第二節 株式会社大林組の設立
合資会社大林組を合併―新発足
危機を突破した大林組は、大戦景気にささえられて年ごとに発展を重ねた。このころわが国は工業生産がようやく農業生産を越えて近代国家に脱皮し、企業も個人経営から株式会社組織へ移行するものが相次いだ。業界最初の株式会社は大倉土木組で、大正六年末、株式会社大倉組から分離独立したのであるが、関西では翌七年六月、鴻池組がこの組織をとったのがはじめである。
業務の発展にともなって経営規模を拡大し、従業員数も二〇〇名を越えた大林組も、近代化のためには従来の合資会社より株式会社を適切とした。そこで大正七年(一九一八)十二月一日、大林義雄、大林賢四郎、大林亀松、伊藤哲郎、白杉亀造、岡胤信、有馬義敬、松本禹象を発起人として、株式会社大林組の創立総会を開催した。資本金は五〇万円で、額面五〇円の株式一万株を発行、一株の払込金を三〇円として九六〇〇株を発起人が引受け、植村克己と富田義敬が各二〇〇株を引受けた。役員は社長に大林義雄、常務取締役に大林賢四郎、伊藤哲郎、白杉亀造、取締役技師長に岡胤信、監査役に大林亀松が選任された。発起人のうち大林亀松は芳五郎の妹たかの婿養子で、有馬義敬は生駒隧道工事の総主任、松本禹象は本店建築部長であった。また株主となった植村克己は東京支店長、富田義敬は小倉支店長であった。
このとき本店所在地は大阪市東区北浜二丁目二七番地ノ乙(翌大正八年七月一日、東区京橋三丁目七五番地の新社屋落成により移転)、東京支店は同市麹町区内幸町一丁目三番地であった。
株式会社設立は合資会社大林組との合併を前提としたもので、同月十七日、臨時株主総会を招集し、合資会社を解散して、新会社がその営業権、営業機関、諸施設などいっさいの権利義務を継承することを決議した。合併条件は、合資会社の大正七年十一月現在の財産を九〇万円と評価し、新会社の資本金を二〇〇万円として、額面五〇円、払込済三〇円の株式三万株を発行、合資会社の出資社員の出資額に応じ交付することなどである。
合資会社大林組も以上にもとづき所要の手続をとり、翌大正八年三月十日、臨時株主総会において合併を承認し、翌十一日登記を完了、また、これと同時に小倉市米町二丁目三二番地に小倉支店を設置した。なおこのとき片岡直輝氏は、絶対無報酬を条件に、みずから進んで相談役に就任し、芳五郎の遺嘱にこたえた。
設立当初の株式会社大林組は、この株式配分方式にみられるように、きわめて閉鎖的であり、定款第十条には以下の規定がある。
第十条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ニアラサレハ本会社ノ株主タルコトヲ得ス
一、大林義雄若クハ其後ニ於ケル大林家ノ戸主
二、本会社ノ業務ニ直接干与セル者
三、本会社ノ取締役、監査役及使用人中社員以上ノ者
前項ノ資格ノ有無ニ関スル本会社ノ認定ニ対シテハ株主ニ於テ異議ヲ述フルコトヲ許サス
この閉鎖性は、他の企業でも同族資本にしばしばみられるが、大林組の場合は大林家の独占を意味するものではなかった。大林家は一万株の株式を社員に寄贈し、その管理機関として大林組社員援護会を設けた。当時の社内発表によると「事業経営ニ就テハ資本ト労務トノ関係ヲ一層親密ニシ其結合ヲ鞏固ナラシメ以テ益々基礎ノ堅実ヲ図ルト同時ニ各位ニ対シ其生活ノ安定ヲ保維スヘキ途ヲ講スルノ緊要ナルヲ惟ヒ」と設立趣旨をのべている。
一万株のうち六四八五株は、当時勤続十年以上に達した社員にただちに贈与され、残余はこの援護会が配当金とともに管理に当たり、以後勤続十年に達した者に贈られることとなった。昭和十六年、社員援護会は解散し、柏葉会(後述)がそれに代わったが、この社員持株制度は当時にあってきわめて進歩的な、珍しい例とされた。
諸規定を改正整備―工事用機械を充実
会社設立当時の本社組織は、庶務(部長 小倉保治)、会計(部長 中島茂義)、営業(部長 大林賢四郎兼務)、現業(部長 松本禹象兼務)、設計(部長 鈴木甫)の五部に分かれ、西区境川に別に製材部(部長 三宅勘太郎)がおかれていた。
社員服務規定その他諸規定も、すでに制定されていたが、これを機として改正整備されたものが多い。その二、三の例をあげる。
本、支店の勤務時間は、春季皇霊祭(春分の日)から秋季皇霊祭(秋分の日)にいたる期間、午前八時~午後五時、秋季皇霊祭から翌春季皇霊祭まで午前九時~午後五時、出張所および工事現場は季節により午前六時半ないし七時半から日没までである。また休日は祝祭日のほか、本、支店は日曜日を半数交代とし、出張所および工事現場は毎月一日と十五日の二回であった。さらに年間をつうじ十四日の特別休日を与える有給休暇制も、すでに存在した。
本店の夜間宿直は、社員および準社員のうち一名が当たり、宿直手当として平日は六〇銭、休日は一円五〇銭を支給された。耐火建造物の少なかった当時のことで、火の元および火災時の注意が詳細に規定されている。また綱紀維持に関し「下請人ノ責任ニ属スル事項ニ付仲介干渉等ヲ為ササル様心得方」と題して、次のような通達もあった。
凡ソ社員ニシテ下請負人ノ責任ニ属スル工事ノ部分施工方ヲ更ニ他人ニ斡旋シ之カ仲介ヲ為シ若クハ故ラニ世話役下方等ノ使傭ヲ慫慂スルカ如キハ啻ニ下請負人ノ行動ヲ制肘スルノ嫌アルノミナラス業務上種々ノ弊害ヲ醸スニ付斯ル所為無之様特ニ注意スヘシ
下請関係では、常時出入りする業者によってすでに連絡親睦機関「大林組林友会」があったが、これもこのころ規約を定め、役員をおくなど機構が整備された。会員間の慶弔についてはもとより、会員および配下労務者の作業中の事故に関しても、死者、重傷者、軽傷者の別により、弔慰金、見舞金の額を定めた。当時としては、きわめて進歩的な制度である。これら諸規定の制定、整備は、ほとんどが小倉庶務部長によって行なわれた。
工事用機器も、輸入品のダンプカー一〇台をはじめスチームハンマやコンクリートミキサ、エレベータ、鋼矢板、潜水器具など最新式のものをそろえ、業界の最先端にあった。また材料運搬用に曳船用小汽船を製材部に常備し、当時はぜいたく品のようにみられた自動車も、自家用として本社に二台そなえた。
このようにして大林組の体制がととのい、発展の緒についた大正八年十一月十七日、かねて病気療養中だった常務取締役伊藤哲郎が死去した。年わずかに四十八歳であった。彼は主として営業を担当したが、天才的といわれたほど計数に明るく、機略に長じ、対外折衝に手腕をふるった。創業間もない芳五郎をたすけ、苦難をともにした伊藤の死は、ようやく大林組が花咲き実をむすぼうとする時期であっただけに、内外の人々から深く惜しまれた。