大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 飛躍への一歩―東京中央停車場工事

第一節 合資会社大林組の設立

抜本的な機構の改革、諸規定の制定

岩下氏の示唆によって、人事、組織の面などに刷新を試みた芳五郎は、明治四十年(一九〇七)十一月、以下の店員服務規定を公表した。

  • 一、店員は本店諸規則および店主、上役の命令を遵守し、忠実勤勉を旨とし職務に従事あるべし
  • 一、店員は品行方正にして、貧汚の所為あるべからず
  • 一、店員は職務の内外を問わず、謹慎懇切を主とし、粗暴の言行あるべからず
  • 一、店員は機密に属する事項を漏洩せざるはもちろん、店主、上役の承諾を得ずして、文書、帳簿等を他人に開示すべからず、ただし退職後といえどもまた同じ
  • 一、左の三項はあらかじめ店主の承諾を得べし
  • 一、名誉職もしくは会社の役員となり、また商工業をいとなむこと
  • 一、職務に関し慰労、謝儀その他の名儀をもって、他人の贈遺を受くること
  • 一、下請、出入り商工者もしくは本店関係の諸職工と宴席をともにし、またはその饗応を受くること

この規定は表現のことばこそ古いが、そのまま現代につうじる原則である。ことに綱紀の粛正を強調したことは、最も立遅れたといわれるこの業界にあって、芳五郎のもつ近代化精神を示すものであろう。

つづいて翌四十一年には、三月に会計事務取扱い心得、四月に店員兵役中手当支給の件、六月に支店、出張所の勘定科目例、九月に会計検査員心得と、相次いで諸規定が制定された。

しかし軍工事の増大その他によって、飛躍的な発展を重ねた大林組は、さらに抜本的な機構の改革を必要とした。また芳五郎が実業界進出の志をとげるにも、組織を整備し余裕をもつことを便とした。明治四十二年七月一日、合資会社大林組が設立されたのはそのためで、もとより岩下氏の示唆によるものであった。

合資会社の資本総額は五〇万円で、有限責任社員に芳五郎(出資額三〇万円)と長男義雄(出資額一〇万円)、無限責任社員は伊藤哲郎、白杉亀造の二名で、いずれも出資額五万円、業務執行社員には伊藤、白杉が就任し芳五郎は相談役の地位についた。これと同時に業務分掌規定も、明確に成文化された。

歴史ある建設業者は、個人企業に出発して、合名、あるいは合資会社となり、さらに株式会社組織をとったものが多い。大林組の場合もそれであるが、法人組織となった時期は最も早く、この年五月合名会社となった竹中工務店とともに、わが国業界のさきがけをなした。

合資会社の設立前後に受託施工した工事に、鐘淵紡績会社の兵庫、博多両工場、北浜銀行堂島支店、帝国座などがある。帝国座は新派劇の先駆者川上音次郎が、岩下氏の斡旋で依頼してきたもので、明治四十三年(一九一〇)三月、東区北浜五丁目の現住友信託銀行別館所在地に建てられた。前年開場した東京の有楽座に次ぐ洋風劇場で、関西最初のものであり、また大林組が施工したはじめての劇場建築である。この工費二〇余万円は、翌年十一月川上の急死により大部分回収不能となったが、芳五郎は心から彼の死を悲しみ、金銭については口にしなかったといわれる。

この年七月、千日前の芦辺倶楽部工事を請負い、翌四十四年六月完成したが、これは帝国座につづいて施工した劇場建築であった。このほか当時の工事として記憶さるべきものに、大阪倶楽部と難波橋建設工事がある。前者は大正二年(一九一三)十月受託、翌三年十月竣工し、のちに改築されたが、大正初期を代表する美術建築として著名である。後者は大正二年十一月に工事決定、同四年五月完成したが、鉄筋コンクリート造で橋側外部を花崗岩で飾り、美術的に構成されている。また、基礎構築の際の締切り用にアメリカから鋼矢板を輸入して使用したが、これがこの工法のわが国における最初とされている。

帝国座
〈大阪〉明治43年3月竣工
帝国座
〈大阪〉明治43年3月竣工
北浜銀行堂島支店
〈大阪〉大正元年10月竣工
北浜銀行堂島支店
〈大阪〉大正元年10月竣工
芦辺倶楽部
〈大阪〉明治44年6月竣工
芦辺倶楽部
〈大阪〉明治44年6月竣工
大阪倶楽部
〈大阪〉大正3年10月竣工
大阪倶楽部
〈大阪〉大正3年10月竣工
難波橋
〈大阪〉大正4年5月竣工
難波橋
〈大阪〉大正4年5月竣工

東京事務所を支店に昇格

明治三十七年(一九〇四)六月、東京に事務所を開いたことは前にのべたが、主目的が陸軍との連絡にあり、規模も小さかったので、東京で獲得した工事としては、同三十九年六月、大蔵省から煙草貯蔵庫を、同四十二年一月、陸軍の千住製絨所を、さらに同四十三年七月、本郷区役所から根津尋常小学校建築を請負ったにすぎない。しかし早くから東京進出を意図していた芳五郎は、明治三十九年四月、この事務所を支店に昇格させ、同四十二年四月、麹町区内幸町一丁目三番地に移転して準備をととのえ、朝鮮竜山工事に功績のあった植村克己を主任としておくった。

このころ陸軍工事を一段落した大林組は、主力を鉄道関係に転じ、明治四十二年九月、鉄道院(のちの鉄道省、現日本国有鉄道)から岩越線(現・磐越西線)工事を、つづいて十一月には鉄道院鷹取工場の増築を請負い、翌四十三年三月、山陽線の三石、吉永間複線土工工事を、七月に東海道本線京都、神戸間線路の砂利採取撒布工事を受託した。そして、明治四十四年二月には東京中央停車場建設工事を獲得して、東京の業界を驚かせ、大林組の存在を全国に強く認識させたのである。

日本最大の建築―東京中央停車場

東京中央停車場は現在の東京駅であるが、それまで東海道線の起点が新橋であったものを、丸の内にうつしたため当時そのようによばれた。設計は明治建築界の元老辰野金吾工学博士で、明治三十六年基礎工事に着手したが、日露戦争の勃発によって中断され、同四十一年三月ふたたび工をおこし、このころ基礎を完成したものである。建物の構造は鉄骨に石材と煉瓦を併用し、地上三階、地下一階、総面積三一八〇坪(一万四九四平方メートル)で、当時鉄骨を使用した建築としては日本最大のものであった。

そのころ大手門から馬場先門、和田倉門あたりまでの一帯は三菱ガ原とよばれ、見わたすかぎり草の原であった。ここに中央停車場を建てたのは、皇居を正面に、帝都の表玄関とするためであったから、規模もそれにふさわしい壮大なものとされた。ここにはのちに海上ビル、丸ビルなど高層洋風建築が建ちならび、日本のビジネスセンターとなったが、そのはじめをなしたのがこの駅舎である。計画は鉄道院総裁後藤新平の案により、総工費は戦艦一隻の建造費に匹敵するといわれた。日本銀行本館とともに、辰野博士の代表的作品である。

この工事の入札には清水組、安藤組などの一流業者と、関西からは大林組だけが指名された。これはさきの第五回内国勧業博覧会の工事実績によるといわれ、芳五郎は万難を排し、これを獲得することを期した。

第一回の入札は壁および床その他の工事で、主要材料の大部分は支給であるが、開札の結果は偶然にも、清水組、大林組は同額の三九万円余で、さらに再入札を行ない、三八万六〇〇〇円で大林組が落札した。つづいて翌四十五年には二月に屋根および一階内部、六月に内部大理石、九月に内部床、十月に二階および三階内部の各工事が、一一社の指名入札に付されたが、これらも全部を獲得した。当時の事情について、竹中藤右衛門、安藤徳之助氏ら業界長老は、昭和二十七年に行なわれた座談会(東京建設業協会編「建設業の五十年」)で、以下のように語っている。

竹中 これ(東京駅工事)は東京で、非常なセンセーションをおこしたのじゃないかと思う。われわれが俄然として大林組があらわれたのを見たのは、たしか大阪の第五回内国博覧会かなにかがあったとき、この建物を大林がやって、ちょっとおどろいた。その勢いをかりて、非常に膨張して東京へ出てきて、いまの東京駅をとったということだ。そのときはおそらく東京でも、ずいぶん大きな騒ぎがあったろうと思う。東京へ進出したというのでね……

安藤 関西業者の東京進出……

竹中 その前に、師団増設というのがありはしないかと思う。大林君のほうは博覧会をやって、非常な社会の注目を浴びて、その後つづいて各地の師団をやった。その力を培養して東京へ出てきた。どうもそういう順序じゃないかと思う。

竣工式当日の東京中央停車場
竣工式当日の東京中央停車場
東京中央停車場 〈東京〉大正3年3月竣工
全景
東京中央停車場 〈東京〉大正3年3月竣工
全景
大天井
大天井
鉄骨工事
鉄骨工事
切符売場
切符売場
貴賓室
貴賓室
2階まわり
2階まわり

工事は植村克己を総主任として、三年二カ月ののち大正三年(一九一四)三月完成し、八月十五日付で鉄道院から感謝状を贈られた。これは現在の東京駅でいうと、丸の内口本屋であるが、昭和二十九年に竣工した八重洲口本屋も大林組の施工である。

この大工事完成によって、それまで関西業者としてのみ知られた大林の名は東京にも定着し、その後続々工事を獲得して、芳五郎の初志はとげられた。植村は大正八年(一九一九)東京支店長となり、さらに取締役、常務取締役に昇進したが、生涯東京を中心に活躍し、大きな業績を残した。

なお、この工事とほぼ同時に、生駒隧道の難工事が行なわれたが、これについては別にのべる。

植村克己(常務取締役のころ)
植村克己(常務取締役のころ)
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