芳茂(大林組取締役)

業務内容は建物内外の清掃、熱源機器、空調、給排水等の設備管理を主とするが、警備、受付、電話交換、駐車場管理等の要員派遣も行なっている。清掃は終日常勤する日常清掃、週、月間をつうじて計画的に作業を行なう定期清掃、別途契約による特別清掃の三種に分かれ、展示会施設の設置および撤去等臨時の業務にも従事する。設備管理にはボイラー、冷凍機械、電気等について、それぞれ有資格技術者を常備、担当させている。従業員数は本社職員一〇名、技術要員六〇名、その他特種作業員を含め一八〇名である。

営業範囲は大阪を中心に京都、和歌山、愛知にまでおよび、大阪商工会議所、武田薬品工業工場および研究所、桜橋東洋ビル、京都府医師会館等有名建築が多く、作業現場数は現在六九に達した。昭和四十五年(一九七〇)五月倍増増資を行ない、資本金を六〇〇万円としたが、昭和四十七年五月には一二〇〇万円に増資した。営業成績も向上し、受注高は昭和四十六年度は二億八〇二七万円に飛躍した。さらに建築物における衛生的環境の確保に関する法律の制定により、昭和四十六年十月以後は、総面積八〇〇〇平方メートル以上の建物は、従来以上の厳密な管理を義務づけられるため、多数の有資格技術者をもつこの会社の業績はいよいよ上昇するものと期待される。

現在の営業機関および役員は、下記のごとくである。

本社 大阪市東区船越町二丁目三二 大林組船越町分室内

代表取締役
永田重一
取締役
立花久男
荒川初雄(大林組副社長)
谷口尚武(大林組専務取締役)
添田正一(大林組常務取締役)
監査役
大林芳茂(大林組常務取締役)

大林ハウジング株式会社

大林ハウジング株式会社は、大林組が創業八十年を迎えた昭和四十六年(一九七一)十二月一日創立された。東京本社、大阪本店の二本建新体制により、転換の新時代に向かって発足するに当たり、まずとりあげられた住宅事業の実施機関である。営業種目は工業化住宅の生産および販売、これと関連する不動産の各業務とし、資本金は二億円、全額大林組の出資によった。詳細については本記の終章でのべたので省略するが、その営業機関、役員は下記のとおりである。

  • 本社 大阪市東区京橋三丁目六八 北浜ビル二号館内
  • 工場 滋賀県八日市市蛇溝町長谷野一一六六
取締役社長
大林芳郎(大林組社長)
専務取締役
加藤静夫(大林組取締役)
常務取締役
灘山 敏(内外木材工業取締役)
隅谷一郎
取締役
嶋道朔郎(大林組副社長)
荒川初雄(大林組副社長)
岡田 正(大林組専務取締役)
谷口尚武(大林組専務取締役)
石井敬造(大林組常務取締役)
大重正俊(大林組取締役、住宅事業本部大阪住宅事業部長)
川島宙次(大林組建築本部住宅部長)
佐藤辰夫(内外木材工業専務取締役)
監査役
倉田善次郎(大林組常務取締役)
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