第一節 第一次大戦―空前の好況
「大戦景気」―受注、急カーブで上昇
大正三年(一九一四)七月末、オーストリアとセルビア間に宣戦が布告されると、数日にして全ヨーロッパは戦火にまきこまれ、八月二十三日にいたって日本も参戦した。この第一次世界大戦は史上最初の総力戦で、各国とも持てるかぎりの力を投入した大消耗戦であった。イギリス、フランス、ロシア、イタリアなどの連合国に物資を供給する能力のある国としては、はじめ圏外にあったアメリカ(一九一七年四月参戦)に次いで、興隆途上にある日本以外にはなかった。この大戦における日本の分担は、ドイツの極東基地・青島の攻略と、海軍兵力の一部の地中海派遣であったが、主たる任務はこれら連合諸国の要請にこたえ、物資を生産、供給することにあった。
わが国の経済界は、開戦当初は貿易の途絶により混乱におちいったが、約一年後の翌四年後半から戦後の九年三月にかけて「大戦景気」とよばれる空前の好況がつづいた。造船、製鉄などの軍需関係はもとより、これに関連する鉄道、電気、さらに民需全般にわたり各種工業が興り、これにともなう設備投資の増加は建築業界の繁栄をもたらし、ここにも空前のブームがおこった。
大林組が危機を脱出できたのは、当事者必死の努力と、前にのべた有力財界人たちの後援によることはいうまでもないが、この時代的背景もその要因である。好況は建設資材や労務費の高騰、受注競争の激化など、いくつかの悪条件をも生み出したが、これを克服するのはさのみ困難ではなかった。指導者を失い、一時は虚脱状態にあった従業員たちは、伊藤、白杉らのもとにさらに結束を固め、天佑ともいうべきこの好機に乗じたのである。
この好況は、ときに若干の起伏はあったが、戦後まで持続し「大戦景気」へつながった。大林組の受注工事も、危局のうちにありながら、大正五年(一九一六)は前年比で約倍額に当たる三〇〇万円近い請負額に達した。翌六年はさらにこれを六〇%上まわり四八〇万円を越え、工事件数では五〇%増加し、同七年もさらに上昇を示した。
この間の受注工事も、時局を直接反映した山下汽船神戸支店、日本郵船大阪支店、浅野造船所、大阪鉄工所(のちの日立造船)、原田造船所、三井物産宇野造船所、日本汽船造船所などの船舶関係や、三菱大阪製錬所、大阪電気分銅製錬所、浅野合資製鉄部厚板工場、東洋製鉄戸畑工場、住友鋳鋼所、同伸銅所工場などの金属関係が多かった。また輸出の増大にともない、一時に規模を拡大した鐘淵紡績兵庫工場および洲本工場、日本紡織大和田工場、東京紡績西新井工場、東洋毛糸紡績今洋工場その他繊維業関係が目立つのも特徴的である。
大戦景気は物価騰貴を招き、ことに大正七年(一九一八)八月には、米価暴騰によって各地に「米騒動」がおこり、軍隊の出動をみるにいたった。そして十一月には、ドイツと連合国との間に休戦条約がむすばれ、世界大戦に終わった。戦乱の終息は一時的に経済界を混乱させたが、荒廃した欧州の復興を見越して、海運界などはかえって未曽有のブームを現出し「船成金」を続出させた。
この間の建設資材ならびに労務費の上昇状況を、大正八年(一九一九)の大林組業務参考書は次(主要建築材料価格及労銀指数表)のようにあげている。