大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 創業のころ

第二節 当時の大阪と建設業界

高まる事業熱―工業都市への脱皮を指向

旧幕時代、大名貸しや蔵屋敷によって繁栄を誇った大阪は、維新後の新情勢に容易に対応できなかった。動乱期をようやく切り抜けた大商人たちも、旧家の家訓や因習にとらわれ、節約、勤倹によって家産を守ろうとするだけで、積極的な意欲をもたなかった。士族出身のすぐれた指導者、五代友厚の努力により、商法会議所(現在の大阪商工会議所)や商法講習所(現在の大阪市立大学)が建てられ、近代化への道は開かれたが、東京にくらべてその歩みは遅かった。

明治十年(一八七七)西南戦争が勃発し、兵站基地がおかれると、大阪は軍需ブームにわいた。藤田伝三郎、松本重太郎らはこれで巨富を突き、財界に確固たる地位を占めることができたが、一方、戦後のデフレ政策で、倒産したものも多かった。明治十六年(一八八三)ごろは不況がはなはだしく、翌十七年には樋口、丸三など四銀行が閉店した。大阪がそれまでの商業都市的性格から、工業都市を指向したのはこの時期である。政府も、当時実情を視察した大蔵省権大書記官河島醇の進言にもとづき、この政策を推進した。

これがやや形をととのえたのは、明治二十年(一八八七)ごろからで、事業熱がしだいに高まり、鉄道、紡績、皮革、鉄工業の会社が次々に創立された。前にのべた関西鉄道もそれであるが、翌二十一年五月には、大阪難波から住吉を経て堺にいたる六マイル余(約一〇キロ)の阪堺鉄道も開通した。この路線はのちに合併により南海鉄道となったが、純粋に民間の力でつくられた日本最初の私鉄である。

紡績業の歴史も古く、明治三年(一八七〇)末、鹿児島藩営で開始された堺紡績所(のちに岸和田紡績に合併)がある。次いで明治十二年には大阪府営の桑原紡績所が堂島に、渋谷紡績所が茨木に開かれた。また三軒屋紡績と俗称された大阪紡績は、頭取を藤田伝三郎、相談役を渋沢栄一として、一万錘の設備をもつ大規模工場の先駆であった。明治二十年ごろには、天満、浪華、平野、尼崎、今宮、摂津、福島、野田、明治、日本、朝日などが続出したが、のちに合併、統合されて、東洋紡、大日本紡、富士紡、鐘紡などとなった。大阪が紡績業の中心となったのは、旧幕時代、大和、河内、泉州等の綿花集散地だった伝統と、原綿輸入港に神戸をひかえていたことによるものである。

大阪鉄工所(現在の日立造船)は、明治十四年(一八八一)英人ハンターを中心に開業したが、軌道に乗ったのは同十八年(一八八五)、大阪商船会社と提携してからである。また新田調帯製造所の新田長次郎は、藤田組製革場、大倉組製革場で技術を学び、明治十八年に独立して、同二十二年(一八八九)ごろ調帯の製造に成功した。地元財閥である住友家も、鉱山のほかに明治二十一年には滋賀県醒井に住友製糸場を、また神戸葺合に樟脳製造所を設けた。メリヤス、ブラッシュ、製紙などの業が勃興したのも、このころである。

有力業者は政府用達を兼業

由五郎が砂崎家で四年の修業をつみ、大阪へ帰ったのはこの時期であった。それは日本の産業革命とよぶべき時代で、多くの分野がその生産設備に、彼が予見したような近代的建築を必要としていた。また政府関係の官庁や公共建築、鉄道、軍港の築造など、建設需要が一気に増大した。しかしこれにこたえるべき請負業者は、依然として昔ながらの棟梁、親方出身者によって占められていた。彼らの能力で消化し得るものは、町家建築か、大きなものでも神社、仏閣の範囲を出るものではなかった。当時大阪で有力業者とされたのは、大溝伝兵衛、川尻五平、金川新助、木村音右衛門、橋本料左衛門らの人々である。

この過渡期に際して、大規模工事の要求にこたえられたのは、わずかに東京の清水組、大倉組、大阪の藤田組があったにすぎない。大倉組の大倉喜八郎、藤田組の藤田伝三郎は、ともに専門業者でなく、明治維新当時からの政府用達、すなわち御用商人である。土木建築請負はその用達の一部で、軍需物資の調達納入や、鉱山業、貿易など、多方面に事業活動を行なっていた。そして彼らが業界を制圧した理由は、棟梁、親方上がりの請負師にない資本力をもちみずからは専門技術をもたない代わりに、工部大学卒業の技術者を多数採用したことにある。

そうした共通性もあってか、大阪紡績の創立に際して大倉は藤田に協力し、また大阪天神橋の鉄橋架構や琵琶湖疏水工事は、大倉組、藤田組が共同で当たった。この提携をさらに一歩進めたのが、明治二十年(一八八七)三月に創立されたわが国最初の法人建設企業、日本土木会社である。

創立委員長は渋沢栄一であるが、事実は大倉、藤田両組の合併で、折りから財界で検討されていた東京建築会社の構想も織り込まれていた。技術担当の幹部には、土木関係に久米民之助、野口(のちに大倉)粂馬、建築関係に田中豊輔、船越欽哉をはじめ、当時の一流を網羅した。資本金は二〇〇万円で、そのころの年間政府予算が八〇〇〇万円に満たないことからみて、いかに巨大企業であったかが知られよう。

日本土木会社の誕生が、建設需要の急増による時代の要請であったことは疑いない。西欧文明を消化吸収して、すさまじいまでの発展途上にあった日本で、最も立遅れた建設部門が、産業革命に照応するための基盤として、近代化、合理化が行なわれなければならないのは当然であった。彼らは政府要人との関係を利用し、鉄道、官庁、兵舎などの公共工事はもとより、民間産業施設をも独占的に受注することを目ざした。ところが事態は所期に反して、明治二十六年(一八九三)七月解散し、業務は大倉個人に、さらに大倉土木(現在の大成建設)にひきつがれた。その原因の主たるものは、明治二十二年(一八八九)二月、会計法が公布されたことである。これには、国が行なう契約は、原則として一般競争入札によるべきことが規定され、工事請負は従来のように特命見積り方式で行なうことができなくなった。この法律の制定とともに、藤田は日本土木から退陣し、同時に請負業からも手をひいて、鉱山経営に力をそそいだ。その後は大倉系を中心に運営されたが、翌二十三年の恐慌によって大打撃を受け、ついに解散を余儀なくされたのであった。

この恐慌は、わが国が資本主義体制下で経験した最初のものとされている。産業の近代化を急いだあまり、乱立した紡績業は生産過剰となって倒産が続出し、操業短縮を行なわざるを得なかった。前年からつづいた米の凶作で農村は窮乏し、都市住民も米価高で購買力は低下していた。しかも不況は世界的規模で、対米輸出に依存した生糸も大影響を受けるなど、悪条件が重なった。会計法制定で経営基盤をゆるがされた日本土木会社は、その組織が大きかっただけに打撃も大きく、この恐慌にたえられなかった。

会社解散と同時に、明治二十六年(一八九三)七月、大阪に大阪土木会社が創立された。日本土木大阪支店の業務を継承するためで、資本金二〇万円、関西最初の法人建設企業である。藤田はすでに手をひき、発起人は土居通夫ほか一四名であった。土居は大阪控訴裁判所(現在の高等裁判所に当たる)判事から鴻池家顧問に転じ、のちに二十余年にわたり大阪商業会議所会頭となったが、当時も日本硝子製造、大阪電灯の社長、日本生命取締役などを兼ね、大阪財界を代表する人物であった。「紳商」とよばれたこの種実業家が土木建築業に進出したことは、産業発展の歩みにくらべて、いかに業界が遅れ、革新をせまられていたかを語るものであろう。

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