大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第六章 太平洋戦争

第三節 終戦

工事力の総動員―日本土木建築統制組合

昭和十九年(一九四四)六月、ヨーロッパでは連合軍がノルマンデーに上陸し、日本では北九州が米軍B29爆撃機の初空襲を受けた。翌七月にはインパール作戦の中止、サイパン島守備隊三万人、非戦闘員一万人の玉砕と悲報が相次いで東条内閣は倒壊した。

建設資材の逼迫、労務の不足はその極に達していた。しかも航空機増産のための工場増設、本土決戦にそなえる軍施設工事などの要請はいよいよ急を告げた。建設業界はすでに昭和十六年(一九四一)、日本土木建築業組合連合会を工業法による工業組合に改組し、物資の配給割当、金属回収などを行なっていたが、この情勢によってさらに統制強化をせまられた。国家的重要度の順位により、労務、資材を集約して、工事配分を行なう工事力動員計画を必要とするにいたったからである。

そこで、工業組合法が廃止され商工組合法が実施された昭和十八年、商工省の指示により中央に日本土木建築統制組合を、関東、東海、近畿、北陸、東北、中国、四国、九州、北海道の九地区には地方土木建築統制組合を設立することとなり、いずれも十九年(一九四四)二月に発足した。この組合の特色は経営規模の大小による分類、総合業者、職別業者の区分を行なったことで、のちの建設業法の基本思想となった。

日本土木建築統制組合は、単に地方統制組合の上部団体であるにとどまらず、次の資格をもつ業者を直接加人組合員とした。

  • (イ)昭和十五年ないし十七年の年平均元請高が一〇〇〇万円以上であること
  • (ロ)正規の学歴ある満五十五歳以下の技術者一〇〇名以上を保有すること
  • (ハ)年間一〇〇〇万円以上の工事を施工するため、最小限度必要な機器を保有すること

このとき企業許可令による整備、統合が行なわれ、全国の建設業者数は九二三社となったが、以上の資格をそなえ日本土木建築統制組合の直接加入組合員となったのは三二社(のちに四八社)である。大林組が有資格者であったのはいうまでもないが、昭和十七年度の元請高は一億五九三四万円に達し、業界では第一位を占めていた。

近畿土木建築統制組合は、大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の二府四県において、年間平均五〇万円以上の施工高、主任技術者四名以上、機器一万円以上を保有する業者三一九社と、識別統制組合四五団体によって組織された。理事長は松村雄吉氏(松村組社長)で、理事一二名中、大林組からは石田信夫常務取締役が参加した。

建築工の養成所を開設

近畿土木建築統制組合は資材配給のほか、大阪市内一〇〇カ所の防火用貯水池建築、京都五条通の家屋疎開なども実施したが、特記すべきものは建築工養成所の開設である。これは業界自身が組織的に行なった技能工養成の最初の試みで、昭和十九年十一月、和歌山市西汀町の長覚寺に設けられた。この地がえらばれたのは、米軍機の空襲を避けることと、当時大林組が施工中の住友金属工業和歌山製鉄所の作業現場を実習所に当てるためであった。

目的は主として大工のフォアマン養成で、小学校卒業者約一二〇名が入所し、全寮制度をとった。所長は松村近畿統制組合長で、校長には住友金属工事現場の大林組主任宝来佐市郎が、また、教頭には大林組事務係岡本房春が就任した。教官には清水組、鴻池組などの現場主任級も委嘱されたが、実習にこの工事があてられた関係もあって大林組が主力をなし、建築係 中野司郎、向井克巳、高谷清一、宮崎光二郎、事務係 辻村寛、森春男らがいた。

技能工の養成は刻下の急務とされ、業界の発意で設けられただけに、教える者も数えられる者も、ともに真剣で技術の向上はみるべきものがあった。しかし空襲は激化して中小都市におよび、和歌山も翌二十年(一九四五)七月被災した。このとき養成所も全焼し、生徒のうち九名の犠牲者を出して、ついに再開されないまま自然閉鎖された。大林組の直接事業ではなかったが、記憶さるべきものの一つである。

また、小規模ではあるが大林組自身も千葉市に建築工員養成所を開設していた。同市今井町埋立地に新築中の日立航空機工場現場を利用したもので、昭和十九年二月準備にかかり、同年四月開所した。これも目的は大工の養成で、小学校卒業者約二五名を募集、現場内に宿舎を建設して収容し、学科と実技の教育を行なった。

所長は東京支店建築技術長木村得三郎、所長代理は蘇我出張所主任飯田俊之が兼務し、東京支店庶務部長代理斎藤一雄が主事、同代理は蘇我出張所事務主任佐藤正秋であった。講師は設計第二係主任森覚之助以下五名で、実技指導には水沢義明、川名健三郎らが当たった。

ここも数回にわたり米軍機の機銃掃射を受けたが、幸いに被害はなく、一年四カ月の養成期間を終わった。終戦とともに養成所は閉鎖されたが、時期的にみて、統制組合の和歌山養成所の計画はこれにヒントを得たのではないかと考えられる。

東海地方に激震―全壊三万戸・死者三〇〇〇

当時大林組が施工したものには、軍工事のほか住友金属工業和歌山製鉄所、三菱重工業茨城機器製作所、神戸製鋼所中津工場、石川島芝浦タービン松本工場、日産液体燃料若松工場その他、全国各地の超重点的軍需産業の工場があり、外地では北支那製鉄石景山製鉄所があった。

これら工場の多くは、米空軍の爆撃目標とされたが、名古屋を中心とする東海地方には、昭和十九年十二月七日、翌二十年一月十三日の二回、大地震がおこり、施工中の工場も大被害を受けた。この地震は、当時国民士気への影響をおそれ、報道管制を行なったため広く知られなかったが、死者合計は三〇〇〇名に近く、全壊家屋も三万戸を越える激震であった。名古屋支店管内で被害が大きかったのは日清製粉工場で、この工場は航空機、発動機製造用に改造中であったが、煉瓦造であったため全壊した。三菱重工業名古屋製作所の損害も大きく、数千台の工作機が傾いた。しかし時局の要請により、その復元は一日の遅延もゆるされず、支店は総力をあげて復旧に当たった。

内外木材では木製飛行機の部品製作

関係会社内外木材工芸は、その優秀な技術が高く評価され昭和十五年(一九四〇)には技術保存指定工場となったが、時局の変動は業務内容を一変させ、太平洋戦争開戦後は防空暗幕、木製飛行機部品の製作などを行なうことになった。昭和十八年(一九四三)七月、名称も内外木材工業株式会社と改称、定款の事業目的にも「航空機部品の製作」を第一項に加え、もっぱらプロペラその他飛行機部品の製作に従事した。

昭和二十年(一九四五)三月、大阪がはじめて空襲を受けたとき、港区千島町の本社および工場も被災して、本社は阪神ビル内に、工場は和歌山県橋本に移転した。当時同社は陸軍から神武第四二六五工場と命名され、大阪市内にも分工場を設けるようにと要望された。そこで大林組本店建物の一部を提供することになり、一階と二階を工場とし、二階の応接室を事務所に当てた。しかし、そのためには動力線の架設、工作機械の搬入などを行なわねばならなかったが、空襲後の混乱時ではかどらず、ついに作業を開始しないうちに終戦を迎えた。古林秀雄を責任者に、社員、工員十数名が配属されていたが、この間、毎日の朝礼のほかには仕事がなかったといわれる。

東京工場も同月空襲で焼失し、橋本の本工場と京都工場のみが操業していたが、木製飛行機製作について三菱重工業との提携が成立した。これは従来同社の船舶内装工事で、内外木材の技術を認められていたためで、常務取締役松本儀八(前大林組住宅部長)が折衝に当たり、同年七月十五日、三菱飛行機木材工業株式会社として新発足した。社長原耕三、専務取締役西川清、常務取締役宮永進ら役員十名は三菱出身者で、大林組からは松本儀八が常務取締役、大林芳郎が取締役、中村寅之助が監査役として参加した。

しかし、会社設立後一カ月で終戦を迎え、事業目的を変更する必要が生じたため、名称も八月末に三菱木質工業株式会社と改めた。その後業務を戦災者用組立住宅製作などに切りかえ、戦前の事業に還元することとなったので、翌二十一年(一九四六)二月、ふたたび内外木材工業の名に復した。その際三菱側の全役員は退陣し、社長に大林芳郎、常務取締役に松本儀八、取締役に中村寅之助が就任、役員のすべてを大林組によって構成し、白杉嘉明三が相談役に就任した。

内外木材工芸株式会社工場
内外木材工芸株式会社工場

一億玉砕を期す義勇兵役法公布―戦時建設団を結成

昭和二十年は米軍のルソン島上陸にあけ、最高戦争指導会議は本土決戦の方針を決定した。硫黄島の陸海軍部隊二万三〇〇〇人は玉砕し、日本全土は米軍の空爆下にさらされた。三月の東京空襲では二三万戸を焼失、死傷者一二万人余を出し、五月には宮城も被災し、都区内の大半は焦土と化した。大阪も三月、五月、六月の連続空襲によって、全市の大部分が灰となり、港区千島町の大林組機械部も、三月十四日に事務所、工場、倉庫を焼失した。大林組本店は五月五日猛火に包まれ危機に瀕したが、風向きが変わって幸いに難をまぬかれ、東京支店もことなきを得た。東京工作所はすでに前年、江東区南砂町から群馬県下に疎開していたため被害はなかった。

五月、ヨーロッパではドイツが降伏し、六月には沖縄の守備隊九万人が全滅、非戦闘員十万人が死んだ。米軍の本土上陸は必至の勢いとなり、一億玉砕を期して義勇兵役法が公布された。十五歳以上六十歳以下の男子、十七歳以上四十歳以下の女子はすべて兵役に服し、これによって国民義勇戦闘隊を編成しようとしたものである。

建設業界は、前記のごとく統制組合による工事管理を行なったが、陸海軍の協力会は依然としてその外にあり、統制の趣旨である発注、施工の一元化は望むべくもなかった。そこで軍需省は、業界の決戦体制確立のため、昭和二十年一月、田辺信(大林組)、熊谷太三郎(熊谷組)、林栄(鴻池組)、松村雄吉(松村組)の四名を招き、四日三晩にわたる対策協議会を開いた。その結果生まれたのが国家総動員法にもとづく戦時建設団で、三月二十七日、勅令による戦時建設団令が公布された。

これによって陸海軍の協力会も解散し、国有民営ともいうべき組織が成立して、構成員である業者は、その会社名を捨てて、班名を称することとなった。北海道、東北、関東甲信越、東海、近畿、中国、四国、九州の八地区に地方団をおき、近畿地方団は七月二十五日、大阪市北区の曽根崎国民学校で結団式をあげた。団長には元知事土居章平氏が就任したが、大林組から理事・総務部長として常務取締役近藤博夫、理事・経理部長として監査役田辺信、土木部長として北京支店土木部長宮本九郎の三名が参加、建築部長には井上新二(大阪市)、資材部長には錢高輝之(錢高組)両氏が就任した。しかし、この団体は結成後わずか二十日にして終戦を迎え、ほとんどなすところなく同年十月解散した。

原爆投下―その日の広島支店

八月六日朝、広島に投下された原子爆弾は一瞬にして全市を焦土と化した。失われた人命は二十余万人といわれる。大林組支店もこのとき被爆し、支店従業員のうち吉田正、大辻嘉直、牧野研吉の三名が即死し、建築部長猪瀬幸太郎も九月七日死亡した。

当時の広島支店長河合貞一郎の手記は、その状況を次のように伝えている。

当時広島支店は市内平田屋町(現在の本通)にあり、三和銀行の支店跡を譲り受けたもので、鉄筋コンクリート建一部二階付、木造平屋の付属家を含め約八〇坪の建物だった。木造本部は強制疎開でこわされ、本館だけになっていたが、それまでの支店(研屋町所在、木造二階建)が海軍水交社(将校集会所)に徴発されたため、移転して間もない時であった。

支店は筆者のほか総務部長藤井信三、建築部長猪瀬幸太郎、土木部長藤井秀文らが幹部だったが、相次ぐ現場転属と応召で人員が減少し、当時は臨時採用の女子職員を含めて十数名にすぎなかった。

戦況はいよいよ切迫し、広島支店管内でも軍施設工事のみで、岩国市外装束の燃料廠、大竹の海兵団、潜水学校、光市の海軍工廠、山口県曽根の人間魚雷発信基地などであった。また唯一の民間工事として長府の神戸製鋼所があったが、これらの一部はすでに爆撃を受けて壊滅し、または資材、労力の関係で工事続行不能となり、もっぱら地下待避工場などの横穴掘りに没頭していた。

学童疎開ののち、市民は都市防備要員として転出を許されず、物資は底をついて、ことに陸軍の物資調達を任務とする暁部隊が駐屯して以来、近郊から大根一本もちこんでさえ見張りの衛兵に没収された。人々は日夜の空襲警報におびえつつ、竹槍訓練に追われる暗い毎日であった。

八月六日朝、自転車で自宅を出た筆者は、八時少し前に支店に着いたが、支店員はまだ出勤していなかったので、宿直者から前夜の報告を受け、当面の要件だけ伝言してそのまま外出した。広島西郊の廿日市へ行くためであった。支店事務所をそこに疎開し、合わせて支店員家族の食糧自給のため、イモ畑を開くことになっていたからである。廿日市では谷間にある寺の土地を借り、木造平屋建事務所を建築する予定で、この日、地鎮祭を行なうことになっていた。

市内電車で己斐へ行くべく支店を出て、紙屋町停留所で満員電車にとび乗った。うしろ向きに車掌台に立っていたが、筆者のうしろには二重三重の人垣があった。いまにして思えば爆心地、商工会議所のドーム下を爆撃十分ほど前に通過したことになる。

そこから一・五キロほど離れた天満町にさしかかったとき、突然目もくらむ閃光を感じ、バッという轟音がした。背中をつきとばすような圧力と、後頭部に熱砂をうちかけられたような痛みを感じた。電車は急停車し乗客は将棋だおしにたおれた。天地はまっくらになり、なまぐさい嘔吐をもよおすような異様な臭気がした。

なにかわからなかったが夢中で電車を降り、走った。後頭部がうずくので手をやってみると、戦闘帽とワイシャツの間の露出した毛髪が焼け、耳のうしろは一面の火傷である。紺の上着は、肩からかけた雑嚢の紐の跡だけ残して、背中は焼け抜けていたが、白ワイシャツにさえぎられて肌は無事だった。腕時計の針は八時十五分でとまっていた。

つづいて八月九日、長崎にも原爆が投下された。ここでも、三菱重工業の建設工事に従事していた桜木弘、小倉義秋、武知秀信の三従業員が即死し、被爆した工事主任武藤寅也は、九月三日に死亡した。

二回の原子爆弾投下と、八月八日に行なわれたソ連の対日宣戦布告は、わが国にこれ以上の戦争継続を不可能ならしめた。ポツダム宣言受諾の詔書は天皇御自身のラジオ放送によって八月十五日に公表され、太平洋戦争は終わり、第二次世界大戦も幕をとじた。

十一月、取締役会長白杉嘉明三は、任期満了とともにふたたび相談役にしりぞき、社長大林芳郎は翌十二月復員して任についた。

終戦当時の大林組従業員総数は、役員以下三二八八名であるが、その半数に近い休職者一五二三名は、ほとんど応召、応徴のための休職であった。満洲大林組の場合も総員三五三名中、休職者は七三名であった。両社をつうじ戦死、戦病死者は三〇九名、未帰還で死亡と推定された者は四一名、また内地の戦災による死亡者は九名であった。

昭和20年8月6日―ヒロシマ
平田屋町(現・本通)から東方をみる―左・大林組広島支店,右・安田銀行広島支店
(8月7日撮影・広島安田写真館)
昭和20年8月6日―ヒロシマ
平田屋町(現・本通)から東方をみる―左・大林組広島支店,右・安田銀行広島支店
(8月7日撮影・広島安田写真館)
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