第二節 復興景気―大正末期の活況
耐震耐火の復興建築
大正九年の恐慌以来、なお不況を脱却しきれなかったわが国経済に、この関東大震災は壊滅的な打撃を与えた。政府(山本権兵衛内閣)は九月二十七日、日銀震災手形割引損失補償令を公布し、日本銀行の特別融資は四億三〇〇〇万円を越えた。また中小商工業者などに対しては、再建資金として五六〇〇万円が預金部資金から放出された。さらに同年末の第四十七臨時議会では、復興五カ年計画などが決定し、一五億五〇〇〇万円におよぶ巨額の支出が発表されたが、そのうち一一億円は政府公債を財源とするものであった。また翌十三年(一九二四)二月、六分利付外債五億五〇〇〇万円をロンドンおよびニューヨークで発行し、別に民間外資の導入も行なわれた。
これら一連の措置は、非常事態に処するやむを得ない方便であったとしても、必然的に通貨の増発となり、インフレーションを招いた。また復旧に要する諸資材の大量輸入は、国際収支を極端に悪化させ、円為替を暴落させた。資本主義的成長をとげつつあったとはいえ、まだ底の浅いわが国経済にとって、これは避けがたい経過であった。しかしこのインフレ気運は、表面的には「復興景気」として歓迎され、建設業界にも好影響をおよぼした。
復興建築はまず仮設と応急復旧にはじまり、次いで本格的な修築、新築に移行した。新しく建てられる建物は大震災の教訓によって、またすでに開幕した近代建築時代の要請によって、そのほとんどが耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造を主とした。そして帝都復興にあらわれたこの風潮は、たちまち全国に波及して、各地に起工されるものも、いわゆる「本建築」が多くなった。
増資、本店新築、副社長制
この情勢に適応するため、大正十三年(一九二四)四月、株式会社大林組の資本金を三〇〇万円増加して、五〇〇万円とすることとなった。新株一株の払込金二〇円、総額一二〇万円で五月に払込を終わり、払込済資本金は三二〇万円となった。
従業員数も大正十年十月現在、役員を含め三五三名だったものが、同十三年一月には五七〇名、同十四年一月には六八一名に達した。また株式会社設立当時から、大学・専門学校および実業学校の推薦により、卒業生の定時採用を行なっていたが、これも大正十年の三〇名に対し、同十三年は五六名、十四年は七四名、十五年には八六名と毎年急増している。
これにともない、本店事務所が狭くなったので、隣地(大日本人造肥料会社所有)を買収し、旧建物を撤去して、大正十三年五月、新築工事に着手した。その間本店は西区江戸堀上通一丁目二五番地、日本海上ビルに移転し、同十五年(一九二六)六月二十五日、新館落成とともに復帰した。また同十四年五月、横浜出張所(同市太田町二丁目四〇番地、十五ビル内)を、同年七月、名古屋出張所(同市中区新柳町六丁目三番地、住友ビル内)を、それぞれ支店に昇格させ、従来の東京、小倉と合わせ四支店となった。東京支店は同十五年二月、震災後の前記仮事務所から三菱仲二十八号館(麹町区永楽町二丁目一番地)にうつった。
工事機械も増強の必要を認め、大正十三年二月、大西源次郎、伊藤義弘をアメリカに派遣し新鋭機器を購入した。コーリング、ランサム、スミスなど諸会社製のコンクリートミキサ、インスレー式エレベータ、インガソール、サリバン、ペンシルバニアなどの各種空気圧縮機、マキナンテリー製7B、9B、11Bなどの各種スチームハンマその他を導入した。これらはその高性能が各方面の注目をひき、国産機械改善の好資料とされた。
会社組織も強化され、大正十三年十二月、新たに副社長制を設け、大林賢四郎がこれに就任した。また常務取締役には、これまでの白杉のほか松本禹象、植村克己が加わり三名となった。大正十五年には長く技師長として発展につくした取締役岡胤信が辞任して顧問となり、工学博士直木倫太郎が代わって取締役技師長となった。直木は大阪市都市計画部長、復興局長官などを経て入社したもので、年俸一万円、この俸給は国務大臣と同等であった。
このころ大林組が年中行事として行なった技術者招待会は毎年二月初旬開かれ、業界の名物となった。招待者は大学教授、各官公庁技官、設計事務所などの技術者で、少ないときで一〇〇名、多いときは三〇〇名に達し、業界の大御所片岡安、武田五一(京大)、古宇田実(神戸高工)、置塩章など諸名士の名がみられる。会場は、はじめ大阪ホテルのちには中央公会堂が用いられた。豪華な景品の当たる福引きや、舞踊などの余興もあり、懇親を主とした夕食会であったが、招待者を厳選したことから権威を生じ、これに出席することは技術者の誇りとされた。この催しは大正天皇の御大葬のあった昭和二年を除き、昭和十五年(一九四〇)ごろまでつづいたが、時局の切迫によって廃止された。
人絹工業の興隆―画期的な施設拡張
関東大震災後わが国の政局は、山本、清浦両内閣とも短命に倒れ、大正十三年六月、憲政会を主軸とする加藤高明内閣が成立した。蔵相は浜口雄宰で、つづく若槻内閣にも留任したが、財政経済政策はきわめてきびしく、経費節約、公債縮小などの緊縮方針を堅持した。このため政府事業は引きしめられ、復興景気は高揚せず、建設業界の受注競争は激化した。しかし国際収支は改善に向かい、物価は下落に転じて、経済は安定の方向をたどった。
大正十三年(一九二四)五月、政府は財団法人同潤会を設立し、東京の渋谷代官山、青山、江戸川、横浜の山下町に鉄骨鉄筋コンクリート造アパートを建設した。震災後の住宅不足対策として行なったもので、第二次世界大戦後の公団住宅のさきがけをなすものである。大林組はこのうち横浜の山下町アパートを受注、大正十五年七月着工、昭和二年四月に完成したが、これに先立ち東京お茶の水(文京区元町一丁目)の文化アパートを施工している。ヴォーリズ建築事務所設計によるもので、大正十三年八月起工、翌十四年六月竣工、地下二階、地上四階、四二戸一〇三室、これは日本における最初の本格的アパートであった。
大正末期のわが国経済は、政府の緊縮政策によって対外為替は回復し、物価は下落したが、これにともなう不景気は避けがたく、産業はふるわなかったが、注目すべきは人絹工業の勃興である。人絹工業はのちに綿紡績をしのぎ繊維産業の花形となり、戦後の合成繊維時代へのかけ橋をなすにいたった。
この業界の先駆者は大正七年設立された鈴木商店系の帝国人造絹絲(現・帝人)であるが、同十三年、旭絹織(現・旭化成)がドイツの特許によるビスコースレイヨンの製造を開始したことにより急速に興隆した。同十五年には三井物産系の東洋レーヨン(現・東レ)、大日本紡績による日本レイヨン(現・ユニチカ)、倉敷紡績による倉敷絹織(現・クラレ)などが相次いで設立された。政府はこの年、輸入レイヨン系に対し高率関税を課して保護措置をとった。
大林組は芳五郎創業の当時、朝日紡績、金巾製織などの工場建設を請負い、紡績業の興隆に歩みを合わせたことはすでにのべたが、いままた同様の時期に際会した。大正十四年(一九二五)には旭絹織膳所工場、帝国人絹岩国工場を、翌十五年には東洋レーヨン滋賀工場、昭和二年には倉敷絹織倉敷工場を、相次いで受注している。これらはいずれも大工事で、一〇〇万円を越える工事が少数だったころ、旭絹織膳所工場は一二五万円、帝人岩国工場は二二九万円、東洋レーヨン滋賀工場は四二〇万円という画期的な請負金額であった。なおこれら諸工場は拡張に拡張を重ねて、追加工事が相次いで発注された。
また、このころ電気事業も隆盛におもむき、大正十三年の五月に完工した信越電力中津川発電所は工費三八〇万円、同十五年着工の神岡水力電気高原川工事は一一〇万円を越えた。このほか宇治川電気木津川発電所、広島電気江ノ川能見発電所その他、多くの電源開発工事を施工し、火力発電でも請負金額二三五万円を越える日本電力尼崎発電所など多数の工事に従事した。
鉄道、橋梁関係でも、愛知電鉄、飯山鉄道、新京阪鉄道天神橋~新淀川間高架線および天神橋停留場(新京阪ビル)、阪神急行西宮~今津間路線、同新淀川橋梁、大阪電気軌道上本町停留場(大軌ビル、のち近鉄上六ビル)などがあるが、阪神国道改修に際し架設した西成大橋(完成時に淀川大橋と命名)は大工事として知られた。この請負金額は一〇〇万円を越え、一橋梁の工事費としては希にみるものであったが、この開通によって阪神間の産業動脈は貫通した。
以上のほか、大正末期における主要工事をあげると次のとおりである。
- 公共―明治神宮外苑競技場、兵庫県港務部庁舎、東京帝大工学部応用化学教室、横浜生糸検査所、東京府美術館(現・東京都美術館)、日本銀行神戸支店、那須御用邸、新宿駅、八重洲橋、堂島大橋
- 民間―大阪倶楽部、鴻池銀行本店、住友銀行名古屋支店、日本勧業銀行大阪支店、宝塚ホテル、順天堂医院、神戸住友倉庫、江商ビル、大阪三品取引所、甲子園球場
大阪三品取引所の工事では、大阪ではじめて鉄製ガイデリックが用いられた。これは大正八年渡米した本田登が、安治川鉄工所にスケッチを示し、ウィンチとともに製作させたものである。すでに前年東京で使用したことがあり、建てかたと操作については、経験のある鳶職が東京から出張して指導に当たった。しかしウィンチにはスウィンガーがなく、デリックもブルホイールのないもので、ウィンチで回転させることができなかったため、ガイデリックの下部に丸太を入れ、人力によって動かす幼稚なものであった。鉄骨を運ぶのは荷馬車で、これを工事現場わきの道路にとめ、デリックのブームを板囲いの外にのばし、鉄骨を吊り上げる原始的なものだったが、これがもの珍しく、町の話題となり、見物人が絶えなかったといわれる。
大阪倶楽部は大正二年、木造建築として大林組が施工し、当時も有名であったが、大正十一年末、鉄骨鉄筋コンクリート造に改築され、大正末期の代表的建築として現在残された数少ないものの一つとなっている。
甲子園球場は大正十三年、阪神電鉄会社が開設し、この年の干支が甲子に当たっていたためこの名がある。全国中等学校(現在の高等学校)優勝野球大会を主目的に建設され、東洋最大と称された。観覧席をおおう大鉄傘が名物であったが、昭和十八年(一九四三)、金属回収令によって解体撤去され、戦後さらに復活した。プロ野球の隆盛とともに阪神タイガースのホームグラウンドとして、現に多くの観衆を集めている。