大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 日露戦争と大林組

第一節 朝鮮への進出

朝鮮半島縦断の軍用鉄道建設

明治三十七年(一九〇四)二月十日、日本はロシアに宣戦を布告した。日清戦争以来、朝鮮をめぐって対立した両国の関係が、ついに爆発したのである。多年にわたる帝政ロシアの南下政策と、日本陸軍が伝統とした大陸政策との宿命的な対決であった。

開戦不可避とみた政府は、前年中にほぼ準備をととのえたが、兵站輸送のための朝鮮半島縦断鉄道計画も、その一つである。明治三十四年(一九〇一)に設立された京釜鉄道株式会社により、京城、釜山間の鉄道は部分的に開通していたが未完成であった。これを同三十七年末までに速成させるため、緊急勅令によって一七五万円を支出し、さらに必要によって四五万円以内の増加を認めたのは、小村外相とローゼン公使の日露交渉が、最終段階にあった三十六年末である。

また開戦の直後、陸軍は京城と義州(新義州)間鉄道の急設を必要とし、臨時軍用鉄道監部を設け、軍用鉄道工事に着手した。京釜線の全通は明治三十八年五月、京義線は翌三十九年四月で、これによって釜山から鴨緑江までが鉄路でむすばれ、軍事目的のみならず、その後の満州経営に大きく貢献した。

内国勧業博工事で業界に確固たる地位を占めた芳五郎は、日露戦争勃発によってさらに飛躍を期した。その第一は朝鮮の鉄道工事で、第二は国内の軍事諸施設や、前にのべた旅順閉塞船用の石材調達、積みこみなどの軍工事で、これらは大阪築港工事と並行して行なわれた。

店名を「大林組」と定め京釜線工事に参加

芳五郎が朝鮮進出を決意したのは、京釜鉄道速成の緊急勅令が布告されたときで、開戦直前の明治三十七年一月中旬、白杉亀造、野々下高助、石川梅吉の三店員を渡鮮させた。彼らは釜山草梁の建設事務所を訪ね、工事参加の申入れをして大邱に到着したところ、ここに留置電報があって帰国を命じられた。第四師団(大阪)から、軍夫五〇〇〇名の供給を命令されたためである。彼らは工事獲得の計画を放棄し、帰阪してその募集に当たったが、出発まぎわに軍命令で中止となった。

そこでふたたび京釜線工事参加がとり上げられ、福本源太郎以下数名の店員を派遣したが、ときすでに遅く、工区割当ては終わっていた。明治三十四年の工事開始以来、大倉組、鹿島組、杉井組、間組、稲葉組、菅原工務所など多くの先輩業者が、それぞれ実績をもっていたからである。しかし永同付近の第五工区第八小区を特命された米国工学士時任精一が、資金関係で着工できなかったのを譲り受けることに成功した。時任は仁川支店技師長として、この工区の施工に当たった。仁川支店は新設で、支店長は笹田柾次郎、伊集院兼良がこれを助けた。

なお、このころ(明治三十七年二月)大林店、あるいは大林芳五郎店と称していた店名を、正式に「大林組」と命名した。軍の要請によるもので、軍夫に支給する法被も、新店名に染めかえられた。

京義線のステーション五十九ヵ所を一斉に着工

京釜線に引きつづき京義線工事にも参加したが、このとき直接仕事を担当した白杉嘉明三に以下の談話(白杉嘉明三「回顧七十年―大林組とともに―」日刊建設通信新社専務、田中孝氏との対談から)がある。

そのころ、別に竜山から新義州にいたる間の京義鉄道という軍用鉄道の工事がはじまりまして、そのほうの仕事をもらいました。はじめは竜山から新義州の間、これが約三百マイル(四八三キロ)くらいあるのです。そのうちに平壌、新幕、汗浦というところの機関車庫、そのほかに平壌方面の本線工事も二工区ほどやっていました。ところが、そのうちに軍のほうから、さらに大きな工事をやる、といってきた。竜山、新義州の間に五十九カ所のステーションがあるのです。五十九のステーションといっても、十二坪五合(四一・二五平方メートル)から二十五坪(八二・五平方メートル)ぐらいな小さなものばかりで、そこに駅員の休憩所、宿泊所というようなものを、三棟から四棟、平壌、兼二浦などの多いところで十五棟、それをやれというわけです。

―全延長にバラバラにやるわけですか。

そうです。うちの出張員なり、大林のために非常に奔走してくれた方もありまして、つまり現地の人たちは、仕事さえもらえばいい、というくらいの気持ちでやったんですな。それがのちに命取りの大問題になった、それで非常に困ることになったわけです。そのときの京義鉄道の工事は、山根武亮という陸軍少尉で、鉄道監ですな、その方から大林の店に電報がきました。「工事進まん、大林出頭せよ」と、こういうわけなんです。そこで大林も非常にびっくりしまして、「これは困った。ぼくは行けないから、白杉おまえ行け」と、こんな命令ですわ。

それでわたしは行きたくなかったんですけれど、ぜひ行けというわけで、やむを得ず行くことになりまして、ちょうど神戸を十月の十七日ですか、神嘗祭の日に社員を五、六人つれまして、その時分のことですから、神戸、下関、釜山、木浦、群山、仁川と、約五日がかりで行ったわけです。そして仁川につくと早々に鉄道監部に出頭して「実は大林がまいるはずでございますけれども、大林はただいま内地で軍の仕事をたくさんやらせていただいているので、当人はまいれません。わたしが代理でまいりました」と申しますと、総務担当の人で渡辺中佐という人と、それから技師長が、これは少佐待遇でありましたが遠藤という人、この二人が「なんだ、大林はなぜ来ないんだ」「いや、実はいま申しましたとおり、内地で軍の仕事に追われておるので、わたしがまいりました」「ばかいえ、きさまみたいな若僧に、なにができるか」というようなわけで、こっぴどくやられました。

―そのとき、白杉さん、おいくつだったんでしょうか。

二十九歳です。けれども「まあせっかくまいりましたので、わたしが一生懸命努力します。ただいま着いたばかりですから、各出先きの報告を聞く必要がありますので、どうぞ二、三日待っていただきたい」とお願いして、すぐに―朝鮮にローマ字で電報がありましたから―それを使っていろいろ調べますと、とにかく職工が足らん、大林の社員も足らんのです。なにしろ延長三百マイルのところですから、これはなかなかたいへんな仕事で、どうしていいか困ったんですけれども、いろいろと相談の結果、これはひとつ内地に電報を打たなきゃならんというので、大林の店と、それから特別に大林の主人にも電報を打ちました。「工事が遅れて、非常におしかりを受けた。どうしても大工二百人と鳶百人、社員二十名、資金を二十万おくれ、そうでなければこの仕事は成功の見込みなし」というわけです。

そうしたら、翌日すぐ返事がきました。「電見た。委細承知した。すぐやる」と、こういうはっきりした返事なんです。わたしは心の底から感激しました。これは偉いもんだ。だが、肝心のものは果たしてすぐ来るかいなと思っていましたら、ちょうど十一月三日の天長節の日、午後三時ごろでした。京畿丸(五百トン)という船をチャーターして、そのマストの上に大林旗をひるがえし、仁川港へはいって来ましたわ。社員たちが下船して来る。職工はそろいのハッピ姿で、続々上陸して来ますし、材料はどんどん荷揚げされるし、さすがに仁川の街を驚かせましたね。わたしはこれを出迎え、若僧の打った、たった一本の電報を主人が信用して、即座に実施してくれたのですから、これはもうなんでもかでも、やり抜かなければならんと、感激とともに一大決意をかためました。

なお、わたしはその前に、鉄道監部に行きまして、本店からの電文を見せて「こういうふうにいってきました。大工、人夫、金を送ってきますが、ただ三百人の人間がくると宿がない。どうか臨時の宿舎として劇場を二日間徴発して下さい」。すると、そうか、なるほど、そういうことかというんで、すぐ徴発してくれました。鉄道監部においても、大林は偉い、やるな―というんで、驚きもし、本腰をすえてどこまでやるかみようということで、あれほど強硬だった態度が、やわらかになり、非常に好意的になってきました。

―なるほど、それでは工事が遅れたというのは、具体的にいうと、やはり慣れない場所ということなんでしょうかね。

なにぶん総延長三百マイルのところに、五十九カ所のステーションを、点々と建てるのですからな。その建物というのは日本畳敷きの部屋と土間、イロリ、台所、風呂、炊事場、便所など、建具はガラス入りで蝶番、錠前つきの小さいながら一人前の建物で、これらの材料のほとんどは日本内地から取りよせる。せっかく取りよせた畳でも、寸法の合わぬこともあり、畳切り包丁、畳へり、畳針、畳糸、ガラス切りなど、これもいちいち内地から取りよせて配給せねばならん。ことに軍からの支給品材料は、仁川と鎮南浦と新義州の三カ所で受取り、おのおの配給しなければならんわけです。

ところが仁川方面あるいは鎮南浦、新義州にしても、京城以北には道路というものは人が歩く道くらいで、二輪車はない。朝鮮独特の一輪車はありましたが、それに材料を積むかあるいは馬背によるか、または朝鮮人のチゲという荷持ち―その背中に負う。これ以外に運送の方法がないのです。ですから、いわば注文した軍のほうも、まことに調査が足らん。引受けた大林も不用意であったのです。

もともとそれだけの区間で、たくさんの土木屋さんは鉄道の本線工事をしているんですから、そんな建物はその工区、工区に分けて、おっつけたらいいんです。ところがみんな面倒がって逃げたんですな。不便な朝鮮で、そんな建築なんか困るというんで―。そのため残ってしまった仕事を、大林がドサッともらって引受けたわけです。これには非常に弱りました。けれども引受けた以上は、泣きごとをいうても仕方がない。本社からきた社員や職工を、それぞれ要所要所に配置し、材料も運搬配給して工事のほうはだいぶ進捗しました。けれども二十万円の資金のほうは、すぐになくなってしまいました。

それでわたしは本店にむかって、さらに十万円送れと電報を打ったんですが、こんどは「金送らぬ。取下げにて融通せよ」という返事なんです。金を送らんから、金をもらって使えというわけですな。そこでわたしは仕方なく、その電報を渡辺さんと遠藤さんに見せて、実は資金が足りなくなったんで、少し金をもらいたいということを申し出た。そうしたら「ばかをいえ。こんなに仕事が遅れているのに、金など払えるか。顔洗ってこい」といわんばかりですな。

そこでこんどは、第一銀行の仁川支店へ出かけた。わたしが行くまでに内地から振りこんだ金、それから私が行ってからの二十万円と、約四十万円ほどです、これを証明書にしてもらい、ほかにいろんな材料もたくさんきておるのですから、それを調べて「こういうふうに自分のほうでは、工事上たくさんの金を注ぎこんでおる。無理をいうようですけれども、なんとか金をもらわないと困る」と話したところが、こんどは経理官が「それは一応わかる。けれどもその金はなかなか払えぬ。仮に払うとしても、会計法により工事の既成調書がなくては、経理では払えんのだ。いま全線三百マイルにわたる各現場の既成調書をまとめるにしても、少なくとも一カ月くらいかかる。だから同情はするけれども、手続き上困る」というんで追っ払われたわけです。

それで、しょうがないので、やむを得ず、鉄道監山根閣下のところへ行きまして「閣下、実はこんなことを直訴するのは、はなはだ恐れ多いんですが、かくかくしかじかで、資金、材料も来ましたし、人間も来たんですけれど、これ以上続けていく資金がなくなった。このとおり第一銀行の証明書を見てもらったらわかるとおり、相当の資金を送って来ておるので、経理官に頼みましたが、既成調書がないと払えぬといわれましたし、ここで金がないということになると、わたしはもう方法がないんです。どうぞ助けて下さい」というような意味のことを哀訴歎願したわけです。

「そうか、よっしゃ、考えてやる」ということでありましたが、翌日になって出頭せよということで飛んで行きましたら、「この間、技師長の遠藤少佐が全線を視察した。そこで形式的に遠藤少佐を検査官にして、遠藤に既成調書をつくらせた。これでなんとか払ってやる」というのです。そのときばかりは、ほんとに神の助けとばかり歓喜しましたね。それから二日ほどしたら「金をとりに来い」ということになり、二十八万六千円くれましてね。びっくりしましたし、ああ、ありがたいと思いましたね。

そのうちの二十万円を、さっそく本社に送金した。八万六千円でどうにかやっていこうというわけです。大林の主人もあとで会うたときに、よくやってくれたといって喜んでくれました。それから、全線の工事をやるといっても、平壌以北は結氷のために仕事ができないので「とにかく平壌以南は絶対に完成せよ。平壌以北は解氷期の来年五月まで延期を許す」という許可を得て、南のほうだけは完成しまして、いっぺん内地へ帰って来たわけです。……

仁川支店で―(左端・白杉亀造)
仁川支店で―(左端・白杉亀造)

新義州に製材工場を設置

この朝鮮進出における請負金総額は八六万円で、以上のような事情により莫大な損失を受けた。しかし工事に対する誠意は認められ、山根鉄道監以下当局の信任を得て、別に十数件の特命工事を獲得した。新義州の製材工場建設もその一つである。

これは陸軍がロシア軍から没収した木材を製材し、鉄道枕木その他の施設に使用するためで、工場建物のみならず蒸気機関、発電機、製材機械などの設備いっさいを下命された。明治三十七年(一九〇四)五月から二カ月で完成し、製材事業も命じられたため、工場長に伊集院兼良、副長に多田栄吉が就任した。このとき工場の余剰電力を利用し、新義州の駅に電灯を点じたが、これが北鮮における電灯のはじめとされ、近隣の朝鮮人は、もの珍しさにわざわざ見物にきたという。この工場は翌三十八年、大林組に払下げられ、新義州大林製材工場(工場長笹田柾次郎、のち多田栄吉)となったが、のちに朝鮮総督府営林廠の経営に移され、大々的に発展した。多田はその後大林組を離れ、同地に永住して各種の事業をいとなみ、辺境開拓の功によって叙勲されたが、昭和七年には大林農場取締役に、同三十年には浪速土地株式会社常務取締役に就任した。

新義州大林製材工場
新義州大林製材工場
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