第三節 ビル建築時代の開幕
人材重用―新知識の吸収に海外留学、欧米視察
明治維新以来国策とした「富国強兵」によって、わが国は日清、日露の二大戦争に勝ち、いままた第一次世界大戦を機として急速に近代資本主義国家に成長をとげた。大林組の成長は、形の上でも時期においてもこれと軌を一にしている。芳五郎個人の力量で固められた大林組の基礎は、彼を継ぐ者により、このとき株式会社に発展している。もし芳五郎が在世したと仮定しても、おそらく彼もまた組織による事業の運営に移行したであろう。
したがってこの近代化は必然のなりゆきであったといえるが、この重大な転機に当たり主軸をなしたのが、伊藤のあとを受けた賢四郎と白杉の両常務取締役であったことは、その後の大林組発展の方向を定める大きな要因となった。わが国建設業界は、折りからビル建築時代の開幕を迎えており、これに必要な知識を身につけた賢四郎は、組織における最高の技術的頭脳であった。また大林組の隆盛と大林家の繁栄を同義語とみる白杉の無私の忠誠心は、その多年の経験、すぐれた職業的感覚とともに、組織にとってだけでなく、大林家にとっても欠くべからざる存在であった。白杉はよく三井家の三野村利左衛門、住友家の広瀬宰平にたとえられるが、国勢協会刊行「大阪財界人物史」はこの時代の彼を劉備における孔明に比し、以下のようにのべている。
出師の表を読んで泣かざるものは武士ならずといえり。一世を通じその忠誠あたかも出師の表を読むがごときの人、美風その地を払うの今日それ誰人なるや。いわく白杉亀造その人なり。さきに大林組先代大林芳五郎中道にて逝くや、遺孤現社長義雄氏を輔け、ついに今日の隆盛をいたす。その間の苦心おそらく筆舌のよく尽くし能わざるものあるべく、その一貫せる純真の気魄諸葛亮を連想する過言たらざるなり。
芳五郎がつくった人材重用、技術者尊重の伝統は、賢四郎と白杉によって引き継がれ、新時代にふさわしい陣容がととのえられていた。この二人を軸とし、動輪の役割りを果たした第一線幹部は以下の人々で、いずれも当時業界で屈指の人物であった。
まず技術者では岡技師長のもとに、土木では安井豊、高橋誠一、海老政一、久保弥太郎、建築には富田義敬、鈴木甫、加藤芳太郎、伊藤順太郎、小原孝平、石田信夫、指田孝太郎、吉井長七、伊藤牧太郎、本田登、萩真太郎、谷口廉児、渡部圭吾、中根亀一、機械関係には大西源次郎、材料方面では三宅勘太郎、また事務系統では支配人小倉保治のもとに宮村市郎平、中島茂義、芳賀静也、妹尾一夫、米田竹松、角谷甚太郎らがいた。
海外技術については、賢四郎と親交のあるニューヨークの松井保生建築事務所をつうじ新知識の吸収につとめていたが、大正八年(一九一九)十一月、高橋、本田をアメリカに派遣した。彼らは一年半余にわたり、フラー建築会社の現場について研修をとげたが、これが技術者の海外留学のはじめである。ついで翌大正九年四月、社長義雄が建築部長松本禹象とともに渡米、さらに欧州各地を視察し、同十年(一九二一)八月には賢四郎が四か月にわたりアメリカ各地を巡遊した。いずれもこのころ急速におこったビル建築の要請にこたえるための準備であった。
大戦終了後も、戦後景気は一年余にわたってつづき、各種企業は勃興して建築業界も隆盛をきわめた。大林組の大正八年の請負金総額は、前年比六〇%増の一〇〇〇万円に近く、空前の営業成績をおさめた。これに対して工事件数は前年より二〇%減じているが、それは工事の規模が大型化したためで、ビル建築時代の開幕を示すものであった。維新後わずか半世紀の間に、驚異的な工業化、資本主義化をとげた日本は、都市建築の面でも欧米先進国に近づこうとしていたのである。この年四月、道路法、都市計画法、市街地建築物法の関連三法が公布された。
戦後恐慌にたえ業界の代表的地位を確立
株式会社設立により体制をととのえた大林組は、このときすでに業界の代表的地位を確立していた。社長義雄は大正八年、二十五歳の若さをもって建築業協会理事に推され、さらに日本土木建築請負業者連合会の副会長に就任した。前者は建築を主とする大手業者団体、後者は各府県の業者団体の統合機関で、全国建設協会の前身である。産業の発展にともない、その基盤をなす建設業界では、業者の社会的地位の向上をはかり、業界内部の諸問題を処理するこの種機関の果たす役割りは大きくなっていたが、大林組はこの面でも指導的立場をもとめられていた。
しかしながら、戦火による欧州経済界の混乱をよそに、わが国のみにブームが永続することは許されなかった。大正九年(一九二〇)三月、空前といわれる大恐慌が日本に波及し、大阪の増田ビルブローカー銀行の破綻をはじめ、横浜の茂木商店などの一流商社が没落した。四月以降四カ月間に取付けにあった銀行は、本店六七、支店一〇二、休業したものは二一におよんだ。この混乱の影響により、建設業界も既定工事の中止や工事費の回収遅延など多くの困難に直面したが、大林組はよくその打撃にたえ、この年の受注総額は一三〇〇万円を越えた。
建築新時代の到来に際し、アメリカのフラー建築会社が日本に進出して、アメリカ式工法の実際を示したのは記録さるべきことであった。東京丸ノ内の丸ビル、日本郵船ビル、日本石油有楽ビルなどはいずれも同社の施工であるが、これは日本の業界に大きな刺激を与えた。機械力を極度に利用し、厳密な工程表にもとづく工事管理の方式は、工事能率において従来に数倍するといわれた。また、このときの請負契約は実費精算報酬加算方式で、物価変動に悩まされた当時の業者にとって一つの救いとも考えられた。
大林組も大正十年五月、日本信託銀行本店工事にこの契約方式を採用し、そのあとつづいて日本興業銀行本店、大阪ビル(大ビル)工事も同様の契約であった。しかしこの方式は請負というよりは委任契約というべきもので、日本の慣行になじまなかったため、その後わが国の業界ではあまり行なわれなかったが、これによって見積り内容が詳細になるなど、建築業の近代化に影響するところは大きかった。
戦後恐慌のあとを受けてこの年(大正十年)も不況はつづき、紡績業の操業短縮、労働争議など社会不安はあったが、物価は次第に安定の方向に向かった。これにともない、それまで見送られ、くり延べられていた工事が順次着手され、その多くは大型の近代建築であった。また都市計画にもとづく公共工事も開始され、業界はしだいに活況を呈してきた。大林組はこの年六月、一株につき七円五〇銭、総額三〇万円の株式払込みを行ない、払込済資本金は一五〇万円となった。営業成績も好調で、請負金総額は一六〇〇万円を越え、前年に比べ二五%の増加を示した。
なお同月、かねて西区千島町六番地(現・大正区)に新築中の製材部工場が完成し、南境川町の旧工場から移転した(大正十一年、大林組工作所と改称)。また工事現場を中心に各地においた出張所のうち、神戸、名古屋を常設とし、これで二支店、二出張所となった。
不況は慢性化―建設業界にも余波
慢性化した戦後不況は翌十一年(一九二二)にはその極に達した。金融は逼迫して各種産業はふるわず、建設業界もその余波をこうむって倒産者が相次いだ。株式会社大林組は三月、一株につき一二円五〇銭、総額五〇万円の第三回払込みを行ない、資本金二〇〇万円の全額払込済とした。しかし、この年の受注工事高は前年比で約一八%の減少を示し、十月決算においては、株主配当を創立以来の年二割から一割五分に落とさざるを得なかった。
株式会社大林組設立の前後からこの時期にいたるまでの完成工事は数多いが、そのおもなものは次のとおりである。
- 公共―国勢院庁舎、福井県庁舎、福岡市庁舎、九州帝大農学部教室、大阪高等学校本館、第四師団、第十五師団、第十二師団各兵舎、鉄道院(現・国鉄)鹿児島駅、若松駅、同吹田工場、同東京市街線高架工事
- 民間―髙島屋飯田合名大阪支店、住友銀行川口(大阪)支店、大阪商船神戸支店、大阪毎日新聞社、大阪松竹座、東京秀英舎第三工場、日本海上保険本社、日本興業銀行本店、東京電気(現・東芝)川崎工場、大津紡績工場、日本楽器浜松工場、東洋製鉄戸畑工場、十五銀行福岡支店
日本郵船大阪支店は大正五年(一九一六)七月着工、同七年十一月完成して、現在も西区川口町に当時の姿をとどめているが、大林組が施工した本格的美術建築の最初である。それまでにも北浜銀行、百三十銀行などの美術建築はあったが、規模においてこれと比較できるほどのものではなかった。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地上三階、地下一階で、総延坪は一〇〇〇坪(三三〇〇平方メートル)余である。外装は花崗岩と貼り煉瓦で、内部は漆喰塗りに壁紙を貼り、天井は一部に彫刻をほどこし、床には寄せ木を用いるなど善美をきわめた。現場主任には大林賢四郎が当たった。竣工に際しては、発注者とは別に、大林組として独自に各方面の名士を招待し盛大な披露を行なった。
この当時多くの美術建築を手がけたが、大阪毎日新聞社本社(大正十一年竣工)、大阪松竹座(同十二年竣工)はともに現存し、この時代の代表的建築とされている。松竹座は大林組設計施工した最初の洋風劇場建築であると同時に、観客席に柱のない劇場として関西における最初のものでもあった。この外装に用いたテラコッタは、賢四郎が渡米したとき、自身で図面を携えて注文し製作させたものである。
また大正十一年(一九二二)完成した神戸の大阪商船支店(大阪商船三井船舶支店として現存)も、内部の左官仕上げを、従来の漆喰塗りに代えアメリカからブラスターを輸入して用いた。設計者渡辺節氏の案によるものであるが、これが日本におけるプラスター使用のはじまりである。
このようにしてビル建築時代の開幕は、外国、ことにアメリカの強い影響下に開始された。このころ大林組では最高幹部や技術者の海外視察、留学が相次いで行なわれ、新知識の吸収に努力した。この新知識をもとめてやまない研鑚と努力が、のちに業界第一位の座を占める飛躍的発展の要因をなしたのであるが、その推進者は賢四郎であった。