大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 日露戦争と大林組

第三節 芳五郎をめぐる人々

人間的魅力―理想的な人材集中

創業十年にして第五回内国勧業博の大工事を請負い、天下に名を成した芳五郎は、つづく多くの軍工事によって、大林組の基礎を確固たらしめた。これはもとより彼のすぐれた経営の才によるものであるが、同時にその周囲にあって、彼を助けた人々の力があったことも忘れることはできない。彼はその比類なき統率の器量によって多くの部下を心服させ、彼らのもてる力を存分に発揮させた。また誠実な人柄と人間的魅力は、接する人々をことごとく信頼させ、進んで協力することを惜しませなかった。大林組はこれらの総合によって大をなしたのであるが、当時芳五郎の周辺にあった内外の人たちをかえりみよう。

まず内にあっては、創業当初「四天王」とよばれた下里熊太郎(土木)、菱谷宗太郎、小原伊三郎(建築)、福本源太郎(事務)がいた。下里、菱谷、小原はいずれもすでに業界に知られたベテランで、部外者出身の芳五郎にとって欠くべからざる人々であり、また福本は麹屋時代の旧同僚として最も信頼できる腹心であった。この陣営は創業時にあって理想的なものだったと思われる。

しかしこの時代は、日本における産業革命期ともいうべく、各分野の進歩は飛躍的で、これにともなう建設業の形態も、従来の棟梁・親方的請負ではすまされなくなった。工事の規模や工法の変化に応ずるには、正規の教育によって西欧的な科学知識を身につけた新人を必要とし、経営もまた組織化されなければならなかった。芳五郎がいち早くこれを見きわめ、それに対応する姿勢をとったのは、彼の天分でもあったろうが、ひとつには彼が部外の出身で、過去の残滓をもたなかったためかもしれない。

創業後間もなく伊藤哲郎を、つづいて白杉亀造の両人材を得たことは、彼にとって幸運であった。「四天王」がその役割を終わったのち、芳五郎の手足として新時代に対処するには、若さと熱を必要としたが、二人はその期待にそむかなかった。名をあげなければならないこのころの人物として、ほかに三村久吾(明治二十八年入店、当時支配人)、小原孝平(同二十九年入店、のち監査役)、(注)長田桃蔵(同、当時副支配人)、宇高有耳(同三十五年入店、のち取締役)、中島茂義(同、のち監査役)らがいた。

日露戦争中から戦後にかけ、軍工事を大量受注したころは、さらに人材が集中した。明治三十七年には加藤芳太郎(のち監査役、工務監督)、伊藤牧太郎(のち名古屋支店長)、大西源次郎(のち機械部長)、伊藤順太郎(のち工務監督)、同三十八年に指田孝太郎(のち工作所製材部長)、井田徳太郎(当時新義州製材工場長)、有馬義敬(当時土木部長)、小松正矩(当時広島支店長)、池田源十郎(当時支配人)、内山鷹二(当時理事長)、船越欽哉(当時技師長)、植村克己(のち常務取締役、相談役)、同三十九年には松本禹象(のち現業部長、常務取締役)、伊集院兼良(当時新義州製材工場長)、多田栄吉(当時新義州製材工場副長、のち工場長、浪速土地常務取締役)、同四十年には安井豊(のち営業部長、監査役)、同四十一年に服部保太郎(当時会計部長)、富田義敬(のち内外木材常務取締役)、三宅勘太郎(のち工作所東京工場長)らが入店した。

芳五郎は技術者を重視し優遇したが、その端的なあらわれは船越欽哉の入店と、さらに明治四十二年岡胤信を招いたことである。船越は工部大学校造家学科出身で、当時きわめて少数の工学士のひとりとして海軍技師、呉鎮守府建築課長の要職にあった。それが野に下り大林組にはいったことは、業界に衝撃を与えたのみでなく、請負業を賤業視した世間を驚かせた。

岡もまた工学博士で、学位をもって業界入りをした最初の人である。彼は東京帝大土木学科を卒業して内務省にはいり、高等官三等にのぼったのち、大阪市に転じ築港事務所工務課長となった。それを芳五郎は年俸四五〇〇円の高給で迎えた。ときの大阪市会は決議をもって岡に感謝状を贈り、その功労にむくいた。

船越、岡のように、当時この道の権威とされた人々が、一個人の経営する大林組にはいったのは、単に経済的条件のみではあり得ない。優遇は技術者尊重の信念のあらわれであり、芳五郎のこの精神が彼らを強く動かしたからにほかならなかった。

岩下清周氏を師と仰ぐ

芳五郎の幼時の同窓に、田中市太郎、金沢仁作、志方勢七の三氏があり、創業当時阿部製紙工場建設に当たり近江財閥阿部一族の知遇を得たことは前にのべた。その後事業が発展し、社会的地位が向上するにともない、次第に財界に多くの知友を生じて、やがて彼自身もそのひとりとなったのであるが、その誘因をなしたのは岩下清周氏であった。

岩下氏は明治十六年(一八八三)、二十六歳で三井物産パリ支店長となり、来欧する政界、軍部の有力者とまじわったが、なかでも桂太郎(のちに陸軍大将・首相)、原敬(のちに政友会総裁・首相)の両氏とは特に親しかった。そののち三井銀行にはいり副支配人、支配人となり、同二十八年(一八九五)、同銀行支店長として大阪にうつった。これを機として大阪財界人となったのであるが、やがて三井を辞して北浜銀行設立に参加し、常務取締役となった。北浜銀行は初代頭取に久原庄三郎(藤田伝三郎の実兄で、久原房之助の父)、次いで東京帝大の初代総長渡辺洪基、さらに原敬の諸氏を迎えたが、事実上の経営者は岩下氏で、のちにはみずから頭取に就任した。

北浜銀行設立の趣旨は、株式取引所の金融界における機能発揮にあり、岩下氏の経営方針は型破りとみられる積極的なものであった。当時の銀行が預金と貸金の利ざや取りを目的としたのに対し、工業立国を持論とした同氏は、紡績、ガス、電気、醸造などの各種事業に対し、その経営者が信頼できるかぎり惜しみなく融資した。したがって、銀行筋からは冷たい目で見られたが、関西における岩下氏の声望はみるみる高くなり、財界を圧した。

芳五郎が岩下氏と交わりを生じたのは、明治三十八年二月、今西林三郎氏の紹介によるものであった。今西氏は大阪商船(現・大阪商船三井船舶)の支配人から、阪神電鉄社長をはじめ多くの会社の社長、重役となり、大阪商工会議所会頭、大阪三品取引所理事長を歴任した有数の実業家で、人格者として知られていたが、当時、芳五郎が多くの工事をかかえ、資金調達に苦しむのをみて、斡旋の労をとったものである。

また、この年大林組支配人として迎えた池田源十郎も、今西氏の推挙によるもので、池田はそれまで唐津鉄道支配人として、岩下氏の人的系列下にあった。これらの関係が、宿命的ともいうべき清周氏と芳五郎両者の出会いとなったのであるが、芳五郎が事業家として開眼されたのはこのときだったといえる。

芳五郎は初対面の日に、この財界の巨人に心服し、岩下氏もまた芳五郎の人物を、単なる請負業者でないと見ぬいた。ふたりは固くむすばれ、岩下氏は彼にとって銀行家であるよりは人生の指導者となった。彼が資金的援助を受けたのは、のちにのべる生駒隧道工事以後のことで、北浜銀行と取引をはじめた同年末には、四〇万円余の巨額な預金尻を残したほどであった。岩下氏の見識がいかに高かったかは、建設業界の将来について、以下の見とおしを芳五郎に示したことで知られよう。

  • ○わが国は地理的にみて、工業立国でなければならないが、現在は動力や交通機関がはなはだとぼしい。将来はこの方面にかならず主力が注がれるであろう
  • ○商工業の発達は都市の勃興をうながし、五層、十層の高層建築時代となろう
  • ○家内工業は工場化され、各種工業は集約統制されて、多数大規模の工場が出現するであろう
  • ○木造建築は、洋風の耐火構造に建てかえられよう
  • ○港湾、橋梁、道路、鉄道、水力電気などの土木工事も隆盛となろう
  • ○土木建築の大規模化にともない、工法の革新が要求されるようになる。新進の技術者と機械力使用を考えねばならない
  • ○以上の見とおしに適応するためには、請負業者は組織、制度を整備充実する必要がある
岩下清周氏(北浜銀行頭取時代)
岩下清周氏(北浜銀行頭取時代)
今西林三郎氏
今西林三郎氏

将来にそなえ北浜に新店舗、境川に製材工場

これらの予言は、そのすべてが適中している現代からみれば、なんの新味もない。だがコンクリート建築が出現する以前の一九〇〇年代当初に、これだけの未来図を描いたことは達見といわねばなるまい。これは、芳五郎がそれまでおぼろ気に心に抱いていたことを、きわめて明確に形として示されたもので、知識をただちに実行に移すことを信条とした彼は、着々それを実現した。

彼はまず明治三十八年(一九〇五)六月、それまで西区靱南通りにあった店舗を、難波橋南詰の東区北浜二丁目二七番地の乙に移した。ここが大阪株式取引所を東にひかえた商業地域の中心とみて、将来の発展にそなえたのである。また、尻無川尻の小規模な木挽工場に代え、境川に電力による製材工場を開設して、原木の貯蔵と自家製材を行ない、集中処理による能率向上とコスト低下をはかった。人材の導入については前にのべたように、技術、事務の両面にわたり特に意を用いたが、これらはいずれも岩下氏の示唆にもとづくものであった。

これと同時に、原始的ではあるが機構の整備も行なった。店主の下に理事、支配人、部長の職を設け、工務、会計、庶務の三係をおいた。また稟議書の制度を定めて、諸事書類とすることとし、用紙も制式をきめて使用するようになった。

北浜の新店舗
北浜の新店舗
境川製材工場
境川製材工場

開かれた目―事業界進出を決意

岩下氏の影響は、このようにして請負業者としての芳五郎を成長させたが、また同氏周囲の財界人との交わりは実業界への目を開かせた。これより先、前年(明治三十七年)七月、今西氏の勧めにより大阪商工会議所議員に立候補し当選したことはすでにその志向を示しているが、彼が事業界進出を決意したのはこの時期である。

その第一にとりあげたのは、関西馬匹改良会社、競馬倶楽部を設立して、鳴尾競馬を経営することであった。日露戦争の経験により軍馬の改良がさけばれ、農林省に馬政局がおかれたが、馬匹改良の手段として競馬が公認されることとなった。時代に敏感な岩下氏は、早くもこれに注目して競馬場開設をはかり、芳五郎と志方勢七、久能木字兵衛(東京)両氏によびかけた。この四人を中心に同志を集め出願したが、他に五件の競願があり、政府は妥協を勧告したので、芳五郎が主となって奔走し、明治四十年(一九〇七)六月認可された。

関西馬匹改良会社がそれで、社長に秋山恕郷氏、重役に久能木宇兵衛、鹿島秀磨、関直彦ら諸氏がえらばれ、芳五郎は代理として渡辺菊之助を参加させた。一方これを運営する競馬倶楽部も設立され、これには理事として彼自身加わり、他に志方勢七、島徳蔵、七里清介ら諸名士が名をつらねた。

競馬場は兵庫県武庫郡鳴尾(現・西宮市)に地をえらび、馬場、観覧席、厩舎などの施設は大林組が施工に当たった。しかしこの種の施設はわが国に例がなく(横浜には外人専用の根岸競馬があった)、設計にしてもそのよるべきものがなかったので、宮内省主馬頭、藤波言忠子爵から外国競馬場の写真を借り、これを参考にしたといわれる。八月から用地買収にかかり、工事は二カ月余の短期間に行なわれ、第一回競馬は十一月十七日に開催されたが、これが関西における競馬の最初で、その成功は折りからの不況にもかかわらず、一株一二円五〇銭払込みの株価を一挙に一七円台に高騰させた。関西馬匹改良会社の前途は洋々たるかにみえたが、翌明治四十一年、開会早々の貴族院で、賭博公認を攻撃された政府は、同年五月以後の馬券発行を禁止した。競馬開催わずかに三回、しかも一回は三日間にすぎず、ようやく隆盛に向かおうとしたこの試みは、ついに挫折して、会社は解散した。

新年始業式の記念撮影
(明治39年)
前列中央・芳五郎 左・船越欽哉(技師長)左端伊藤哲郎(工務部長)芳五郎の右・内山鷹二(理事)右端竹本行史(会計主任)2列目左から3人目白杉亀造(支配人)その右、松本禹象(技師)
新年始業式の記念撮影
(明治39年)
前列中央・芳五郎 左・船越欽哉(技師長)左端伊藤哲郎(工務部長)芳五郎の右・内山鷹二(理事)右端竹本行史(会計主任)2列目左から3人目白杉亀造(支配人)その右、松本禹象(技師)
鳴尾競馬場
〈兵庫〉明治40年11月竣工
鳴尾競馬場
〈兵庫〉明治40年11月竣工

箕面有馬電気軌道の苦境を救う

芳五郎と、岩下氏を中心とする財界人との結合をさらに深めたものに、箕面有馬電気軌道会社への協力がある。これは現在の京阪神急行電鉄(阪急)の前身をなすもので、小林一三、井上保次郎、松方幸次郎、志方勢七、野田卯太郎、平賀敏らの諸氏によって明治四十年に創立された。当時の事情を「岩下清周伝」は次のようにのべている。

これよりさき、岩下清周君は小林氏らに対する情宜上、平賀敏氏らと相はかってこれが設立を援助するところあったが、当時は日露戦争後の反動による財界不況と、世人の電気鉄道に対する無理解から、当社の前途すこぶる困難なものがあり、株式払込みも予期のごとくならず(中略)、君(岩下氏)は表面に立って堂々とその衝に当たるにしかじとの決意をなし、明治四十一年十月十九日臨時株主総会において取締役に選任、取締役会の互選によって社長に就任し、小林氏依然専務としてここに新陣容をととのえ、同年十二月大阪株式取引所において、当社株の定期売買の認可を得たのである。かくて二十五円払込みの株が十七円前後であったものが、漸次値上りをみた一方、君は鋭意工事の進捗に努力したので、さしも世間の疑惑の焦点にあり、内憂外患こもごもいたり苦境にあった当社の大勢を挽回し、明治四十三年三月十日、第一期線である大阪宝塚、石橋箕面間の開通をみ、同月十三日沿道有志、同業者等七百名を池田車庫に招待して、盛大な開業式をあげた。

創業に難航したこの会社が世間の信用を得るためには、なにをおいても路線の開通が先決問題であった。以上の路線や三国発電所、池田変電所、車庫などの関係工事は大林組に一任されたが、その関係は発注者対業者の立場を越えていた。岩下氏らの窮境を救うため、芳五郎自身現場にのぞみ工事を督励して、わずか一年の短期間にこれを完成した。その後同年五月から翌四十四年三月にかけて、同社が経営する宝塚新温泉の諸施設、箕面山遊覧道路新設工事に従事した。この方面の今日の発展は、これを契機としたものである。

「岩下清周伝」の記述にもみられるように、日露戦後の反動不況には、はなはだしいものがあった。明治四十年一月、株式は暴落して市況は沈滞し、企業の倒産は相次いで、翌四十一年前半にかけて支払いを停止した銀行は全国で三五、取付けにあったもの七〇余におよんだ。異例にも国民に精神作興、質実主義をさとした戍申詔書が発布されたのも、この年(明治四十一年)十月である。第二次桂内閣は、桂太郎首相みずから蔵相を兼任し、財政の緊縮、低金利政策を断行するとともに、外資の導入を行ない、景気の回復をはかった。

この恐慌で打撃を受けた建設業者も多かったが、主力を軍工事に集中していた大林組の場合は、影響を受けなかったばかりか、相次ぐ軍施設の拡張によって、発展に発展を重ねた。別にのべるように、大林組を個人経営から合資会社組織に改めたのはこの時期で、芳五郎自身は相談役としてやや自由な立場に身をおいた。これは業務の実体を組織に対応させるとともに、彼自身が実業界に進出するための身がまえでもあった。

宝塚新温泉
〈兵庫〉明治44年3月竣工
宝塚新温泉
〈兵庫〉明治44年3月竣工
箕面山遊覧道路
〈大阪〉明治44年3月竣工
箕面山遊覧道路
〈大阪〉明治44年3月竣工

広島瓦斯、広島電気軌道―両社を創立

芳五郎の本格的事業界乗り出しは、まず広島瓦斯会社の創立にはじまる。これは、陸軍では第五師団、海軍では呉軍港の諸工事を請負い、これにともない広島に支店を設けるなどこの地に関係が深かったことによるものであった。明治四十二年(一九〇九)の春、同地の実業家松浦泰次郎氏から瓦斯会社設立を提案された彼は、ただちにこれを岩下氏と、また同氏とならぶ大阪財界の指導者片岡直輝氏にはかった。

片岡氏は官界出身で、のちに日本銀行支店長として大阪に在勤し、さらに大阪瓦斯会社社長となった有力者である。瓦斯事業界の元老である同氏は、ただちにこの挙に賛成すると同時に、その社長となることを承諾し、その年十月、資本金一五〇万円の広島瓦斯会社が成立した。いまだかつて他事業の経営に参加しなかった片岡氏がこれを受けたのは、芳五郎の人格に動かされたためで、当時話題となったといわれる。役員陣には芳五郎のほか、岩下清周、島徳蔵、志方勢七、渡辺千代三郎ら諸氏と、地元松浦泰次郎氏らが名をつらねた。

また広島瓦斯会社の創立準備中、地元有力者から電鉄創設の相談を受けた。これも岩下、片岡両氏の賛成を得て、ただちに出願手続きをとったが、あたかも電鉄流行時代で五件におよぶ競願があり、なかでも福沢桃介、松永安左衛門氏らを中心とする東京派が、最も有力な競争者であった。

この競願問題は紛争にまで発展、県当局は妥協を望み、知事みずから調停に立ったが容易に解決をみなかった。このとき芳五郎は単身松永氏をその旅宿にたずね、誠意をつくして懇談した結果、同氏は無条件で出願権を放棄した。これによって明治四十三年二月、資本金三〇〇万円の広島電気軌道会社が生まれたのであるが、実業界の新人芳五郎が、電力界の雄松永氏を譲歩させたことは奇跡的なこととして伝えられた。

広島電軌社長には芳五郎自身就任し、常務(のちに専務)に大林組支配人池田源十郎を抜いて日常経営に当たらせた。他の役員には岩下清周、片岡直輝、松方幸次郎、志方勢七、竹内作平、速水整爾氏ら、一流の財・政界人を網羅した。広島電気軌道の開業は大正元年(一九一二)で、広島瓦斯とともに営業成績はきわめてよく、社業は順調に発展した。しかし創業わずか数年にして中心人物の芳五郎が没したため、大阪資本は引きあげて、両社合併のうえ地元資本の経営にうつされた。

片岡直輝氏
片岡直輝氏
渡辺千代三郎氏
渡辺千代三郎氏

原敬氏を感嘆させた阪堺電軌創立の経緯

これに継ぐ事業が、阪堺電気軌道会社の創立である。大阪発展の原動力のひとつに私鉄の発達があげられるが、当時関西で純民間資本による電鉄は、明治二十一年(一八八八)開通した大阪と堺をむすぶ南海電鉄(はじめ阪堺電鉄)があるのみであった。この沿線には住吉、大浜、浜寺の遊覧地が密集し、殺到する大阪市民の足はこの電鉄のみでさばくことはできなかった。

このころ電鉄事業に財界の目が向けられ、前記の箕面有馬電軌、広島電軌もそのあらわれであるが、南海方面にもさらに並行して新線計画がくわだてられた。大阪~堺間、大阪~岸和田間、大阪~浜寺間など六件の競願が行なわれたが、芳五郎が発起したものは、大阪市南区恵比須町から浜寺にいたるものであった。

これらの間ではげしい競争となり、彼は岩下、片岡両氏を背景に、奥繁三郎氏(のちに衆議院議長)らとともに戦ったが、やがて最も有力な敵の真意が、電鉄建設よりも株のプレミアムにあることを知った。そこで彼はこの派と妥協し、明治四十二年(一九〇九)十二月、認可獲得に成功するとともに、彼らの権利株三万株をプレミアムつきで買収した。資本金三〇〇万円、全株数六万株のうち、芳五郎の持株は三万五〇〇〇株である。これを聞いた原敬氏が「大林がもし政治家となったら、一方の雄となるだろう」と語ったと伝えられる。

阪堺電気軌道会社は永田仁助、野元驍、奥繁三郎の三氏と芳五郎が取締役となり、岩下清周、松方幸次郎、渡辺千代三郎三氏を監査役に、社長には片岡直輝氏を推した。明治四十四年十二月、恵比須町から堺市大小路まで路線が開通し、大正元年(一九一二)十一月末には浜寺終点にいたった。さらに同三年に六〇万円を増資し、今池、平野間に側線を新設した。

営業成績はきわめて好調であったが、それは当然南海電鉄との猛烈な競争を招いた。これを憂える声が次第に大阪財界に高まり、ことに東洋紡績の谷口房蔵氏は熱心に和解工作につとめ、両社の合併を勧めた。その結果、同四年三月にいたり合併が実現したのであるが、これはもとより創立者である芳五郎にとって、望ましいことでなかった。それにもかかわらず大義名分を立てたのは、彼の人格を示すものとして、創立の際の手腕よりも、むしろこのときの出所進退を高く評価されたという。

広島電軌、阪堺電軌と並行して、京津電気軌道会社も明治四十三年(一九一〇)三月設立された。逢坂山トンネルを経て、京都と大津をむすぶ路線で、翌四十四年六月着工、大正元年(一九一二)十二月全通をみた(大正十三年八月京阪電鉄と合併、現在同社の京津線となっている)。資本金は一五〇万円で、芳五郎は役員として参加し、社長には奥繁三郎氏が就任した。

これら三電鉄の建設工事に際し、芳五郎は大林組を関与させず、いずれも他の業者に請負わせた。彼の実業家としての立場と、請負業者としての立場の混交を避けるための配慮で、その心事の公明さを示すものである。

この間岩下清周氏は、かねて親交ある桂太郎大将の政治活動を助けるため、明治四十一年五月の総選挙に立候補して代議士となった。このとき同一選挙区から芳五郎の友人三谷軌秀氏も立候補したので、彼は特に同氏の了解を得て岩下氏の参謀となり、大いに活躍した。そのため三谷候補は落選したのであったが、これに負担を感じた芳五郎は、同四十三年九月の補欠選挙に当たり、三谷候補を助けて当選させた。彼が大阪土木建築請負業組合に入会したのはこの当時である。

この組合は現在の大阪建設業協会の前身で、明治四十一年三月設立され、木村音右衛門組長のもとに大阪市内の有力業者をほぼ網羅していた。芳五郎がそれまで加入しなかったのは、この種の機関がともすれば談合などに利用されるのをおそれたことと、自主独往の精神にもとづくものであった。しかし、組合設置の目的がむしろそれらの悪習を排し、業界の刷新をはかるにあるのを知るにおよび、進んで参加した。

組合もまた業界の地位向上のため、財界有力者のひとりとなった芳五郎の入会を歓迎した。彼が入会したのは、かならずしも選挙を目的としたのではなかったが、組合では彼が三谷候補を支持しているのを知ると、組織をあげて応援した。選挙戦は激烈をきわめたが、同候補の当選は、これによって決定したといわれる。三谷候補を応援したのも、間接には岩下氏のためであるが、同氏との関係は、のちにのべる大阪電気軌道生駒山隧道工事によって、いよいよ抜きがたいものとなった。さらに北浜銀行破綻問題と岩下氏の没落に際し、芳五郎は全財産の提供を決意し、大林組の存亡をかけた危機を迎えることになるのであるが、これらについては別項でのべる。

注・長田桃蔵は、白杉嘉明三と同郷で、白杉の入店はその紹介によるものである。彼はのちに大林組を離れ、京都府から立候補して衆議院議員となり、また奈良電鉄(現・近鉄京都線)を創立して専務取締役となった。当時同社は社長はおかず会長制であったから、事実上の社長に当たる。同電鉄の全線三四・五キロの線路工事および長田が発起人として設立した京都競馬倶楽部施設は、いずれも大林組の施工である。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
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