大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 工事消化量、業界第一位へ

第二節 創業五十年を迎える

業界は様相一変―総動員体制へ

昭和十三年(一九三八)十月、わが軍は漢口、広東を攻略し、翌十四年二月には海南島に上陸して、戦局は拡がって南方を指向した。一方、五月には満蒙国境でノモンハン事件がおこり、非常時の色はいよいよ濃厚となった。建設業界も総動員体制に組みこまれ、軍施設と軍需産業方面に動員されたが、技術者、労務者の不足や輸送力の低下、電力事情悪化などの悪条件が重なり、工事は意のごとく進まなかった。一般民需は不急不要とみなされ、資材配給は制限されて、木材すらも昭和十四年十一月の木造建物建築統制規則により規制され、住宅建築は一〇〇平方メートル以下に抑制された。また価格統制令、賃金臨時措置令の公布によって、競争入札はその意味を失い、随意契約がとられるようになった。

こうして業界も様相を一変して、資材の配給、工事の配分のための組織を必要とするにいたった。すでに昭和十三年三月、日本土木建築請負業連合会の顧問弁護士牧野良三代議士は、土木建築業組合法の制定をはかり、議員提出法案を議員に提出したが、会期切れによって成立しなかった。これに代わって同十五年制定されたのが工業組合法による日本土木建築工業組合で、それまで各府県にあった土木建築業組合は、いずれもその統制下にはいり、府県土木建築工業組合となった。

このころ大林組常務取締役中村寅之助は、この組織を不備として、統制会の設立を主張した。建設業の果たす役割の重要性からみて、臨時資金調整令の適用は当然であるが、そのためには統制会を設立し、重要産業団体令の適用を受けねばならないとするものであった。彼は会合のたびにこれを力説し、多くの支持者もあったが、陸海軍の対立、あるいは主務官庁商工省に対する非協力などの諸事情で実現をみなかった。しかし、これが不備であったことは彼の説のとおりで、やがて日本土木建築統制組合に改組され、さらに戦時建設団にまで発展したのである。

このように業界多事の折りから、昭和十四年九月、富田義敬が、また十月には岡胤信が相次いで死去した。その功績はすでにのべたとおりであるが、ともに第一線をしりぞき、顧問在任中であった。

株式会社満州大林組の設立

昭和十四年八月、独ソ不可侵条約の成立を機として平沼内閣が総辞職し、阿部内閣に代わると間もなく第二次ヨーロッパ大戦が勃発した。わが国は不介入を声明するとともに、東亜共栄圏による新秩序建設を目ざし、戦時体制をいよいよ色濃くした。

日本の兵站基地としての大陸経営は、さらにその重要性を増し、満州、華北における建設工事が急速に増大した。このころ満州国における日本企業は、すべて現地法人とする政策がとられたため、大林組も昭和十五年三月、株式会社満州大林組を設立した。大林組の満州国および関東州内の支店、出張所を廃し、その事業を継承したものである。資本金は五〇〇万円(満州国国幣全額払込済)、本店は創立に当たり新京特別市においたが、翌四月、奉天市大和区加茂町一六の旧支店所在地にうつし、新京には支店を設けた。役員は次のとおりである。

取締役社長 大林義雄(大林組社長)、常務取締役 高橋誠一(同取締役前奉天支店長)、取締役 白杉嘉明三(同専務取締役)、同 鈴木甫(同常務取締役東京支店長)、同 近藤博夫(同常務取締役)、同 中村寅之助(同)、同 本田登(同取締役東京支店現業部長)、同 石田信夫(同取締役本店営業部長)、同 中安治郎(同前東京支店営業部長)、同 塚本浩(同前本店庶務部長)、監査役 植村克己(同常務取締役)、同 皆川成司(同前奉天支店次長)、同 田辺信(同監査役)

以上のうち中安は土木部長、塚本は本店支配人を兼任した。

対ソ関係の緊張につれソ満国境の防備が急がれて、この方面の工事も増大したが、人跡まれな辺境で治安が悪く危険をともなうことが多かった。その一つに、三江省南叉で満鉄第一〇七七号軍用工事におもむいた伊藤秀利が匪賊に連れ去られた事件がある。昭和十四年(一九三九)五月三日のことで、工事事務所と宿舎は焼かれ、下請世話役以下四名は死んで、彼は連行されたまま消息を絶った。奉天本社では捜索につとめたが、ついに手がかりを得られず、満二年後の同日付をもって殉職と認定した。また同省勃利県杏樹出張所の主任助友猛が匪賊に襲われたのもそのころであった。彼は飛行場建設工事に赴任中、旅館を襲撃され、浴槽にひそんで辛うじて難をのがれたといわれる。

満州大林組は設立当初、駐在役員を含め二五六名が在籍し、終戦時には三五三名に増加したが、このうち現地召集を受けて軍務につき、戦死した者や抑留された者も多い。また無事帰還した者も引揚げに際して言語に絶する労苦にあったことはいうまでもなかった。この間受託した工事は数多いが、主要なものをあげると次のとおりである。

  • 土木関係―満鉄図佳線図們~新興間第二工区、同浜綏線治山~横道河子間その他線路工事、同浜州線線路および橋梁、同安奉線第二工区、同安寧線第一工区、東辺道開発会社二道江製鋼所土木工事、大連市白雲山付近整地工事、吉林人造石油会社鉱業所土木工事、昭和製鋼所構内線路路盤、大孤山採鉱所第三洗炭場貯蔵所および第九高炉基礎
  • 建築関係―満州国宮廷宮殿、満鉄奉天総合事務所、同牡丹江鉄道局局舎、同鉄道工場および事務所、社宅、康徳吉租満鉄教習所、昭和製鋼所ルッペ工場および付属病院、満州光学工業奉天工場および社宅、密山炭鉱会社城子河選炭工場および社宅、満州鉱業開発会社奉天精錬所および社宅、同安東製錬所、満州東亜煙草会社奉天工場倉庫、満炭鉱機会社鶏西鍛造および製缶工場、満州武田薬品会社奉天工場、満州大豆化学工業会社大連工場、大日本製薬会社新京工場および社宅、満州三菱機器会社事務所および社宅、本溪湖煤鉄公司宮ノ原社宅、吉林人造石油会社および社宅、満州石炭液化研究所事務所、商工金融作社中央会事務所、満州電気化学工業会社吉林カーバイト工場、吉林鉄道会社新吉林駅、三菱関東州マグネシューム会社石河工場

召集と徴用―従業員は漸減

このころ業界にとって最大の悩みは労働力の不足で、雇入れの制限を受けたばかりか、召集による入営、出征、また国民徴用令による徴用で従業員は漸減した。大林組の在籍者は大正八年(一九一九)に役員、社員、准社員を含め二八四名であったものが、昭和十二年(一九三七)には一三三七名に達していた。その間の休職者(主として病気による)は年間一〇名ないし二〇名であったが、昭和十三年には総数一四二〇名に対し八八名の休職者を出した。同十四年には一五三九名に対し一四〇名、同十五年には一七一八名に対し二三〇名と毎年急増を示しているが、そのほとんどは応召、応徴によるものであった。

それにもかかわらず、建設工事は国の至上命令であった。業者はいずれも困難にたえ、この要請にこたえたが、大林組が内地外地をつうじ施工した主要工事には次のようなものがある(軍工事をのぞく)。

  • 日本製鋼所室蘭製作所、北海道人造石油滝川工場、東京鋼材深川工場、東邦重工業四日市工場、大阪瓦斯酉島工場、日本製鐵広畑製鋼工場、帝国人絹麻里布機械工作工場、日本アルミニウム黒崎工場、東北振興電力十和田発電所、同松川発電所、日本発送電牧発電所、日本製鐵朝鮮清津工場、朝鮮鉄道輪城~富寧間線路、旭電化工業台湾高雄工場、台湾電力円山発電所、華北交通京漢線沙河~祐鎮間橋梁、華北東亜煙草青島工場、日東紡績東京工場、東北特殊鋼工場(以上昭和十四年受注)
  • 日本鋼管大阪工場、尼崎人造石油尼崎工場、三菱電機大阪工場、武田化成本工場、大阪製鎖造機茨木工場、神戸製鋼所本事務所、同社長府工場A、B、D、E各工場、住友金属和歌山工場、東洋アルミニウム三池工場、三菱重工業大橋工場、東北振興電力新田川大谷発電所、華北塘沽新港函船渠および岸壁(以上昭和十五年受注)

昭和十五年(一九四〇)三月、国鉄の現大阪駅が竣工した。これは同十三年七月受注し、当初の計画では六階建であったのであるが、時局の緊迫により工事を三階までで打切って、一応完成としたもので、すでに六階まで組立てを終わっていた鉄骨は解体し、軍需用に転用された。

国鉄大阪駅本屋
〈大阪〉昭和15年3月竣工
設計 鉄道省
国鉄大阪駅本屋
〈大阪〉昭和15年3月竣工
設計 鉄道省
国鉄大阪駅本屋
〈大阪〉昭和15年3月竣工
設計 鉄道省
鉄骨工事
国鉄大阪駅本屋
〈大阪〉昭和15年3月竣工
設計 鉄道省
鉄骨工事
大林芳五郎伝
大林芳五郎伝
洪恵録
洪恵録

同年十一月、皇紀二六〇〇年記念祝典が行なわれたのを機として、陸海軍に軍用機「大林号」各一機を献納した。また大蔵省は金買い上げ規則を制定、金の強制買上げを行なったが、大林組はこれに先立ち昭和十三年八月、早くも金の献納を行なった。この献納には明治四十二年(一九〇九)十一月、鐘淵紡績兵庫支店第三工場落成記念として贈られたものをはじめ、各施工先から贈与された金杯、金トロフィーなどが含まれ合計五三点にのぼった。これを献納するに際しては、それぞれの贈与先の了承をもとめるとともに、全部を写真に撮影し「洪恵録」と名づけた図録におさめ、贈与先に贈った。

また、この年六月、大林芳五郎伝編纂会により「大林芳五郎伝」が刊行された。

創業五十年記念祭・記念事業

昭和十六年(一九四一)は、大林芳五郎が創業した明治二十五年(一八九二)から数え、五十年目に当たった。これを記念し、五月十八日、大林家墓所において墓前祭、生国魂神社において神前祭、大阪府実業会館において慰霊祭を挙行した。これら行事には大林家一族をはじめ、役員、支店、出張所などの代表者、関係会社代表らが参列し、慰霊祭では伊藤哲郎、大林賢四郎、岡胤信の胸像除幕式が行なわれた。また、中央公会堂では長年勤続者の表彰と記念式、祝宴が開かれ、翌十九年には下請負人関係に感謝状を贈り、祝宴を催した。さらに創業五十年記念帳と題し、代表的工事の竣工写真を収録した写真集を発行して関係先に贈り、従業員には男子に大杯と国民服乙号一着を、女子には大杯と白生地一反を贈与した。

このほか記念事業として医療補助金、奨学金の制度を設け、共済会をつうじて実施することとなった。医療補助金はその後健康保険の制度にともない廃止したが、奨学金は現在もなお給付されている。また、この年十一月、大正八年の株式会社創立のときに設けた社員援護会を解散して、新たに柏葉会を設立した。柏葉会は社員援護会が保有した大林組株式を引きつぎ、勤続表彰を受けた社員にこれを贈り、あるいは不時の出費や住宅資金などの貸付を行ない、福祉増進をはかるための機関である。この会はその後事業内容に若干の変更はあったが、現在もなお存続している。

この創業五十年を機として、翌六月、白杉嘉明三は専務取締役を、植村克己は常務取締役を辞任して第一線をしりぞき、ともに相談役となり、中村寅之助が専務取締役に就任した。

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