大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 高度経済成長期

第七節 理念と指標―大林社長の業界活動

全国建設業協会会長に就任

昭和二十三年(一九四八)春、全国建設業協会および大阪土木建築業協会(現・大阪建設業協会)設立に当たり、社長大林芳郎が両協会の理事となり、三十歳の若年で業界の公的活動にはいったことは第二章でのべた。その後も引きつづきこの立場は変わらなかったが、昭和三十三年(一九五八)二月には大阪建設業協会会長に選任され(同三十七年二月まで在任)、同年四月からは全国建設業協会の副会長を兼ねた。さらに同三十五年四月には清水康雄氏の後任として全国建設業協会の第三代会長となり、中央建設業審議会委員に就任した。

当時は建設ブームとよばれ、業界は表面的に繁栄を誇るかにみえたが、内部には多くの難問題をかかえていた。工事量の増大につれて、業者数が増加する傾向はいよいよ強く、これは必然的に受注競争を激化させた。また一般業界の全般的な好況による技能労働者の不足によって、賃金、物価の高騰はいちじるしく、公共工事では発注単価が見合わず、入札不調や赤字落札などの現象がみられた。

建設労働力の不足はすでに慢性化していた。経済の高度成長とともに若年層は他産業に吸収され、昭和三十五年の労働省調査によると、建設労働者の不足数は六万九〇〇〇人、不足率は一六・七%とされた。しかし、建設省では、実際の不足数は約一〇万人と推定していた。それが翌年の同調査では、不足数で一五万人、不足率は三四・九%と倍増、業界のみるところでは二〇万~二五万人が不足した。また、賃金も公共工事の積算に用いる一般職種別賃金(PW)では労務者を確保することが不可能であった。現実の賃金相場は、これより三〇%ないし六〇%も高く、職業安定所が紹介する場合でもPWを上まわった。

大林社長は、全国建設業協会の会長に就任すると同時にこれらの問題に当面、その解決に当たらなければならなかった。まず技能労働者の不足対策として、養成施設の設置を計画するとともに、前年度に制定された職業訓練法にもとづき、機械工、仕上工、板金工、建築大工、機械製図の五職種について第一回の技能検定試験を実施した。またPWについては、中央官公庁、地方建設局等に対して適正価格による発注の考慮を要望し、建設用資材についても、シートパイルの需給アンバランス、セメント不足等の対策をもとめて通産省、国鉄に陳情した。

翌三十六年にはいるといよいよ問題は急迫し、公共工事の適正単価による発注を要求する声は業界にみなぎった。そこで大林会長は、四月十日、十一日の両日にわたり、協会幹部、地方建設業協会代表らとともに、水田蔵相、中村建設相を訪問して陳情し、五月には、建設、労働、大蔵の三省幹部と懇談会を開き、六月には自民党政調会長、衆議院建設委員長らを歴訪するなど、精力的に活動した。しかし、こうした努力にもかかわらず事態はさらに悪化して、この年八月十日現在における入札不調件数は全国で土木二五四件、建築二六五件におよび、倒産した業者は二〇六に達した。

ここにおいて、陳情から一歩前進し、全国業者大会の開催をせまる声が業界にあがった。大林会長はじめ協会首脳部は、発注者や世論に対する配慮から、大会開催についてはきわめて慎重であったが、地方協会の態度は次第に硬化し、七月の第四〇回理事会では、単価是正のための追加補正予算計上を国会に請願することを決議した。大林会長はこの情勢をみて大会開催を決意、正副会長会議、相談役顧問会議等にはかり、八月十七日の第四一回理事会に提案し満場一致で承認された。

公共工事適正単価確保全国建設業者大会は、九月六日午後一時、神田共立講堂で開かれた。全国都道府県協会の代表約二五〇〇名が出席、議長に大林会長と副会長佐藤欣治氏が選出され、長崎、千葉、岡山の三地方協会長が実情報告を行なったのち、決議文、大会宣言の朗読が行なわれた。閉会後、一四班に分かれた代表は中央の発注関係官公庁、両院議員、各政党本部等を歴訪し、大会決議と陳情書を提出して業界の意を伝えた。この運動はその後もつづけられ、同十二日には大林会長が単身池田首相と会見し、業界、ことに中小企業の窮状を訴えて善処をもとめた。その結果、この年の国会で単価値上げの補正予算一二億円が成立し、大きな成果をあげた。

しかし、労務者不足は依然として解決せず、この年の工事量から推計して、技能工約一五万人、無技能工一〇万人が不足し、不足率は全産業平均の二倍に達した。労働力の不足は全産業に共通してみられ、これは雇用構造の質的変化によるものといわれていたが、こうした情勢の変化にもかかわらず政府の失業対策事業はそのまま継続していた。全国建設業協会はこれに対し、失対事業予算を公共事業に切替え、失業者中の適格者を吸収し、あるいは技能訓練を行なって労働力の充足をはかるよう、建設、労働両省にはたらきかけた。また職業訓練法にもとづく公共職業訓練、事業内訓練のみに依存せず、建設業独自の共同訓練機関設置をも計画した。このため大手各社の協力を得て、業界と労働省が経費を折半し、千葉と愛知に建設機械工の養成所を建設することとし、昭和三十七年(一九六二)四月開所した。

入札合理化対策―施工能力審査要綱の改正

建設業法の制定以来、入札合理化対策の一環である業者の施工能力審査要綱は、これまでに九回の改正を重ねてきたが、昭和三十七年(一九六二)二月末日を期限とする審査申請を前にして、一〇回目の改正が行なわれることとなった。建設省の改正案は、完成工事高、経営規模、経営比率の三つを柱とし、その要素の選択については、経営規模には機械器具類の額を加え、経営比率については自己資本負債比率をのぞくこととする、というのが改正の要点であった。また、審査のためには、同業者を公平に評価するための審査表による客観的要素と、発注者の立場から業者の工事実績を評価する主観的要素、この二つを総合して格付けを行なう方法があげられていた。

点数制による格付けの是非は、要綱制定の最初から問題となっていて、この改正案もこれを解決するものではなかった。しかし、昭和三十六年の建設業法改正にともない、業者の経営に関する審査が法制化されたため、建設省としては審査申請書提出期限までに告示を必要とし、この案となったものである。全国建設業協会では、大林会長が委員長を兼ねた法令制度調査委員会が中心となり、地方協会にも意見をもとめて、この改正案の検討に当たった。

その結果、改正案は、審査基準、点数値等について問題はあるが、従来とくらべれば一歩前進がみられ、現に抜本的な改正の代案を得る見こみもない等の事情から、暫定的に賛成するという結論に達した。そこで建設省は、同年十二月十五日の中央建設業審議会にこの案を諮問し、その答申を得て告示を行なった。この件は、公共工事に依存する中小業者にとって死活に関する問題でありながら、ことがらの性質上、理想的な解決を期しがたく、その後も業法改正に関連して絶えず論議の対象となった。

またこのころから、自動車の増加によって都市交通がマヒ状態となり、交通規制が広範囲に行なわれるようになった。そのため道路の迂回や時間規制による輸送距離の延長、輸送率の低下、小型車使用による輸送費の高騰、工期のロスなど業者の負担が増したばかりでなく、交通政策の根本である道路、橋梁、鉄道、港湾等の建設工事にまで影響をおよぼす逆効果さえおこした。全国建設業協会は、トラック協会、生コンクリート輸送協会その他輸送関係団体によびかけ、昭和三十七年二月、交通制限問題協議会を開催、つづいてこれら団体のほか、土木工業協会、道路建設業協会等の業界団体、鉄鋼、コンクリート関係団体と連名で、政府機関、各政党等に対して規制緩和を陳情した。その結果、一時的に若干の緩和は行なわれたが、自動車の増加はいよいよ激しく、基本的には制限が強化されるばかりであった。経済成長は業界に繁栄をもたらしたが、その一方、この成長が生んだヒズミのシワよせをも、このような形で身に受けねばならなかったのである。

山積する難問解決を期待され―会長に再選

昭和三十七年(一九六二)四月、大林社長は全国建設業協会会長の任期を終わったが、役員改選の結果、引きつづいて会長に再選された。すでに開始された東京オリンピック関連工事をはじめ、業界には多くの問題が山積しており、その解決を期待されたためである。

その第一は労務問題で、労務者不足は依然としてつづいていた。大林会長は、建設労働を魅力ある職業たらしめる目的で、当面の対策としては、工事現場の一斉休日実施を推進し、根本施策としては、退職金制度の制定に着手した。当時、中小企業退職金共済法は施行されていたが、移動性の強い建設労務者の参加は不適当とされ、独自の制度が望まれたからである。これは国庫補助のもとに、建設業者が労務者の労働日数に応じて掛金を負担し、退職金を積立てる方法で立案され、任期中には達成されなかったが、退任直後の昭和三十九年(一九六四)十月、建設業退職金共済組合は発足した。また労働災害防止については、同年八月、労働災害防止団体等に関する法律の成立にともない建設業労働災害防止協会が設立され、ともに建設労働福祉に大きな役割りを果している。

過当競争の防止と工事の適正配分

このころ、東京オリンピックを目前にして、お膝元の東京・関東地方一円はもちろん、各都市でホテルをはじめ商業用、サービス事業用の建築工事が激増し、その工事獲得をめぐる競争が激化した。受注競争は工事量と業者数のアンバランスにもとづく業界の宿命というべきものであるが、同時に、当時論議の的であった中小企業問題にもつながった。中小企業基本法の定義による中小企業とは、資本金五〇〇〇万円以下、従業員数三〇〇名以下とされているが、これを建設業に適用すると、大企業は〇・二%にすぎず、中小企業は九九・八%となる。しかも市場占有率においては、大手五社だけで一五%内外、大手を含む上位五〇社で三〇%内外を占めているのであるから、大手業者に対し中小企業が不満をいだくのは当然であった。

大手業者への工事の集中は、工事の機械化、大型化による必然の結果であるが、建設省は中小企業対策として、共同請負方式、協同組合化、企業合同等により、中小業者の施工能力増大をはかる中小建設業振興策を発表した。これに対して中小業者は、団結して大業者に対抗する動きをみせ、全国中小建設業団体協議会が結成され、全国建設業協会の地方協会会員中からもそれに参加する者があらわれた。全国建設業協会を構成する都道府県建設業協会の会員は約二万にのぼるが、その九八%までは中小業者である。したがって、もしこの動きが拡大すれば全国建設業協会の組織はくずれ、業界が混乱して無秩序となることは避けられなかった。

ここにおいて大林会長は、協会内に中小建設業振興特別委員会を設置し、過当競争の防止と工事の適正配分をはかることに努力した。その方法としては、地方公共団体の発注工事に関しては、一定規準の以下のものは地方業者に任せ、大手業者は分を守るというもので、この趣旨によって等級別発注請負工事金額の改正が行なわれた。また、最も問題の多かった東海四県の地方協会については、みずから山岸茂次副会長らとともに各地を歴訪し、幹部に対して説得工作を行なった。

大手対中小業者の対立は全国建設業協会発足以来の問題であるが、それが最も先鋭化したのはこの時代であった。しかし業界の秩序を維持し、組織を守るためには大業者の譲歩が要請された。昭和三十八年(一九六三)十月、大林会長は大手業者の団体二十日会の会員と懇談会を開き、特別会員(大手業者)全社に対し、工事の適正受注に関する要請書を発送した。これらの努力によって、問題は根本的に解決したとはいえないが、一応危機は回避され、業界は安定をみた。

大林会長は、翌三十九年四月、任期満了とともに会長の職を副会長大島義愛氏に譲り、退任した。しかしその後も全国建設業協会評議員、大阪建設業協会理事として、業界の発展に努力していることに変わりはない。会長在任中の事績としては、以上にあげたことのほか、標準請負契約改正約款の実施促進、公共工事入札参加願の書式と提出期日統一についての運動などいろいろあるが、それらにもまして特記さるべきことは、業界に理念と指標を与えたことであろう。労務対策にみられるように、これまで下請業者の問題として総合業者が回避しがちだった労務問題を、業界全体のこととして取り組んだことも、訓練所設置も、退職金共済組合の設立も、すべてその理念のあらわれであった。また日本のOECD加盟、IMF八条国、ガット一一条国への移行を前にし、開放体制にそなえて業界の体質を改善するための指標として、ことあるごとに経営合理化をアピールした。これらの行動は、大林社長がかねて信念とするところであったが、昭和三十七年(一九六二)九月、大阪商工会議所主催の経済視察団に参加し、ヨーロッパ各地を視察したことによって、さらにその思いを深くしたためであるといわれる。

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