第三節 刻下の急務―電力復興
水力発電、貯水方式に転換―多目的ダムを指向
電力事情は終戦当時、壊滅状態に近かったのであるが、ようやく回復の緒についたとき、朝鮮戦争ブームに際会した。そこで産業界の要請により、電力復興は刻下の急務とされ、電力再編成が急がれた。昭和十三年(一九三八)、日華事変拡大の最中に電力国家管理の目的でつくられた日本発送電会社は、同二十六年(一九五一)五月、電気事業再編成令にもとづき再分割されて、全国に九つの電力会社が発足した。翌二十七年一月、政府は電源開発五ヵ年計画を発表、さらに同年九月、特殊法人電源開発株式会社を創立した。この五ヵ年計画の内容は、昭和三十二年度までに八五〇〇億円を投入し、水力、火力合わせて五一五万キロワットを開発しようとするものであった。
昭和二十八年七月、朝鮮戦争は休戦協定が成立したが、このころから景気は世界的に後退し、わが国経済も輸出は減少し、国内需要もふるわず不況期にはいった。鉄鋼、セメント、パルプなど一部の分野をのぞき産業界は不活発となり、その影響を受けて建設需要も減退した。このとき建設業界の救いとなったのが電源開発工事である。
戦前のわが国の水力発電はほとんど水路式によるもので、貯水式は少なかったが、戦後はアメリカのニューディール政策当時のテネシー谿谷開発計画(TVA)等に範をとり多目的ダムを指向するようになった。これは戦時中、山林の乱伐によって河川が荒廃し、台風や集中豪雨により連年水害が続出したこと、また農業用水の不足を補う対策として発電用以外にもダムを必要とするにいたったためである。大林組、特に大林社長は早くからこれを予見し、ダム工事受注のための準備を怠らなかった。そのテストケースとして、足尾の渡良瀬川砂防ダム工事に全力をかたむけたことはすでに前章にのべた。そしてこの努力は、北海道糠平ダム工事において報いられたが、この工事は大林組にとって、ダムばかりでなく土木全般にわたる戦後の立遅れを回復する大きな契機となった。
電源開発糠平ダム 〈昭和二十八年六月~同三十一年六月〉
電源開発株式会社は、創立の当初まず北海道十勝川水系の開発計画に着手した。糠平(ぬかびら)ダムはその根幹をなすもので、型式は直線式溢流型コンクリート重力式、堤高七六メートル、堤頂長二九〇メートル、堤体積四七万立方メートル、湛水面積八〇八万平方メートル(周囲三二キロ)、有効貯水量は一億六〇〇〇万立方メートルにおよび、当時わが国において第五位の規模であった。
このころダムの建設は、建設省、電源開発会社、国鉄、九電力会社、地方自治体等によって行なわれていたが、建設省工事の指名入札には堤高五〇メートル以上の工事実績を必要とした。糠平ダム工事に当たり、電源開発会社もこの方針を採用するといわれたが、大林組の最高実績は日本電力黒部川発電所小屋の平ダム(昭和十一年竣工)の堤高四九メートルで、一メートル不足した。そこで相談役白杉嘉明三は大林社長とともに旧知の高碕達之助同社総裁をたずね、配慮を懇請した。この受注に成功すれば高堰堤施工の実績を確保、建設省工事への突破口ともなるからであった。その熱意がみとめられて指名入札に参加を許され、激しい競争の結果、工事は大林組が獲得した。
着工は昭和二十八年(一九五三)六月、工期は満三年であるが、ダム工事としては前例のない低気温圏における工事であり、この地の最低気温は零下三二度に達し、コンクリート工事が可能なのは年間七カ月にすぎなかった。そのため冬期にはいるとコンクリートの打設には電気養生、スチーム養生を行なうなど、ダム建設には前例のない作業をも実施した。また骨材は、ダムを建設する音更川はもとより、十勝川本流にもとぼしかった。これを補充するため、現地の山で岩石を採取し、ダムサイト下流にクラッシングプラントを設け、砕石五〇万立方メートル、砕砂二四万五〇〇〇立方メートルを生産して用いた。また五〇〇トンのセメントサイロ二基を設け、続々と貨車で送られてくる低熱セメントは荷おろしせず、サイロに直接空気圧送した。
バッチャープラント、ケーブルクレーン、ベルトコンベーヤも設置され、掘削にはワゴンドリルやショベルカーなど、当時の新鋭機械が使用された。これらの機械類は電源開発会社の貸与によるものであったが、これほど大規模な機械化施工による工程計画の作成は、はじめての経験であった。そのため工事事務所長齊藤雄、企画主任高久久近信らは連日出勤前の一時間を会議に当て、輸入技術書などを参照しながら検討を重ねた。オペレーターには沖縄から米軍工事に経験のある者十数名を招き、作業に従事させながら職方の教育に当たらせた。
重機によるダムの掘削は、両岸の上部から掘削して川底に落とし、その掘削土を運搬して捨てるのが常識である。しかし糠平の場合は、コンクリート工事の期間がかぎられ、この工法では間に合わなかった。そのため両岸の山肌に土砂運搬用の道路をつくり、その上下で同時に作業を行なう非常手段をとった。これには多額の経費を要し「黄金道路」とよばれたほどであったが、両岸と川底の掘削を並行して進めたことにより、工期の短縮に成功した。堰堤のコンクリート打設は昭和三十年四月開始され、指定期日の翌三十一年六月全工事の完了をみ、寒冷地における高堰堤の短期施工の新記録を樹立した。この請負金は二二億七五〇〇万円であるが、その後発電所(出力四万一五〇〇キロワット)をはじめ芽登元小屋ダムその他の施設が発注され、総額は四一億七〇〇〇万円に達した。
糠平ダム工事は、規模においても受注当時の事情からみても、大林組の社運を賭するおもむきがあった。大林社長、(注)徳永豊次常務取締役(土木担当)らはしばしば現場をおとずれ、工事の進行を視察したが、当時八十歳の白杉相談役も単身この地をたずねて激励し、作業員を感動させた。また現地の最高責任者として、着工以来昭和三十年六月まで取締役藤井虎男を現地に駐在させたが、のちに工事事務所長齋藤 雄、同次長兼工事部長上山敏夫が相次いで病にたおれ、工事の完成を見ずして職に殉じたため、常務取締役となった藤井が再び赴任し、工事事務所長となった。
注・徳永豊次は、明治三十四年(一九〇一)佐賀県に生まれ、大正十一年(一九二二)熊本高等工業土木工学科を卒業、満鉄および横浜市電気局に勤務したのち、同十三年、大林組に入社した。はじめ貯水池ダム工事、鉄道工事等に従事したが、昭和六年(一九三一)、本店に道路部が新設されるとともに道路工事を担当し、この部門の基盤をつくった。
昭和十一年(一九三六)には道路部主任、つづいて同十五年には営業部土木主任となり土木工事全般を担任したが、戦時中は福岡支店の営業部長、土木部長を歴任した。同二十三年六月、戦後再建の人事大異動に際し、本店に帰って土木部長にあげられ、翌二十四年には取締役に選任された。つづいて同二十七年(一九五二)常務取締役、同三十三年専務取締役を経て、昭和三十五年十一月副社長となったが、同四十三年十一月七日現職のまま病没した。在職中は施工の機械化、技術の改善向上につとめ、下請との関係を近代化するなど大きな功績をあげた。葬儀は同月十六日、大阪阿倍野斎場において大林組社葬として行なわれたが、死に当たって従五位に敍され勲四等瑞宝章を授与された。
東北電力八久和ダム 〈昭和三十年十月~同三十三年六月〉
糠平ダム工事の成功は業界の注目を集め、大林組のこの部門における地位を確立した。機械化施工開拓の努力は実をむすび、その後多くのダム工事を獲得して電源開発に貢献したのであるが、糠平につづく大工事は東北電力株式会社の八久和ダムであった。
八久和ダムは山形県東田川郡の八久和川、湯井俣川の合流点に建設され、同社のダム中最大規模を誇るものである。工事は二期に分かれ、第一期(昭和二十八年十月~同三十一年八月)は仮堰堤工事であった。これにより八久和川の流域を変更し、五・七キロメートルの圧力隧道をとおして大鳥川に落とし、まず二万四〇〇〇キロワットの発電を行ない、第二期工事では、本堰堤を建設して、さきの仮堰堤は水没させ貯水量四九〇〇万立方メートルの八久和湖をつくり、高塔型式の取水口から取水し、落差を大にして六万キロワットの電力を得ようとするものであった。
第二期本工事は、昭和三十年(一九五五)十月着工した。本堰堤はコンクリート重力式で、溢流部の高さは八六・七メートル、堤体積は三七万六五〇〇立方メートル、貯水池の満水位標高は四二〇メートル、最大水深九四メートルである。使用水量は秒間最大二七・二トン、常時九・六トン、有効落差は二五七・九メートルで、これによって得られる電力は常時二万キロワット、最大六万キロワットであった。
林道を拡幅した工事用道路は一九キロで県道に連絡するが、冬期は積雪五メートル以上となり、徒歩以外の交通は不可能であった。したがって稼動日数は年間約二〇〇日にすぎず、これが最大の障害であったが、すでに糠平工事を経験したことは従業員に自信をもたせ、よく困難を克服することができた。このときダム工事におけるコンクリート打設記録、電源開発工事における無事故記録など、かがやかしいレコードを樹立して、昭和三十三年(一九五八)六月工事を完了した。工事事務所長は栗山丈一、請負金の総額は一六億五〇〇〇万円を越えた。
建設省・美和ダム 〈昭和二十九年六月~同三十三年三月〉
美和ダムは、建設省(中部地建)が発注した多目的ダムの最初のものであった。美和は長野県上伊那郡にあり、このダム建設は天竜川の支流三峰(みぶ)川を総合開発するためで、砂防、洪水防止、農業用、発電を目的とした。その完成によって得られた経済効果は、治水において年間一億三〇〇〇万円相当の災害を減少し、農地二五〇〇ヘクタールの面積をうるおし、一万二二〇〇キロワットの電力供給を可能ならしめた。
このころ、ダム工事においては死傷災害率がきわめて高く、死亡事故は、コンクリート一万立方メートルにつき〇・五人、あるいは請負金一億円について一人といわれた。美和工事に当たっては、このジンクスを打破すべく、無事故を目標に徹底した安全管理を行なった。しかし、ダムコンクリートの打設が出来高九二%に達したとき、ついに一名の事故死者を出し、目標は達成されなかったが、八久和ダムの無事故記録とともに、以後の工事における安全管理の指標となった。
なお糠平、八久和、美和の三工事のコンクリートの打設速度を比較すると下表のとおりで、美和工事は、最小容量のバケットを用いてこの能率をあげており、当時建設省の積算部門を驚かせたといわれる。美和ダムの請負金額は一〇億八二〇〇万円、工事主任は高久近信である。
この時期における同種工事の代表的なものに建設省(中国、四国地建)発注の山口県佐波川ダム(昭和二十七年~同三十年)、福岡県発注の筑後川大石堰堤工事(昭和二十九年~同三十年)などがある。
名称 | 糠平 | 八久和 | 美和 |
---|---|---|---|
体積m3 | 四七〇〇〇〇 | 三八〇〇〇〇 | 二九〇〇〇〇 |
ケーブルTS | 一八 | 一三・五 | 九 |
バケットm3 | 六 | 四・五 | 三 |
月最大打設m3 | 六〇、〇〇〇 | 五二、二〇〇 | 三五、五〇〇 |
比 | 一 | 〇・八七 | 〇・五九 |
日最大打設m3 | 二、七〇〇 | 二、三六〇 | 一、五五〇 |
比 | 一 | 〇・八七 | 〇・五六 |
続々と大容量の新鋭火力発電所
水力電源の開発と並行して、火力発電所の建設も急速に進められた。このころ大林組が施工した代表的なものに、関西では関西電力の姫路第一火力発電所、九州では九州電力苅田火力発電所、関東では東京電力千葉火力発電所、東北では東北電力八戸火力発電所等がある。
関西電力姫路第一発電所 〈一期工事=昭和二十九年一月~同三十年八月〉
冷却用給排水路構築の土木工事をはじめ、本館(ボイラー室、タービン室)、鋼製煙突、サービスビル、特高開閉所の建築工事を受注、設計は本店設計部(部長小田島兵吉)が一任され、戦後の火力発電所のモデルプランといわれた。昭和二十九年(一九五四)一月着工したが当時はまだ海岸の敷地を埋立て中で、工事はそれと並行して進められた。そのためサンドポンプのパイプラインが入り乱れたり、仮堤防を築いて海水の流入を防がねばならないなど、思わぬ困難があった。また九月には洞爺丸台風の来襲を受け、コンクリートタワーや煙突エレクションタワーが倒壊し、多くの工事機械が高潮で水没するなど大きな被害をこうむったが、電力事情の緊迫は工期の遅延をゆるさず、不眠不休の努力によって工程を回復し、予定期日の同三十年八月竣工した。このとき用いた鉄骨の全熔接工法は、当時としては画期的なもので、多くの専門家が見学にきた。引きつづき増設工事が連年発注され、第四期工事を終わり最終的に完成をみたのは昭和三十七年(一九六二)十月であった。同発電所の出力は第一期の六万六〇〇〇キロワットから次々に増加し、第四期工事完成後は四二万二〇〇〇キロワットとなった。全工事の総請負金額は三一億六七八〇万円、工事総主任は永田重一である。
東京電力千葉火力発電所 〈一期工事=昭和三十年十一月~同三十二年四月〉
この発電所は、東京電力が千葉市蘇我町に建設したもので、急速に発展した京葉工場地帯の電力需要に応ずるためであった。着工は昭和三十年(一九五五)十一月、米国ギルバート会社の設計により本館工事を施工した。同三十二年四月、第一期工事が竣工、大容量ユニットを採用した新鋭火力発電所が誕生、出力一二万五〇〇〇キロワットの発電が開始された。第一期工事と並行して第二期工事(出力一二万五〇〇〇キロワット)も発注され、引きつづいて第三期、第四期(出力各一七万五〇〇〇キロワット)まで継続し、全工事の完成は同三十四年八月であった。これによって総出力は六〇万キロワットに達し、当時、日本はもとより東洋最大の火力発電所となった。この発電所には、一機一ボイラーのユニットシステム、ワンマンコントロールによる遠隔操作、世界で最初の試みである塩害防止の活線碍子水洗装置など最新の設備が採用され、煤煙公害をふせぐマルチクロン(機械集塵)、コットレル(電気集塵)も装置された。工事総主任は河田明雄、請負金額は一六億二六五〇万円であるが、東京電力が投じた資金は三九〇億円に達したといわれる。
東北電力八戸火力発電所 〈昭和三十一年七月~同三十三年十月〉
この発電所は、青森県八戸市郊外の馬淵川河口の三角洲に建てられた戦後最初の、東北地方最大の火力発電所である。取水路、放水路、岸壁(三〇〇〇トン用)、貯炭場をはじめ本館、サービスビルなど発電所施設のすべてを施工したのであるが、本館の基礎にはマンモス潜函(ニューマチックケーソン=縦三八メートル、横二三・五メートル、高さ一一・五メートル四基)が沈設された。東洋一と称されたこの巨大なケーソンを沈設するに当たって、最も懸念されたのは作業員の安全問題であった。側面のフリクションがある大きさに達するまでに、刃口のベアリングがケーソンの重量にたえきれず、事故につながるおそれがあるとみられたためである。東北電力当局からも指示があり、また大林組としても徳永常務取締役の工夫で、万一の事故にそなえる沈下止めの装置をして、業界注目のうちに沈設作業を実施した。しかし、圧気によってシルト中の水分が排除され、刃口のベアリングがケーソンの重量とバランスし、安全かつスムースな沈設が行なわれた。
また貯炭量二〇万トンにおよぶ貯炭場の鉄骨シャーレ構造による上家は、その設計、施工の優秀さを認められ「建築年鑑」賞を受賞した。こうして昭和三十三年(一九五八)十月竣工、出力七万五〇〇〇キロワットのタービン二基をそなえ、総出力一五万キロワットを誇る大火力発電所が出現した。工事総主任は田中七三郎、のちに齋藤小三郎で、請負金額は一八億四八九〇万円であった。なお昭和四十年には第二期工事、同四十五年(一九七〇)からは第三期工事がはじまり、現に継続中である。