大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 きびしい試練

第三節 芳五郎の死

定款を改正―代表社員に伊藤哲郎、白杉亀造

北浜銀行の整理を終わって間もない大正四年(一九一五)二月、岩下氏は背任、商法違反などの罪名によって起訴され、中野刑務所に拘置された。芳五郎は大林組の危急を忘れ、その善後策に奔走するうち、四月六日夕、突然不快を訴え、しばらくは病名不明であったが、やがて肺壊疽と診断された。

合資会社大林組は、それまで定款によって業務執行社員二名をおき、伊藤、白杉がこれに当たっていたが、ここにおいて同月十四日社員総会を開き、定款を改正して代表社員をおくこととし、伊藤、白杉が就任した。

このころから、第一次世界大戦の影響によって景気はしだいに回復に向かい、輸出は増加し金融もゆるんだ。諸産業、ことの造船、製鉄、紡績などの工業が大いにおこり、建設業界もうるおったが、同時に鋼材やガラスなどの資材や労銀の騰貴に悩まされた。七月には大阪鉄工所(現・日立造船)桜島工場、九月には住友電線製造所などの建設を請負ったほか、山陽本線姫路網干間複線化工事、津和野線第四工区、東京鉄道病院など、鉄道関係諸工事を受託した。前にのべた京都の御即位大礼諸施設造営工事もこの年で、これにそなえて大正二年以来施工をつづけた京都停車場拡張工事(この建物はその後焼失し、現在の京都駅はその改築)が竣工した。

京都停車場
〈京都〉大正4年10月竣工
京都停車場
〈京都〉大正4年10月竣工
東京鉄道病院
〈東京〉大正5年5月竣工
東京鉄道病院
〈東京〉大正5年5月竣工

再ビ得ル能ハザルノ慈父ヲ永劫ニ失ヘリ―

この間芳五郎の病状は一進一退をくり返し、一時は回復するかに見えたが、十二月にはいると危篤状態におちいった。そして再起不能を知った彼は、病床をおとずれた片岡直輝、渡辺千代三郎両氏に、大林組と嗣子義雄の将来をねんごろに託し、大正五年(一九一六)一月二十四日夜九時五十分、ついに永遠の眠りについた。翌二十五日付大阪毎日新聞朝刊は、以下のようにその死を伝えている。

当地の土木建築請負業大林組社長大林芳五郎氏は昨年以来肺壊疽に罹り容態捗々しからざるより本月上旬摂津西宮夙川の別荘に引移り当地楠本、高安両博士の治療を受け静養中なりしが二十四日夜遂に逝去せり、享年五十三、氏は当地大林徳七氏の三男に生れ少年の頃製図学を修め建築に興味を有するより夙に土木建築請負を営み大林組を組織してこれが社長となりし以来著々事業を拡張し目下関西における屈指の土木建築業者をもって知られ、当地の第五回内国勧業博覧会、東京中央停車場、大阪箕面電鉄工事等いずれも同社の請負にかかるものにして、氏は又先年桃山御陵の御造営を仰付けられ、御斂葬の砌幄舎内参列の光栄に浴したることあり、現に大林組社長たる外広島電鉄、日本製樽会社各社長、日本傷害保険、電気信託、大阪港土地会社取締役並に京津電鉄監査役たり、氏は任侠肌なる世話好の人にて壮年の頃には随分豪遊を試み華やかなる遊びぶりを見せたることもありしが晩年は専ら書画骨董を愛し殊に故橋本雅邦の画風を喜びてその画幅を蒐集するに余念なかりしといふ、同邸にては喪を秘し居れり

一月二十七日、夙川邸で密葬を行ない、社員を代表して白杉が次の弔辞をささげた。

弔辞

維時大正五年一月二十七日、大林組支配人白杉亀造店員一同ヲ代表シ、謹ンデ我ガ店主ノ霊ニ告グ、店主ノ土木建築を創剏セラレシハ実ニ去ル明治二十五年ニシテ、爾来二十有余歳、幾多の荊棘ガ前途ヲ遮ルモノアリシト雖モ、剛侠不羇ノ天資ハ克ク其ノ難局ヲ踏破シ、遂ニ斯界ニ巨然タル地歩ヲ占ムルニ至レリ、殊ニ近年、畏クモ桃山両御陵造営ノ大命ヲ拝シ、至誠以テ任ヲ果シタルノ時、草莽微臣ノ名、忝クモ、天闕ニ達シタリト拝聞ス、嗚呼何等ノ光栄ゾヤ、店主ハ其ノ業ニ熱心ナルト共ニ、店員ヲ愛撫セラルルノ情実ニ慈父モ只ナラザルモノアリ、時ニ或ハ厳令トナリ、或ハ叱咤トナルコトアリト雖モ、衷心ノ恩愛ハ汲メドモ尽キズ、店員咸ク其ノ徳ニ服シ、相倚リ相扶ケ、業務ニ精励スルコト一家ノ如シ、是レ全ク店主ノ薫化ニ外ナラザルナリ、今ヤ業務ノ基礎漸ク固キモノアリト雖モ、斯界ノ前途尚遼遠ニシテ扶掖指導ヲ仰グコト愈切ナルノ秋ニ於テ、不幸溘焉トシテ長逝セラレ、空シク柩前ニ哭スル悲歎ニ沈マントハ、嗚呼哀イ哉、我等ハ再ビ得ル能ハザルノ慈父ヲ永劫ニ喪ヘリ、萬斛ノ涙ヲ灑グモ奈何ゾ其ノ温容ニ接スルコトヲ得ン、唯我等ノ往ク道ハ一アルノミ、今後倍々意ヲ励マシ、協心戮力、慈父ノ遺業ヲ振興シ、業務ノ盛隆向上ヲ遂ゲ、以テ尊霊ヲ慰メ奉ラントス、惟フニ英霊長ヘニ我等ヲ愛撫加護セラルベキヲ信ズ、綿々タル哀情爰ゾ一篇ノ文辞ニ尽クスヲ得ン、茲ニ恭ク敬慕哀悼ノ意ヲ表シ奉ルノミ、翼クハ英霊瞑リ安ラカナレ、噫

大正五年一月二十七日
白杉亀造

翌二十八日、大林家は喪を発し、各新聞に嗣子義雄、女婿賢四郎の名で、死亡広告を掲載した。親戚総代には大林亀松、大門益太郎、砂崎庄次郎、浜崎永三郎の四氏、友人総代として今西林三郎、片岡直輝、高倉藤平、男爵郷誠之助、志方勢七、七里清介の六氏が名をつらねた。また合資会社大林組も、代表社員伊藤哲郎、白杉亀造の名によって、死亡広告を掲載した。

本葬は二月二日午後二時、大阪市四天王寺本坊で執行され盛大をきわめた。翌三日付大阪毎日新聞は、その状況を次のように報道している。

当地大林組相談役故大林芳五郎氏の本葬儀は既記の如く二日南区四天王寺本坊内において執行さる。正導師京都小松谷御坊大門了康氏、脇導師当地竜淵寺住職河原秀孝師以下名僧侶着席にて午後三時法要に入り、済生会長徳川公爵代理、日本赤十字社長花房子爵代理、東京建築協会理事横川博士及び友人総代今西林三郎氏等の弔辞、弔文についで喪主義雄氏、未亡人ミキ子氏以下各親戚等の焼香ありて静粛の中に五時式を終りたるが、会葬者は無慮三千数百名の外南北各遊廓の女将芸妓連等も多数見受けられ、寄贈の供花は上原大将、中島、郷各男爵等数十個に及び境内は非常な雑沓を見たり。

このときささげられた弔辞のうちから、友人総代今西林三郎氏のものを次にかかげる。

維時大正五年一月二十四日、友人大林芳五郎君疾を以て夙川邸に逝く、嗚呼哀しい哉、君幼にして父に別れ具さに辛酸を嘗め、奮然志を立てて東京に出で、土木建築の業務に従事すること数年、一意励精、能く事業の薀奥を究め、遂に明治二十五年大阪に於て独立その業を剏め、年を閲すること二十数年、経営企画宜しきに適ひ、漸を追ふて地歩を占め、創業以来今日に至る迄その施工せる請負事業は約数千万円の巨額を算す、而してその大なるものは先に在っては第五回内国勧業博覧会の建築、大阪湾築港工事を始め、軍用鉄道の敷設、陸軍病院及兵営の建設等殆ど楼指するに遑あらず、更に最近に於ける大阪軌道の生駒隧道の開鑿並に東京中央停車場の築造の如き、孰れも空前の巨工たらずんばあらず、曩に、明治天皇崩御あらせらるるや、特命により御陵の造営に奉仕し、その御斂葬に際しては草莽の身を以て畏くも幄舎参列の恩命に浴したるのみならず、伏見桃山東陵の工事担当の栄を荷ひたるは洵に絶大の令誉なり、是より先、明治四十二年七月個人経営の方針を改め、合資会社大林組を組織し、時勢の推移に伴ひてその規模を拡張し、多年その事業に参与せる有為の士をして業務を担当せしめ、自ら監督の衝に当り、深くその部下を愛撫して苦楽を共にし、事業の基礎歳と共に益鞏固を加ふるに至れり、業余、又力を経済界に注ぎ各種の事業を発起経営し、現に広島電気軌道及日本製樽両会社の社長たり、惟ふに君、資性任侠にして然諾を重んじ、頭脳明晰にして裁断流るるが如く、豪胆能く事に当り、百折不撓、万難を冒して敢えて屈せず、遂に今日あるを致せり、君は実に我国土木建築界の覇王にしてその手腕声望共に儔するものなし。その業界に於ける功や決して没すべからず。然るに今や溘焉として長逝す、嗚呼哀しい哉、君年歯未だ耳順に達せず、前途多望の身を以て空しく黄泉の客となる、洵に痛悼の至りに堪へず、茲に友人を代表して粛んで英霊を弔し哀悼の意を表す、尚くば享けよ

大正五年二月二日
友人総代 今西林三郎

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