第三節 黄金の六〇年代 1
設備投資ラッシュ―建設に集中
昭和三十三年(一九五八)の「ナベ底不況」は同年後半から急速に回復し、翌三十四年には神武景気を越える「岩戸景気」を迎えた。この年の国民総生産は前年度比実質一六%増、鉱工業生産は二九%増を示したにもかかわらず、物価は安定し、国際収支も改善された。これは世界経済の安定にささえられたこともあるが、わが国経済力の充実を語るものでもあった。この成長はさらに翌三十五年(一九六〇)までつづき、かつてない繁栄のなかに六〇年代を迎えたことによって、「黄金の六〇年代」ということばが生まれた。
昭和三十五年度の経済成長は、年初の見とおし六・六%を大きく上まわり、一一%に達した。設備投資が予想を五割も越えたことが主要な原因であるが、金融政策が成功し、景気に対して予防的にはたらき、在庫投資を減少させながら設備投資の増加を可能とし、安定的な成長を実現したものであった。建設省の推計によれば、この年の建設工事量は二兆円の大台を突破し、対前年比三〇%強の増となり、二兆三七八〇億円に達した。このうち元請施工高は、土木が七五九〇億円であるのに対し、建築は一兆七七九億円で、建築の伸びがいちじるしい。また、公共、民間別にみると、公共七七八五億円に対し、民間は一兆五八八億円であった。
この数字は、この時期の民間設備投資の主流が建築であったことを示している。それまで技術革新や経営合理化の面に向けられていた設備投資は建設投資に集中し、企業の中枢組織である本社ビルの新築、設備更新にともなう新工場の建設などが相次いで行なわれた。特に製鉄、自動車、電気機器、合成繊維等の産業部門は、技術革新による生産力の拡大で国際競争力が強化され、輸出によって飛躍的に業績を発展させ、同時に国内でも国民所得の向上にともなう消費の増大の恩恵をこうむり、さらに繁栄をかさねた。
この時代、大林組が施工したこの分野における主要建築を以下にあげる。
- 製鉄―八幡製鐵戸畑転炉工場、同第二転炉工場、日本鋼管川崎製鉄所中径管工場、同水江製鉄所冷間圧延工場、同熱間圧延工場、同鶴見製鉄所大径熔接管工場、川崎製鐵千葉製鉄所冷間圧延工場、新三菱重工明石工場、神戸製鋼所灘浜工場第三分塊工場、東海製鐵冷間圧延工場
- 自動車―トヨタ自動車元町工場組立塗装工場、同ボディプレス工場、日産自動車第二本工場、同追浜工場、いすゞ自動車藤沢工場、ダイハツ工業池田第二工場
- 電気機器―日本電気玉川事業所第四十工場、同研究所、同第四十一工場、同五十一工場、松下通信工業本社工場、松下電子工業高槻CRT工場、明電舎沼津工場
- 繊維―三菱アセテート富山工場、東洋レーヨン三島工場紡糸工場、同後処理工場、同岡崎工場製糸工場、帝国人造絹絲松山工場テトロン工場、三菱ボンネル広島工場、倉敷紡績安城工場、旭化成富士工場、倉敷レイヨン岡山工場FO工場
以上は好況を敏感に反映し、急速な成長をとげた産業の例であるが、巨視的にみても、わが国経済は全般的にこれと歩調を合わせつつあった。朝鮮戦争を契機として立ち直った日本は、ときに不況の谷間をくぐっても、経済全体は上昇をつづけ、神武景気や岩戸景気はそのピークを示すものであった。産業の高度成長にともない、商業、サービス部門の発展も目ざましく、この分野における建設投資も大きく伸長した。そしてビル建築の巨大化がこのころからはじまり、建設技術の進歩と相まって、急テンポですすめられた。第三章第二節の一項、「ビル建築の近代化」であげたものにつづく代表的な工事は以下のとおりである。
新大阪ビル 〈第一期 昭和三十一年九月~同三十三年四月/第二期 昭和三十六年四月~同三十九年三月〉
大阪の中心、御堂筋と南北線(四ツ橋線)にはさまれ、堂島川の水面に美しい姿をうつしている。大阪建物株式会社の発注で、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階(第一期分は二階)、地上九階、塔屋四階で第一期工事完成当時でも西日本における最大のビルといわれていたが、増築後の延面積は八万二一七〇平方メートルとなった。設計は芸術院会員村野藤吾氏で、川をへだてて対岸からみる効果を意図し、ホリゾンタルラインを強調した白亜のオフィスビルである。屋上に約三〇〇〇平方メートルの庭園を設け、樹木五〇〇〇本余を植えたのは、大阪市の緑化運動に協力したもので、当時は全国に類がなかった。
第一期工事の際、地下水の排水にウエルポイント工法を用いたが、これは関西最初のことであり、鋼製足場を使ったのもこの工事が最初である。第二期工事には大林組が開発した無音無振動のOWS工法をはじめて使用した。OWS工法については、のちに大林組技術研究所の項で詳細にのべる。請負金総額は三五億七一〇〇万円、工事総主任は第一期が谷一郎、第二期は苅郷実である。
三菱商事ビル 〈昭和三十一年十二月~同三十三年十月〉
東は丸ビル、北は郵船ビルに隣接し、濠をへだてて皇居に面する文字どおり丸ノ内ビジネスセンターの中央にある。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋三階で、総面積は四万九七〇九平方メートル。この工事では、工期を短縮するため「ゼロからスタート」とよぶ新方式を採用した。これは設計を進行しつつ施工する方式で、これまでの建築常識にないものであったが、それには設計監理者との緊密なチームワークと、工程表の厳守を必要とした。このビルには、三菱商事、三菱海運の各本社と三菱系各企業のショールームがおかれ、ほかにパンアメリカン航空のオフィスもある。工事総主任は石建嘉一郎、請負金額は一三億八〇〇〇万円である。
大阪新歌舞伎座 〈昭和三十二年十一月~同三十三年十月〉
千土地興業株式会社の発注で、御堂筋に面した南区難波新地に建てられた。これも設計は村野藤吾氏で、桃山風をあしらった和風の古典様式、三六個の唐破風、勾欄、何層にもめぐる庇や千鳥破風の大屋根に、いちじるしい特色がある。工期一年のうち、地上の旧建物や地下埋設物の撤去、さく泉などに要する期間をのぞくと、本工事の工期は約九カ月半しかなかったが、開場期日は定まっていて、工期には一日の遅延もゆるされなかった。そのため工事に従事するものは、食後の休みさえとらず、連日ビタミン剤を注射して作業を強行したという。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、屋根は銅板で、地下二階、地上五階、延面積は一万一〇八八平方メートルである。工事主任は永井義徳、請負金は五億六二二九万円であった。
四天王寺五重塔(再建) 〈昭和三十二年七月~同三十四年四月〉
四天王寺は推古天皇の元年(五九三)、聖徳太子の創建と伝えられるが、その後たびたび兵火に焼かれ、そのつど再建の歴史を重ねてきた。近くは昭和九年(一九三四)九月の室戸台風のため倒壊し、さらに同二十年(一九四五)三月には米軍の空襲によって焼失した。今回の再建は数えて八回目に当たるが、藤島亥治郎、村田治郎、棚橋 諒、藤原義一ら四博士が設計に参加、可能なかぎり創建当時の原形を復元し、同時に永久に伝えるため、鉄骨鉄筋コンクリート造とされた。
伽藍の中心となる五重塔は三十四年四月完成したが、地盤から宝珠までの高さは三八・五メートル、相輪の高さはその三分の一におよび、この比例は醍醐寺五重塔以外には類をみない。その後、金堂(施工・金剛組)、中門、講堂重門(東西)、廻廊の順で工事が進められ、三十八年五月、全伽藍の復興をみた。落慶法要は同三十八年十月十五日、高松宮ならびに同妃殿下をお迎えして盛大に行なわれた。各建物の外部はすべてコンクリート打放しで、木部に相当する部分は丹、壁は白の塩化ビニール塗装で仕上げられている。洋風建築にのみに用いられていたコンクリート打放しが、木造木組みをあらわしてこれほど複雑きわまる形に使われたことは他に例がなく、この工法における技術の極致を示すものと評された。工事主任は溝口政夫、請負金額は一億四八二万円である。
日本生命保険相互会社本社 〈南館 昭和三十二年七月~同三十四年四月/本館 同三十五年一月~同三十八年七月/東館 同四十年四月~同四十二年三月〉
日本生命本社は明治三十五年(一九〇二)東区今橋四丁目に建てられた。徳川時代、大阪文教の中心として江戸の昌平校とならび称された懐徳堂の跡地である。その後都市計画により御堂筋が建設されるに当たって、赤煉瓦貼り七階建の一号館を大林組が施工、昭和五年(一九三〇)末に完成したが、さらに昭和十三年(一九三八)には新館が新築された。これも大林組の施工で、引きつづき第二期工事が行なわれるはずであったが、太平洋戦争の勃発によって中止された。
南館はこの一号館と道路をへだてて接し、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋三階、延面積は一万六六八五平方メートル。平面計画は、居室の有効比を高度にするため隣地境界側の中心部にコアを設け、三方の道路に面する部分に事務室が配された。また窓面積をできるだけ小さくし、エアタイト型サッシュとペアグラスが全面的に使用されたことは、騒音を防止するとともに外観に品格を与えている。これらの点が高く評価され昭和三十五年(一九六〇)に設定された建築業協会賞(BCS賞)の第一回受賞作品にえらばれた。
南館の竣工につづき、道路をへだてて本館が改築された。両者は外観もほぼ統一され、高架道路ならびに地下通路で連絡されているが、地下鉄淀屋橋駅、京阪電車淀屋橋駅に連絡する通路も設けられた。本館の延面積は二万八五五〇平方メートル、間口は今橋通の一ブロックを占め、淀屋橋付近を圧する偉観を示している。大阪のビジネスセンターの中心地の工事であり、場所がら激しい車の往来のため資材の搬出入に苦しめられ、また三万立方尺(八三三立方メートル)におよぶ外装花崗石の品ぞろえにも苦心しなければならなかった。
東館は、本館と道路をへだてて相対し、地下三階(鉄筋コンクリート造)、地上七階、塔屋三階(鉄骨鉄筋コンクリート造)、延面積は二万三一五八平方メートルである。外壁は西、南、北の三方がショックベトンのストーンカーテンウォール、東がセラスキン吹付で、サッシュはブロンズ発色のアルミ合金、ガラスは吸熱複層が使われている。この工事では地下工事にOWS工法を用いた。工事総主任は南館と本館が宮崎茂雄、東館は大崎憲一で、請負金の総額は三五億二〇〇〇万円である。
野村證券ビル新館 〈昭和三十二年三月~同三十四年五月〉
旧館は昭和五年(一九三〇)三月、大林組の施工で、地下一階、地上七階の鉄骨鉄筋コンクリート造として建てられた。新館はこれに隣接し、日本橋川に沿った横長の敷地に建設され、地下四階、地上八階、塔屋二階の同構造で、延面積は一万九一七四平方メートルである。設計は旧館と同じく安井建築設計事務所で、旧館との調和に慎重な配慮がなされている。場所は日本橋通一丁目一番地、東海道五十三次の起点に当たる東京の中心地であり、一面が川であるため工事には多くの困難をともなった。一二ブロックのニューマチックウォールケーソンを沈設し、これを土留に利用してオープンカットし、中央部に深礎基礎工法によるピア二〇本を構築して鉄骨建方にうつったが、土一升金一升といわれる土地柄で、敷地面積一七五〇平方メートルのなかにあって鉄骨の建方、鉸鋲、型枠、コンクリート打設、土砂搬出、ケーソン仮壁の撤去等を安全迅速に行なうことは容易でなかった。ケーソン工事実施中も、コンプレッサーの機械音、沈設作業中の信号音や排気音を最少限とするため、敷地中央の地下にコンプレッサー室を構築し、函内外に信号用インターフォン、ブザーを設け、また排気音を減殺するため消音器も用いた。それほど意を用いたにもかかわらず、付近の居住者から騒音について苦情が続出し、やむなく夜間工事を中止して工期を延長せざるを得なかった。建設工事にともなう騒音が公害として社会的に問題化したのはこのころからである。しかし、竣工に当たって同社奥村綱雄会長は、施工の結果に満足の意を表し、厚く関係者をねぎらうとともに、証券会社ビルとして世界一である、と誇られた。工事総主任は田中久雄、請負金額は一一億七〇〇〇万円である。
住友金属工業和歌山製鉄所 製鋼工場その他 〈昭和三十三年十二月~同四十六年〉
住友金属工業と大林組の関係は、同社が住友伸銅所と称した大正時代にはじまり、和歌山製鉄所開設当初も、平炉工場、第一工場等の建設に当たった。戦時中、同所の建設現場を借りて近畿土木建築統制組合が建築工養成所を設けたとき、宝来佐市郎以下大林組職員が指導に当たったことは第二編でのべたが、戦後受注した工事は、昭和三十三年(一九五八)末の製鋼工場建家が最初で、以後引きつづき土木、建築の両面にわたり、多数の工事に従事している。
そのうち最大のものは、昭和三十六年十一月特命された転炉工場(請負金一四億五〇〇〇万円)で、鉄骨造および鉄筋コンクリート造、平家建一部地上六階、総面積は二万九〇〇平方メートルで、この新鋭転炉工場は同三十八年一月竣工している。これに次ぐものとしては、鉄骨造、平家建、総面積一万二〇〇平方メートルの第二転炉工場があるが、請負金は一二億三五〇〇万円を越え、昭和四十一年(一九六六)一月着工、翌四十二年九月竣工した。同所の工事はほとんど休みなく継続し、この間に焼結設備、鋳型棟、鋳型ヤード、送風発電所等を施工、また昭和四十五年二月から同四十六年一月にかけて第二製鋼連続鋳造設備を建設した。
これらにともなう土木工事も数多く、昭和三十六年(一九六一)二月から翌三十七年十一月までの第二岸壁延長工事をはじめ、護岸工事、Cバース、Eバースの築造や、工場機械基礎工事等を行なった。また同社の傍系会社海南鋼管の第一製管工場増築、熱間圧延工場新築等に当たったが、工事事務所長は、戦後再開以来昭和四十四年まで建築が今井邦夫、その後は玉井恒清で、土木は小田貞良である。
住友金属工業については、このほか鹿島製鉄所の基幹施設、尼崎鋼管製造所、小倉製鉄所等でも、土木建築の各種工事を行なっている。
日比谷電電ビル(日比谷電電総合建物) 〈昭和三十四年四月~同三十六年一月〉
公共建物株式会社の発注により、道路をへだてて日比谷公園に相対する千代田区内幸町一丁目に建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上九階、塔屋二階、延面積は八万平方メートルに近く、当時、東京における代表的な巨大ビルとされた。
外装は一階壁面の一部が鉄平石の小口貼り、他はコンクリート打放しであるが、三階床までは鉄筋用コンクリート、三階床から最上階までは軽量コンクリートが用いられた。外観の特色は水平に長く伸びたバルコニーの横の線と、一階周囲をめぐるアーケードの列柱にある。このバルコニーは、日照をコントロールするとともに、外部の騒音の緩衝帯をなし、また一種の防火壁の役割をも果たし、非常の際の避難路になっている。
この建物は、事務所建築として要求される複雑な機能的条件を高度に満たし、意匠の上でもことさら新奇をてらわず、しかも清新で洗練されたものとして、第三回(昭和三十七年)BCS賞を受賞、設計者国方秀男氏には建築学会賞が与えられた。ビルは公共建物株式会社と電気通信共済会が区分所有し、一階から六階までは日本電信電話公社、七階から上は東京芝浦電気株式会社本社が使用している。工事総主任は石田慶一、請負金額は一八億七〇〇〇万円である。
東海銀行本店 〈昭和三十四年四月~同三十六年三月〉
名古屋市中区栄町二丁目に新築されたが、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上八階、塔屋三階で、総面積は三万七〇〇〇平方メートル、銀行専用の建物としては全国一といわれた。しかし、それは単に大きさのみでなく、設備その他の点でも同様であった。ここでは米国風のテーラーシステムが採用され、一階の営業室は接客を主とする空間としてあつかわれ、大ホテルのロビーの感がある。営業の事務部門は大半二階におかれ、大型エスカレーターで連絡されていることも他に例がない。機械設備も完備し、全館のエアシューターは二〇〇〇回路におよんでいる。
着工五カ月目の九月二十六日夜、東海地方は台風十五号(伊勢湾台風)に襲われ、死者五〇〇〇余、被害家屋五七万戸におよぶ大損害をうけた。当時現場は敷付けの段階であったが、名古屋全市が停電し、市民が暗黒のなかに不安におののいているとき、この現場だけは自家発電で明るく輝き、たけり狂う風雨に抗して防護につとめる作業員の姿が浮き出し、それが市民の心のささえとなったことが翌日の新聞に大きく報道された。工事総主任は若田久作、請負金額は一二億九〇〇〇万円である。
この東海銀行本店ビルには、第三回BCS賞が与えられたが、選評でとくに施工の誠実さが認められた。昭和三十七年度BCS賞受賞建築のうち大林組の施工したものは、前記の日比谷電電ビル、この東海銀行本店に加えて大和文華館があり、受賞一〇点のうち三つを占めた。大和文華館は近畿日本鉄道の発注で、奈良市菅原町に建てられ、吉田五十八氏設計により昭和三十四年七月着工、翌三十五年十月竣工したユニークな美術館である。
興銀ビル 〈昭和三十四年七月~同三十六年七月〉
大阪御堂筋に面した東区高麗橋五丁目にあり、日本興業銀行の傍系会社興和不動産の発注によるものである。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋三階、総面積は二万九四五四平方メートルで、二階から四階までは興業銀行大阪支店、五階以上は興銀系列の諸会社が使用している。
このビルでは一階がピロティとして歩道と駐車場に開放されているが、将来の交通事情を見とおした適切な計画として評判になった。この工事に当たり、騒音防止のために、鉄骨のジョイントにはハイテンションボルト締めを行なったが、関西においてこの工法を本格的に採用した最初である。また仮設材のバタも従来の杉松材に代えて鋼材を用い、そのために型枠との緊結金物を開発して、はじめて大規模な鋼材バタ角使用に成功した。設計は山下寿郎設計事務所で、昭和三十八年(一九六三)の第四回BCS賞を受賞した。工事総主任は七海実、請負金額は一七億三二五〇万円である。なおこの工事に引きつづき隣地に別館を施工、同三十九年九月完成、さらに昭和四十六年(一九七一)には本館屋上の増築をも行なった。
電力ビル 〈昭和三十四年三月~同三十五年八月〉
東日本興業会社の発注で、東北電力本社の全機構を収容するために建てられたが、同時にホテル、劇場、ショールーム、貸事務室、貸店舗を包含する多目的総合ビルである。仙台市の幹線青葉通とクロスする東二番丁に面し、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上九階、塔屋三階、総面積は約四万平方メートルのマンモスビルで、当時東北地方最大といわれた。
この工事では、地盤が仙台地方特有の軟岩であるため、市街地ではあったが根切工事には発破をかけ、削岩機を使用、工期を急がれたのでブルドーザ、パワーショベルを駆使して作業は昼夜兼行で行なわれた。コンクリート工事にそなえ三十三年末から名取川で骨材採取を開始し、仙台駅付近の旧製紙工場跡にバッチャープラントを設置したが、ここから七台の新鋭ミキサ車が走りはじめたとき、仙台市民は驚異の目を見はったといわれる。
工事はきわめて順調に進み、予定より一カ月早く竣工をみた。七、八、九階を占める「グランドホテル仙台」は、客室七六、大食堂、宴会場、結婚式場などもある。八階ラウンジのタイル化粧壁は、新しい感覚のデザインとして話題となった。劇場「電力ホール」も同じく七、八、九階にあり、収容人員は補助席を含め一三八〇名である。ステージ下に奈落を設ける余地がないので、回わり舞台の代わりに、わが国では珍らしいスライディングステージが設備されている。残響付加の音響装置は、東北大学二村教授の指導によるものであるが、世界に例がないといわれる。請負金は一七億四四〇〇万円、工事総主任は高屋猛であった。
太陽生命保険相互会社本社 〈第一期 昭和三十五年一月~同三十七年二月/第二期 昭和三十七年四月~同四十年三月〉
所在地は東京都中央区日本橋江戸橋二ノ八。第一期工事はそれまでの旧館を昭和通まで増築し、第二期工事はその旧館を改築して面目を一新したものである。基礎には深礎工法が採用された。根切り深さは一五メートル、構造は鉄筋コンクリート造、いずれも地下三階、地上九階、塔屋二階で、第二期工事の完成により延面積は合計約二万八〇〇〇平方メートルとなった。設計は大林組、内装は内外木材工業が担当した。外装内装とも白を基調とした清新な意匠で、外装柱型には東京芸大前田建二郎氏の案によるステンレス・タイルが使用された。工事主任は西田嘉成、請負金は総額一三億八〇〇〇万円余である。
朝日麦酒東京大森工場 〈昭和三十五年十月~同三十七年五月〉
年ごとに急増するビールの需要を満たすため、東京都大田区大森入新井に建築された新工場で、同社の東日本における最大の拠点となった。これまでのビール工場の配置計画はすべて平面的であったのに対し、この工場では施設配置の立体化が考えられ、立体工場の形式がとられているが、これは同社山本為三郎社長の英断によるものであった。
このころビール業界の競争は激化し、大手会社各社はいずれも新工場の建設に着手して着々戦備をととのえつつあった。この東京大森工場は昭和三十七年三月から仕込みを開始する予定で計画されたが、約一年間の短時日に鉄骨鉄筋コンクリート造、地上七階、一部地下一階、延面積三万八八〇〇平方メートルの新工場を建設することはほとんど不可能と考えられた。しかしこれは会社の運命にかかわる問題であったから、至上命令として超突貫工事に突入したが、折りからオリンピック関連工事が開始され、労務者不足の難問題に直面した。下請も東京だけでは間に合わず、遠く仙台あたりからも動員し、大森海岸に土地を購入して宿舎七棟を新設し、各職を罐づめにして昼夜交代の作業を強行した。コンクリート作業にしても、場内に設けたバッチャープラントと生コンを併用し、型枠も二段打ちを実施するなど、採算を度外視した非常手段をとり、仕込棟、貯蔵棟、製品棟を含む主工場は計画どおり三月に完成し、仕込みが開始された。このほか、既設の鉄骨鉄筋コンクリート造A一号倉庫(地上二階、一部地下一階)の増改築、A二号倉庫(地下一階、地上四階、塔屋三階)の新築等も行ない、同年五月全工事を終了した。工事総主任は高屋猛、請負金額二六億八五七万円である。
日本生命日比谷ビル・日生劇場 〈昭和三十四年七月~同三十八年九月〉
東京日本生命館は、昭和八年(一九三三)一月、大林組の施工で日本橋に建てられ、大部分を髙島屋百貨店が使用し、一部に日本生命東京支社がおかれた。百貨店部分は戦後大きく増築されたが、日本生命では事業の発展にともない同社のオフィス部分が狭隘を告げたので、千代田区有楽町に東京総局オフィス用として計画されたのがこの日生日比谷ビルである。道路をへだてて西は日比谷公園、南は帝国ホテルと相対し、東は東宝劇場、北は三井本社ビルに隣接する。
建設に当たり、同社社長弘世 現氏は、これを単なる自社専用ビルとせず、同社創業七十年を記念して文化施設を兼ねたものとすることを意図し、そのためオフィス部分は西側の二階から七階までと八階の一部とし、東側に劇場、七階には国際会議に使用する大会議室を計画された。また、一階の大半はピロティーとして一般に開放されているが、これは都市づくりに寄与するビル建設の新しいありかたとして注目された。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下五階、地上八階、塔屋三階、延面積は四万三八四〇平方メートル、設計は村野藤吾氏、設計顧問今井兼次氏、構造設計内藤多仲氏で、村野氏は準備のため数回海外を視察した。
日生劇場は、計画の発表と同時に関係者の間ではもちろん、一般でも大きな話題となった。演出家浅利慶太、作家石原慎太郎、東急社長五島昇諸氏の提案を弘世社長がいれたもので、運営もこの人々に一任された。収容人員は一三四〇名、座席には三カ国語同時通訳のイヤホンがあり、舞台機構は大小五台のセリと、SCR調光ユニット一五〇組の照明設備がある。これらの設備は、わが国はもとより世界にも比類がないといわれる。また会議室にも、発言を同時に五カ国語に翻訳する装置が設けられた。
建設工事は、まず日本生命日比谷支店の旧建物と、地下に埋まっている江戸城濠の石垣撤去からはじまった。ところが石垣の石は現在の皇居の濠までつづいていて、これを撤去したところ、裏込めの玉石や砂利の部分が水みちとなり、濠の水が流入した。そのため、モルタルを注入して、遮水作業を行なったが、これに約三カ月を要した。また敷地は軟弱な地盤で、帝国ホテルとの間の道路下には地下鉄丸ノ内線が通っていた。地下鉄の基礎下端はビルの根切り底より浅い位置にあり、掘削によって地下鉄に影響を与えるおそれがあったので、ケーソン工事を行なうに際して、周囲のケーソンと地下鉄の間にはさらに鉄矢板を打ちこみ工事の万全を期した。
劇場の施工には、発注者および設計者の意図にそうため、一般の劇場施工にはみられない細心の注意が払われている。壁面および天井面が全部曲面であるため、一〇分の一の模型をつくって実測し、曲面の壁については高さ五〇センチごとに切った平面図と、横の間隔五〇センチごとの縦断面図を作成したうえで施工にうつした。天井の装飾に用いたカッパシェル(あこや貝の薄片)は、接着剤を使用し、現場で一枚ずつ手で貼りつけたものである。また、伊勢湾台風の教訓に学び、各入口にはスチールの防潮板を設け、地下階の各室のドアは水密とするなど、万全の防潮対策を実施した建物であることも特記しなければならない。工事総主任は清浦直明、請負金額は三四億五二九万円である。
新住友ビルディング 〈昭和三十四年九月~同三十七年六月〉
大阪の中心、東区北浜五丁目、住友ビルの東に隣接し、北は土佐堀川に面している。住友化学工業、住友重機械工業、住友金属工業、住友電気工業、住友商事、住友信託銀行の各本社、住友金属鉱山、住友石炭鉱業、住友海上火災保険、住友不動産、日本電気の各支社、合計一一社がオフィスをおく住友グループの総本拠である。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上一二階、塔屋三階、軒高四五メートル、建築面積五七七五平方メートル、延面積は九万二七〇平方メートルにおよび、西日本における最大のマンモスビルである。
建物の四隅はイタリア産大理石の柱で、それを横にむすぶ窓の線と窓サッシュの軽快な縦線がたくみに調和され、明るさのなかに重量感を表現している。隣接する住友ビル(昭和五年完成、大林組施工)も大阪を代表する建築とされてきたが、新旧の差はあっても、品位と壮重さの点は同じで、二つのビルが並ぶ姿は三十余年の大阪の建築史を象徴するかのようにみえる。
平面計画にはコアタイプが採用され、階段、エレベータ等の共用部分はコア内に集中させてあるが、この建物を共同で使用する各社の事情を考慮し、各部屋の大きさ、使いかた、維持管理のやりかたなどに徹底した統一が行なわれ、建物全体としての整一感が強く打出されている。一般事務室の間仕切りは可動式であるが、各階とも高さは三・六六メートルとし、一・五五×一・五五メートルの平面ユニットから出発し、柱割はその整数倍の六・二〇×九・三〇メートルとなっている。移動間仕切りもこの規格により、ユニットの整数倍に仕切られ、空気調整、照明等の設備も、すべてこの基本方針によってつらぬかれ、これはわが国ビル建築に新生面を開いたものといわれている。また内装、外装に総量三六三・五トンにおよぶアルミニュームが使用された。建材としてのアルミ多用は近来の流行であるが、これほど多量に用いられたビルはそれまでになかった。第五回(一九六四年度)のBCS賞を受賞したが、工事総主任は畠山隆三郎、請負金額は四〇億七六〇〇万円である。
大阪神ビル 〈昭和三十六年十一月~同三十八年六月〉
「大阪梅田一番地」で有名な阪神百貨店の阪神ビルは、昭和十二年(一九三七)二月、大林組の施工で建設に着手したが、間もなく戦時体制にはいり、計画の変更を余儀なくされた。地下二階、地上四階を完成した時点で工事を中断し、同十六年四月ひとまず開業したが、このときの建築面積は東端部八五〇坪(二八〇五平方メートル)で、予定面積の三分の一にすぎなかった。戦後これを拡張するため、昭和三十一年四月から同三十三年三月にかけて増築工事を行ない、四階を八階としたが、この工事はそれをさらに大増築して、阪神電鉄の当初の予定を実現したものである。
構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下五階、地上十一階、塔屋三階で、延面積は既設部分を合わせ九万七一一八平方メートルに達した。地下工事にはニューマチック ウォールケーソンや、ダウンワーズ コンストラクション等の工法を用い、鉄骨建方にはコアシステムによる大タワークレーンの採用などが行なわれた。大阪神ビルは阪神百貨店のほかオフィスやショールームをも収容する多目的ビルとして建設された。したがって、営業時間、勤務時間がそれぞれことなる入居者の共存という点に苦心が払われたが、特に空調設備では複雑な使用目的、使用時間に適合するよう画期的な試みに成功した。それは当時最新式とされたワンマンコントロール方式をさらに進めた全自動のプログラムコントロール方式を開発したことである。この開発は設備部長高橋誠義を中心に行なわれ、のちに他のビル工事にもひろく採用された。これに対して昭和三十九年度の建築学会賞を授与され、さらに同四十年には毎日新聞社毎日工業技術奨励賞が与えられた。工事請負金は四〇億九一〇〇万円、工事総主任は当初は二井内利彦、二井内が病気でたおれたあと阪下昇が担任した。
このほか、この当時の主要工事として、香川県庁舎、倉敷市庁舎、青森県庁舎、東銀ビル、千代田電々ビル、大阪国際貿易センター、武蔵野音大コンサートホール、航空技術研究所遷音速風洞、大阪市中央体育館、熊本城天守閣、東洋レーヨン三島工場、同岡崎工場、日本電気玉川事業所、松下通信工業本社工場、国鉄川崎火力発電所、中国電力坂発電所、国鉄熊本駅、大阪証券会館などがある。大阪証券会館は、昭和三十九年、第十一回大阪府建築コンクールの大阪府知事賞を受賞した。
また、テレビ時代の到来にともない、NHK東京放送会館新館、同第二新館、札幌放送会館、大阪放送会館新館、ラジオ東京(現・TBS)テレビ放送局増築などの諸工事を次々と施工した。