第一節 朝鮮戦争で局面一転
安定恐慌―倒産企業続出
占領政策が転換され、アメリカの対日援助が産業復興の方針をとるにいたって、鉱工業生産は昭和二十三年(一九四八)には戦前の五四・六%に回復し、翌二十四年には六〇%に達した。GHQドッジ公使の勧告により均衡予算が実施され、さらに一ドル=三六〇円の単一為替レートの設定、シャウプ勧告による新税制などの一連の措置がとられたことによって、わが国は経済危機を乗り越えた。通貨の増発はとまり、ヤミ物価は低落に向かって、インフレは抑制された。これは日本経済が自立し、統制経済から自由経済へ移行する道を開くものであったが、同時に大きな犠牲をともなった。滞貨の増大や企業収益の悪化は、あらゆる産業にみられ、倒産する企業が相次いだ。
ドッジ政策が建設業界におよぼした影響は、まず工事量の減少としてあらわれた。全国建築物着工統計によれば、昭和二十三年に一一四七万坪(三七八五万平方メートル)と、戦後はじめて一〇〇〇万坪を突破したものが、この政策実施により、同二十四年(一九四九)には九五九万坪(三一六五万平方メートル)に低下した。また政府公共事業費のうち、この年の建設関係財政投融資は一五一五億円計上され、名目上は前年度の一四七九億円より多くなっているが、物価値上りを計算にいれると、実質的には約四割の減少であった。
復興金融金庫が融資を停止したことも、インフレ抑制には実効をあげたが、業界にとっては不振の原因となった。ようやく再開された企業の設備投資がこの措置によって困難となり、発注を見合わせるようになったからである。これは金融引締政策と相まって金融機関を警戒させ、たまたま業者が工事を獲得しても資金を得られず、着工が遅延することもしばしばみられた。
この時代は「安定恐慌」とよばれ、あらゆる企業が合理化をせまられ、それにたえられないものは倒産を余儀なくされた。労働省統計によると、昭和二十四年二月以後一年間の企業整備件数は七三七七件におよび、整理された人員は四三万五〇〇〇余名にのぼった。このうち建設業の整備件数は二一七件、人員整理は一万七六五名に達した。
この年は建設業界にとっても戦後最悪の年であったが、その試練にたえたことは、次にくる飛躍への貴重な準備となった。進駐軍工事はすでに最盛期をすぎたが、荒廃した国土の復興にはまだまだ巨額な建設投資を必要とした。昭和二十四年度に計上された河川、道路の工事費は各四七億円にすぎないが、昭和二十五年版の建設白書によれば、改善を要する全国河川の工事費は三七〇〇億円、道路は現状維持の修理費のみで五九〇億円と見込んでいる。これは業界の前途に明るい見とおしをもたせるものであったが、さらに昭和二十五年度予算では、公共工事費一〇〇〇億円が計上され、見返り資金からの建設投資や民間工事を加えれば約三〇〇〇億円と推定された。前年度にくらべ約三〇%の増加である。
特需―建設業界も一挙に沈滞から脱却
このように、業界がようやく立直りの態勢をみせたとき、まったく予期せざる衝撃的事件、朝鮮戦争がおこった。昭和二十五年(一九五〇)六月二十五日未明、突如として北鮮軍が三十八度線を越え、首都ソウルは三日後に占領され、アメリカは南鮮援助のために、国連軍の名において陸海空の三軍を出動させた。
これは当時対立の度を深めつつあった米ソ関係を極度に緊張させ、一触即発の危機をはらむものであった。地理的に朝鮮に最も近く、また占領下にあった日本は、当然アメリカの軍事基地として大きな利用価値を生じた。「特需」とよばれる朝鮮向け物資がいっせいに買いつけられ、生産はみるみる拡大した。波紋はたちまち世界に広がった。第三次大戦の不安におびえる各国は、いずれもふたたび軍備増強を開始して、日本商品は海外に広い販路を獲得した。
朝鮮戦争は、安定恐慌にあえぐ日本経済にとって予期せざる救いとなった。特需契約は戦争発生後一年間で三億四〇〇〇万ドルに達し、輸出も前年にくらべ数量で八四%、金額では六一%の増加となり、一〇〇〇億円ないし一五〇〇億円といわれた滞貨は一掃された。昭和九年~十一年を一〇〇とする鉱工業生産指数は、戦争勃発時の六月、八八・一に回復していたが、年末には一一四に上昇した。そのなかで特に顕著な伸びを示したのは、繊維、機械器具、化学、金属工業などであった。
この情勢を反映して建設活動も活発化し、業界は一挙に沈滞から脱却した。建築物着工統計も昭和二十五年度は住宅、非住宅を合わせ一〇九七万五〇〇〇坪(三六二一万七五〇〇平方メートル)と一〇〇〇万坪台を回復し、前年比で二八・一%の増加をみた。
繊維産業の新・増築工事が殺到
戦後の繊維関係の工事としては、それまでにも倉敷レイヨン丸岡工場、新光(三菱)レイヨン岐阜工場、東洋レーヨン瀬田工場、同滋賀工場など主として復旧工事を多く行なってきたが、特需ブームがおこると同時に、この方面からの新増築工事が殺到した。昭和二十四年六月公布された臨時繊維機械設備制限規則が、設備の復元進展と物資統制の撤廃にともない廃止されたこともあって、帝人名古屋、日清紡名古屋、同富山、東洋紡浜松、呉羽紡鈴鹿、近江絹糸大垣、新光レイヨン大竹、倉敷レイヨン岡山、同西条などの工場工事が相次いで発注された。
倉敷レイヨン富山工場
倉敷レイヨンの各工場は、戦前から大林組が特命されていたが、昭和二十四年一月、丸岡工場を復旧し、同年六月、西条工場スフ工場を増築したのにつづき、同年十月、富山工場の新築を特命された。この工場は同社大原總一郎社長が、国産ビニロン開発のため社運を賭して新設されたもので、大林組としても戦後最大の工場建築であった。鉄骨造、鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造、木造などの各種建物の新築で、総延坪は七〇二〇坪(二万三一六六平方メートル)、請負金は二億五〇〇〇万円余に達し、業界注目の的となった。
この工場は翌二十五年十一月竣工したが、鉄骨建方が冬季に当たり、ことに寒冷地の工事であったため、容易ならぬ苦心をした。当時の工事総主任宝来佐市郎は、暗夜氷雨のなかで二三メートルの高所に働く鳶職の姿を見て男泣きしたことを手記に残している。これを第一期として、昭和三十七年(一九六二)完成の第七期にいたるまで、連年工事は継続した。その後も営繕工事に従事し、昭和四十五年(一九七〇)八月現在の請負金累計は一八億円を突破するにいたった。
日清紡績富山工場
これに次ぐ富山の工事は日清紡績富山工場第二工場の新築で、各種工場建物延三四一〇坪(一万一二五三平方メートル)、請負金は六八二〇万円、工事主任は南戸又義である。工期は昭和二十五年八月から翌二十六年一月末までの六ヵ月であったが、工期厳守が条件で一日の遅延もゆるされなかった。当時、綿糸に対する需要は急をきわめ、工場が一日稼動すれば一五〇万円になるといわれていた。このときも冬季の風雪に悩まされたが、最も苦心したのは北国瓦五四〇〇坪の入手であった。大量生産のカマ場がないため、あらかじめ各所に手配しておいたのであるが、九月二十五日にこの地方を襲ったジェーン台風は民家の屋根に大損害を与えた。災害地では当然被災者への供給が優先し、瓦は工場にまわらず、昼夜兼行の努力にもかかわらず年末にいたって瓦の所要数に五〇〇坪の不足を生じたのであった。
主任南戸又義は雪をおかしてカマ場からカマ場をたずね歩き、現場員一同は正月の帰省をとりやめて待機した。一月二日、ついに彼が所用量を調達して帰ったとき、迎える者、迎えられる者は、ともに手をとって泣いたという。この努力によって工事は期限内に完成し、月末には紡績機械を据付けることができた。日清紡績の桜田武社長は竣工に際し、賞讃のことばとともに多額の報償を一同に与え、あつくその労をねぎらわれた。
東洋紡績浜松工場
浜松工場は東洋紡績会社の主力工場の一つであるが、終戦の直前、遠州灘に来襲した米艦の艦砲射撃をうけて廃墟と化した。その再建を受注し、新築に着手したのは昭和二十五年末で、翌二十六年十一月完成した。ここでも木材をはじめ資材の調達に苦心し、八万平方メートルにおよぶセメント瓦は現地で製作せねばならなかった。また地盤が軟弱で湧水が多く、それに温度湿度調整等の設備工事を地下ダクト式としたため、延長数キロにおよぶ大小のダクトを構築することは、機械台工事と交錯して困難をきわめた。工場の竣工後も工員宿舎などの付属施設の工事に従事し、完全に工事を終わったのは昭和二十七年(一九五二)十二月であった。請負金総額は四億四六七〇万円余、工事総主任は植村利一である。
前章にのべたごとく、終戦から昭和二十五年にいたる期間は、大林組にとって芳五郎社長没後の苦難期に次ぐ危機であった。そして、大林組がこの危機を脱却するに当たり、最も大きな浮力となったのは繊維関係諸工場の工事だったといわなければならない。これは芳五郎社長が創業当時、たまたま紡績業の勃興に際会し、その工事が出発点となったことを想起させるが、同時にそれはまた永年にわたり積み重ねてきた信用と伝統によるものであるともいえよう。
福井地方裁判所
また、このころ施行した代表的な公共建築に福井地方裁判所庁舎がある。戦後ようやく復興の緒についた織物王国福井市は、昭和二十三年(一九四八)六月二十八日、大地震によって三万六〇〇〇戸が全壊、死者三七六九人を出す大被害を受けた。裁判所新築は福井市復興の象徴というべきもので、着工当時の昭和二十五年一月には、まだ市内各所に瓦礫が山とつまれていた。
新庁舎は、鉄筋コンクリート(一部鉄骨鉄筋)造の地下一階、地上六階、延三九九四坪(一万三一八〇平方メートル)の堂々たる建物で、設計は最高裁判所営繕課、昭和二十八年(一九五三)十一月完成した。当時の官庁建築としては画期的な大工事であったため、北陸方面はまだ交通の便がわるかったにもかかわらず、関西あるいは東京方面からも工事見学の建築関係者が相次ぎ、雨雪をおかしてくる者さえあった。工事総主任は細川正、請負金は四億八六五〇万円であった。
沖縄基地工事―機械化工法の貴重な体験
朝鮮戦争によって、アメリカは極東における最大の軍事基地沖縄を急速に整備増強する必要にせまられた。そしてそのことは、進駐軍工事と特需景気の反映でよみがえった建築業界に新しい機会を与えた。それまでアメリカのモリソン・クヌードセンやビンネル、フィリピンのユーキンテンなどの外国業者のみが占めていた沖縄基地工事に、日本業者も参加をゆるされたのであった。
大林組もこれに加わり、昭和二十六年(一九五一)九月から同三十年(一九五五)九月にいたる四年間、次の工事に従事した。
- A工事―嘉手納(かでな)弾薬庫建設その他(昭和二十六年九月~同二十八年五月)、工事総主任永田重一、請負金額四億三三四四万円
- B工事―那覇(なは)空軍基地小祿(おろく)将校宿舎建設その他(昭和二十六年十一月~同二十九年三月)、工事総主任植村利一。大林、大成、竹中、鹿島四社JV請負金総額二二億二一二〇万円(大林組請負金額八億七三九〇万円)
- C工事―牧港(まちなと)QM(兵站)倉庫建設(昭和二十七年十一月~同二十九年六月)、工事総主任永田重一、請負金額二億八八七二万円
- D工事―桑江(くえ)軍病院基礎工事(昭和二十九年十月―同三十年九月)、工事総主任植村利一、請負金額二四八〇万円。
沖縄工事は代金がドルで支払われ、外貨獲得の国策に役立ったが、業者にとって最大の収穫はアメリカ式の機械化工法や合理的な事務処理などの実体に接し、それを身につけたことである。すでに進駐軍工事の項で、米軍貸与の重機械類を内地で使用したことはのべたが、沖縄ではすべてが完全にアメリカ式で、規模も比較にならなかった。ブルドーザ、グレーダ、スクレーバ、キャリオール、シープスフートローラなどの車輌類の大部分は米軍から貸与されたが、運転するオペレーターがなく、経験ある現地労務者を使用せねばならなかった(彼らはのちに、北海道糠平ダム建設工事にも動員された)。
これら重機類は、大林組がA工事、B工事で借用したもののみで一二〇台に達し、さらに不足してブルドーザD50日野カーゴトラック、日立パワーショベルなどを内地から送った。米軍はこのB工事を最後として全面的に機械貸与を中止したため、C工事以後はさらに大量購入をしなければならなくなった。これが直接の動機となって、大林組は大量の重機類を保有するようになった。
B工事が大林、大成、竹中、鹿島四社のジョイントベンチャーで行なわれたことも、業界最初の試みであり、画期的なできごとであった。設備工事の面でも学んだことが多く、日本の業者が本格的な近代設備を知ったのはこのときであった。空気調和設備についても、冷風と温風の二重ダクト方式、ゾーニング、全館空気コントロール方式、大型ターボ冷凍機および大型冷却塔の採用などは、当時考えられる最高のものであった。また電気設備についても、幹線にバスダクトを採用したり、瞬間起動の自家発電機を設置するなど、いずれも有益な教訓となった。
さらに個々の工事についても、それぞれ多くの得がたい経験をした。現地の地理的条件により、五月~六月の雨期には雨対策を、八月~九月の台風期には、これにそなえる対策を考慮しなければならず、たとえ仮設建物の場合でもその用意を必要とした。コンクリート用骨材の不足から、みずから砕石プラントを施設したのも、新しい経験の一つであった。
安全衛生の面にしても米軍監督官は労務者に保護帽、命綱の使用を強制し、それが労務者宿舎の建設であろうとも、窓の金網、水洗便所の設置を命じた。これらの点が、のちに日本で改善進歩をみたことは、労働行政の結果でもあるが、業者が沖縄で影響を受けたこともあげられよう。
わが国の建設業界が近代的脱皮をとげるに当たって、沖縄工事の果たした役割りはきわめて大きく、大林組が得た収穫も少なくなかった。大林組では、当初からこの工事のもつ内容を重要視し、本店に沖縄工事部、東京支店に東京沖縄工事部を特設し、現地に取締役畠山隆三郎を常駐させて万全の対策をとった。そのため、ここに進出した期間は比較的短かったが、吸収すべきものは十分に吸収することができた。そして、これがやがて東南アジアをはじめ、ひろく海外各地に雄飛する第一歩となったのである。