第三節 高く 巨大に デラックスに―
施工の省力化、部材のプレハブ化―ふえてきたJV工事
大型景気の進展とともに各種建築物の新築は激増したが、建築基準法の改正によって、すでにみられた高層化、巨大化の傾向がいちじるしくなった。超高層ビルは、普及したといえないまでも、一〇階、一五階の建物は一般化し、外装、内装ともデラックスとなり、設備工事も高度化した。高速エレベータ、エスカレータが広く採用され、自動ドアは珍しくなくなり、空調設備のない新築ビルはみられなくなった。地域冷房も、万国博会場で試みられたのを機として、大阪瓦斯が千里ニュータウンで本格的にこれを実施し、わが国におけるこの種施設の先駆をなした。
企業の発展にともない、中枢機構の拡充をせまられて、多くのオフィスビルが新築あるいは増改築された。これによって東京の丸ノ内、大阪の御堂筋その他、欧米大都市のビル街に比すべき美観が生まれた。
また大型電算機の普及により、耐震、耐湿等に対する特殊設備を要請されるようになり、北海道拓殖銀行の事務センター、三井銀行事務センター、北陸銀行コンピューターセンターなど、そのための専用建物も建設された。
高層集合住宅も、公団、公社等による庶民用のもののほか、マンション、コーポラス、ヴィラなどとよばれる高級住宅が増加した。これらはデラックスな外観、空調設備、エレベータ、ガレージ等を完備し、従来のアパートメントハウスの観念を変えるものであった。またレジャー産業が勃興し、アミューズメントセンター、ショッピングセンターが各地に出現した。都市や観光地にはホテルが続出したが、この傾向は万国博の開催によって拍車をかけられた。その多くは数百の客室をもつマンモスホテルであり、大食堂や宴会場は豪華をきわめ、プール、ボウリング場などの娯楽施設をそなえるのが普通となった。国民所得の向上とともに進学率が増加し、大学その他の学校が新増築されたことや、医療施設の充実のため大病院の建設が相次いだことも当時みられたいちじるしい現象である。
またこのころ、社会資本の充実をはかるため、都市再開発や交通関係事業に官民合同の方式をとる政策が進められた。その主役をなしたものは土木工事であるが、建築にもこれが反映し、新しい分野が開かれた。前編でのべたごとく、都市再開発については横浜駅西口、東京池袋周辺において大林組は先駆的役割を果たしたが、当時の計画はいずれもそこをターミナルとする私鉄が中心であった。これに対し、新しい市街地再開発は地方自治体が民間の協力をもとめ、政府支援のもとにこれを行なう方式がとられるようになり、大林組も千葉県船橋市駅前その他を施工した。
都市再開発に関連して、「流通業務市街地の整備に関する法律」が昭和四十一年(一九六六)七月制定された。これは従来都心に集中した卸売市場、倉庫等を周辺部に分散させ、交通上の隘路を打開するとともに、跡地の整備を行なうためのもので、東京都大田区平和島に設けられた京浜二区流通団地、流通センター等はその代表的な施設である。大林組はこの流通センタービル、これに関連する京浜トラックターミナル、東京板橋トラックターミナル、東大阪トラックターミナル等、この種工事にも進出した。大阪船場センタービルもその一つであるが、これは屋上を高速自動車道路として使用する新しい形式の建造物といえる。またコンピューター等の利用による無人化倉庫、いわゆるラックビルの建設もはじまった。このほかこの時期に急増した交通関係の公共的工事には、空港ターミナルビルの建設や空港整備、フェリー、コンテナ埠頭建設などがあげられる。
以上にみるごとく、この時代の建築は建物が高層化、デラックス化し、設備も高度化したことのほか、これまでにない新分野が開かれた。しかしこれと同時に、工費の低減と工期の短縮がいよいよ切実な問題となり、建設業者は部材のプレハブ化、設備のユニット化、新工法の開発等、あらゆる手段によって生産性の向上につとめ、この要請にこたえねばならなかった。昭和四十五年(一九七〇)に開かれた万国博会場建設工事において、事前に憂慮されたのは労務者の不足であったが、これをことなく解決し得た理由の一つには、作業の徹底的な省力化があげられる。また工事の大型化、高度化にともない、工事費も巨額化するなどの事情を生じ、ジョイントベンチャーによる施工が多くなったのも、この時代の特色であった。
なお、昭和四十三年(一九六八)十一月、わが国建築技術の粋をつくした皇居新宮殿が、四年半の歳月をついやして完成したことは、四十年代の建築史を大きく飾るものとして特記されなければならない。以下に、この時期に行なった代表的工事をあげる。
独協学園独協大学〈昭和三十八年十一月~同四十四年八月〉
戦後、六三制教育の実施にともない、全国に多数の新制大学が開設されたが、校舎その他の学園施設については、ほとんど旧来のものがそのまま転用された。国民所得の上昇と進学率の向上につれ、学生の数がふえるとともに収容力が不足し、各大学とも施設の拡張を要するようになり、また、新規に開設する学校も相次ぎ、そのために学校建築が盛んになったが、これが顕著にあらわれたのは昭和三十七年(一九六二)ころからである。当時、大林組が従事した学校関係工事は全国で数十にのぼるが、ここではその一つとして、長期にわたり全キャンパスを施工した学校法人独協学園の独協大学工事についてのべる。
この大学は元文相天野貞祐博士が、独自の教育理念によって創立したもので、昭和三十九年四月開設された。所在地は埼玉県草加市、構内面積は六万五〇〇〇平方メートル、第一期工事は本部棟および第一教養課程棟新築で、構造はともに鉄筋コンクリート造、本部棟は地上四階、第一教養課程棟は地上二階、総面積は七六四七平方メートルである。開校を目の前にひかえ、しかも厳寒中の工事であったため、コンクリート打設には電熱線を用いて凍結を防止しながら工事を進めた。つづいて第二期は、昭和三十九年八月から同四十年六月まで、専門課程棟、教養課程棟(いずれも鉄筋コンクリート造、地上四階)、体育館(鉄骨造、平家)総面積一万四〇〇〇平方メートル、第三期工事は昭和四十年八月から同四十二年三月まで、第二専門課程棟、第三教養課程棟(いずれも鉄筋コンクリート造、地上四階)、総面積一万二五〇〇平方メートルを施工した。
以上は主工事であるが、その後昭和四十一年から同四十四年にかけて、食堂棟、女子学生修練棟総合施設、図書館棟、保健室その他学園施設全部を施工した。全工事をつうじて工事事務所長は渡部健一、請負金総額は二五億四〇〇〇万円である。
また同学園が栃木県壬生町に医科大学を開設するに当たり、一二万平方メートルの敷地造成と全施設の施工を受注し、昭和四十六年(一九七一)十月着工した。施設は鉄筋コンクリート造、地上三階、塔屋一階の校舎棟、同地上四階の看護婦学校学生寮棟、同地上六階の看護婦寄宿舎棟で、延面積の合計は一万五五〇〇平方メートルに達する。建物の竣工は昭和四十七年七月、敷地造成完成の予定は同四十八年三月とされ、工事事務所長は渋木昭一である。
このほか全国で行なった学校建築を都道府県別にあげると以下のごとくである。
- 北海道―札幌光星学園校舎、北海道大学薬学部製薬化学科実験研究室、同薬学部実験研究室
- 青森県―弘前大学医学部実験室、同研究室、同増築
- 宮城県―仙台育英学園本館、同体育館、東北鉄道学園本館、同実習棟
- 埼玉県―埼玉大学工学部機械および電気工学科実験室、同研究室、同工学部教育学部実験室、同研究室、同理工学部実験室、同研究室、城西大学本館、同体育館、城西歯科大学校舎、芝浦工業大学校舎
- 東京都―文京学園追分校舎、法政大学小金井校舎、同第二教室棟、同実験棟、青山学院記念館、同中等部校舎、同講堂、武蔵野音楽大学五号館、同第二期、同記念館、同九号館、桑沢学園東京造形大学、同第二期、東京医科歯科大学医用器材研究所、東京電力東電学園高等部教室棟、同本部棟、同地中線実習館、東洋文化学園高等学校、東京大学工学部一一号館、東京音楽大学付属高等学校、聖心女子学院高等科校舎、中央大学小川町学生会館、創価大学
- 神奈川県―横浜市立大学校舎、同図書館、同学生ホール、慶応義塾大学日吉第六校舎
- 静岡県―静岡大学一般教養校舎
- 愛知県―名古屋大学古川図書館、同工学部強放射能特別実験室
- 新潟県―新潟ノートルダム清心女子学園校舎
- 福井県―福井大学教育学部校舎、同一般教養校舎
- 京都府―ノートルダム女子大学校舎、同志社大学新至誠館、京都工芸繊維大学繊維学部校舎
- 大阪府―樟蔭女子大学校舎、同高等学校校舎、同体育館、四天王寺学園女子短期大学校舎、大阪大学産業科学研究所、近畿大学クラブハウス、同体育館
- 兵庫県―洲本実業高等学校校舎、甲南女子大学校舎、同女子高等学校校舎、同中学校校舎、神戸海星女子学院大学校舎、同高等学校校舎、同中学校校舎、芦屋学園大学校舎、同女子学園体育館
- 鳥取県―鳥取大学一般教養校舎、同学芸学部校舎
- 岡山県―岡山ノートルダム清心女子学園高等学校校舎、同中学校校舎、同寄宿舎、同修道院、同図書館、同教授研究室、同体育館
- 広島県―広島大学水畜産学部実験室、広島ノートルダム清心女子学園校舎、同体育館
- 山口県―県立光高等学校校舎
- 愛媛県―四国電気通信学園校舎、新田学園体育館
- 福岡県―九州大学教養部本館、福岡海星女子学院校舎、同幼稚舎校舎、西南女学院短期大学校舎、同中学校校舎、福岡雙葉学園講堂、同体育館
- 熊本県―銀杏学園短期大学校舎
またこの時代は、産業界の各分野で従業員の研修再教育を行なう傾向が強くなった。これら企業の研修施設についても、東京電力、九州電力、松下電器産業、大阪瓦斯、三和銀行、日本生命、電通その他、全国各地で多数の工事を施工した。
横浜市立大学医学部付属病院〈昭和四十一年一月~同四十二年十一月〉
医療の進歩に即応し、近代的設備を完備した大病院が続々建設されたのも、この時代のいちじるしい特色であるが、ここには一例として横浜市大病院をあげる。
所在地は横浜市南区浦舟町の繁華街、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、規模は地下二階、地上一二階、塔屋三階、総面積は二万三八〇〇平方メートルである。空調、換気、給排水、衛生等の諸設備には特に完璧を期した。この請負金は二五億五八〇〇万円であるが、さらに昭和四十五年三月、第二新館新築に着手し、同四十七年三月竣工の予定で進行している。請負金は一五億七三〇〇万円、工事事務所長は平井邦芳である。
これに次ぐ工事としては、大阪市大淀区の大阪回生病院(昭和四十一年十一月竣工、請負金一一億八〇〇〇万円)と、東京都品川区の電々公社関東逓信病院第二診療棟(昭和四十七年三月竣工予定、請負金一三億七〇〇万円)がある。ともに鉄骨鉄筋コンクリート造で、前者は八階建、後者は七階建の高層病院である。
このほか大学病院では、東京大学、大阪大学、岡山大学、弘前大学、徳島大学等の医学部付属病院、国立病院では熱海、大村、奈良各病院と国立療養所梅森光風園(愛知県)、公立では香川県中央病院、市立芦屋病院(兵庫県)、三田市民病院(同)、市立札幌病院、同伝染病院、日本赤十字社病院では山口、名古屋、静岡、石巻の各病院を、いずれも昭和三十年代末期から同四十年代前半にかけて施工した。その他、住友、大同製鋼、石川島芝浦機械等、企業が経営する病院、医療法人の病院なども全国にわたって数多く建設している。
船橋駅前再開発〈昭和四十一年四月~同四十五年五月〉
千葉県船橋は、京葉工業地帯の勃興とともに漁村から都市に変貌したが、同時に国鉄および京成、東武両私鉄によって東京のベッドタウンともなった。この急速な都市化により、市内道路の混雑ははなはだしく、ことに鉄道三線の集中する船橋駅付近は危険な交通状態におちいった。そこで市当局は昭和四十年(一九六五)、駅南口前にあった工事の移転を機として市街地再開発に着手した。これは工場跡地六六〇〇平方メートルを駅前広場として整備し、その地下にショッピングセンターと駐車場を設け、市の玄関を飾るビルを建設するもので、まず同四十一年四月、駅前ビル工事が開始された。発注は地元の湯浅商店であるが、テナントは西武百貨店で、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上八階、塔屋三階、総面積は二万六五〇〇平方メートル、船橋市内最大のビルである。工期は一期、二期に分かれ、一期は昭和四十二年九月、二期は同四十五年十月竣工したが、一期工事中に別館のボウリング場も施工した。この地区は海岸に近く、土質が細砂で、地下三メートルが常水面となるため、地下二階の建設工事は不可能視されていたが、OWS工法の採用によってこれを可能とした。この成功がその後の工事獲得につながり、引きつづき地下街ショッピングセンターを受注することとなった。
地下街工事は船橋市街地改造公社の発注で、地下一階は商店街、同二階を駐車場とし、総面積は六六〇〇平方メートル、昭和四十一年九月着工して同四十二年九月完成した。翌四十三年一月、広場に面して船橋東洋ビルの新築に着手、同年十二月に竣工した。鉄筋コンクリート造、地下一階、地上七階、塔屋一階、総面積四二三四平方メートル、発注者は東洋不動産で、完成後三和銀行支店となった。また駅からはやや離れるが、本町二丁目に本町セントラルビルを建設した。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上九階、塔屋二階、総面積は五〇〇〇平方メートルである。これも船橋市街地改造公社の発注により昭和四十四年(一九六九)七月着工、翌四十五年五月竣工して、松屋百貨店が使用した。以上の諸工事にはすべてOWS工法が採用された。工事事務所長は中藪久一で、請負金は駅前ビルが二〇億四三〇〇万円、地下街が七億円、東洋ビルが三億一三六〇万円、本町セントラルビルは四億六六〇〇万円、合計三五億二二六〇万円に達した。
また同種工事では、大阪駅前市街地改造事業として昭和四十年五月着工、同四十五年四月竣工した大阪駅前第一ビルをはじめ、昭和四十三年九月、大阪府下の阪急茨木市駅前地区改造工事も行なった。これは万国博開催に当たり、会場に連絡するバス発着施設のために駅前周辺を整備したもので、同四十五年(一九七〇)四月竣工した。
川崎製鐵水島製鉄所厚板工場〈昭和四十一年三月~同四十三年五月〉
岡山県水島港は、昭和三十五年(一九六〇)重要港湾に、同三十八年には新産業都市に指定され、製鉄と石油コンビナートの臨海工業地帯となった。このコンビナートの中心をなす川崎製鐵水島製鉄所の建設では、昭和三十九年九月の小型線材工場の新設をはじめ各種工事に従事してきたが、昭和四十一年に発注された厚板工場および大型条鋼工場は請負金二六億七七〇〇万円を越える大規模工事であった。
厚板工場は鉄骨造平家建、面積二万六三〇〇平方メートル、大型条鋼工場は鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造二階建で、総面積は三万五五〇〇平方メートル、いずれも建家内全面に大型の製鉄機械基礎が深く構築されることになっていたが、工期の関係から、これらの基礎工事と並行して建家の鉄骨建方を行なった。このため大形トラッククレーンを用い、建家の外側から大部分の鉄骨建方を施工し、基礎工事の進行に支障を与えない方策を講じた。また両工場ともクレーンガントリーガーダーが多く、なかには長さ四五メートル、梁せい四メートル、重量七五トンにおよぶ巨大なものもあり、その建てこみ作業には容易ならぬ苦心があった。工事事務所長は鳥越弘である。
川崎製鐵の工事としては、この工事とほぼ並行して昭和四十二年十一月、同社千葉製鉄所構内の技術研究所新築に着工した。研究棟、R-棟、放射能分析棟、事務棟(以上鉄筋コンクリート造)、実験棟、構造物試験棟、厚生棟(以上鉄骨造)の七棟から成り、総面積は二万七七四四平方メートルで、同四十四年三月竣工した。工事事務所長は山本信雄、請負金は九億二五〇〇万円である。
新霞ガ関電話局〈昭和四十一年七月~同四十四年十一月〉
新霞ガ関電話局の敷地は、丸ノ内内幸町の電々公社本社ビルと霞ガ関電話局現局舎にはさまれ、周囲を東電、第二大蔵ビル、大和生命、勧銀によってかこまれている。そこに鉄骨鉄筋軽量コンクリート造一〇階建、地下は鉄筋コンクリート造三階、軒高五二メートルの新局舎が建設されることになった。着工に先立ち、まずガス、水道等の地下埋設物処理を行なったが、地下一階の中央を縦断する部分に東京電力日比谷変電所につうじる大洞道があった。これは幅二メートル、高さ三・五メートルの洞道で、なかには八万ボルトの高圧線が収容されていて撤去することは不可能であった。そこで、これを抱きこんだまま施工したが、現場が極度の軟弱地盤であるため、その安定支持には最高の注意をはらい、常時沈下異動計器による監視をつづけねばならなかった。
工事はまず敷地外周にOWS壁を構築し、逆打ち工法によって一階の床版を作業床として、これを足がかりに地下一階の床版を打設し、東電洞道をセットしたのち切梁工法による掘削を行ない、騒音、振動や地盤沈下を防止したが、このような立地条件下においては、OWS工法なくしては考えられない難工事であった。局舎の総面積は一万六六〇〇平方メートルで、市内電話交換施設と電力室が主体であるが、五階および六階にはデータ通信用のコンピューター施設、六階の一部から九階にかけて中央統計所の電子計算センターが収容されている。請負金は一五億四六五〇万円、工事事務所長は村井博である。
電源開発高砂火力発電所〈一号機 昭和四十一年八月~同四十三年六月/二号機 昭和四十二年一月~同四十四年四月〉
兵庫県高砂市伊保町に建設されたこの発電所は出力五〇万キロワット、急増する京阪神、播磨工業地帯の需要に対応するために新設された発電所であるが、同時に政府の石炭産業育成計画の一端をなすものであった。敷地造成の関係で、着工は予定より約二カ月遅れたが、石炭消費計画その他の事情により運転開始はかえって繰上げられたため、標準工程を四、五カ月短縮するよう要請された。そこで工事は突貫作業となったが、一、二号機本館の並行施工、機械据付業者との上下積重ね作業を行なうなどしてこの要請にこたえた。しかもその間、電源開発の全国安全競争で二回にわたり優勝し、同社藤波総裁から賞状と優勝旗を授与されている。
一号機本館、二号機本館はいずれも鉄骨造、一部鉄筋コンクリート造一〇階建、延面積は一号機本館が一万二六七七平方メートル、二号機本館は一万二八六九平方メートル、外壁は耐酸被覆鋼板、屋根は軽量コンクリートである。このほか鉄筋コンクリート造三階建のサービスビル(延面積一四五一平方メートル)とともに、高さ一一〇メートルおよび一二〇メートルの煙突基礎、集塵装置基礎等の付属工事を施工した。工事事務所長は山本実夫、請負金は一号機本館七億二〇五四万円、二号機本館六億一四五二万円であるが、鉄骨六一六六トンを支給された。
日本銀行本店営業所新館〈増築第一期 昭和四十一年十月~同四十四年九月〉
辰野金吾博士設計の日本銀行本館は明治時代を代表する石造建築として知られるが、その北にある一号館(長野宇平治博士設計)は昭和七年(一九三二)故本田登を総主任として大林組が施工した。増築工事は、この一号館と本館東北に隣接する二号館の一部を解体し、新館の半ばを建設することを第一期として、引きつづいてその第二期工事が進行中である。施工は大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店による共同企業体が当たり、工事事務所長には大林組清水光一が就任した。
構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下五階、地上一〇階、塔屋二階、軒高五〇・一五メートル、総面積は五万七九一平方メートルで、外装は石と金属(サッシュ、シャッター、軒天井)が調和の美をなして、わが国中央銀行にふさわしい偉容をそなえている。工事の特色は地下が深いことで、根切り深さは三一・五メートルにおよび、東京層の底盤に接して耐圧外壁と金庫外壁が設けられた。あらゆる異変にたえねばならない中央銀行の性格上、構造は重剛構造で、建物の重量は一平方メートル当たり四トン、地震力の算定は標準の五割増しとし、風圧も高いところで一平方メートル当たり五〇〇キロとなっている。また階高が高く、基準階は四・三五メートル、営業階は七・二メートルで、地下階は五・二メートル~六・八メートルもある。一期工事の請負金は六〇億三七〇〇万円である。
関西電力美浜原子力発電所〈一号機本館 昭和四十二年二月~同四十五年七月〉
敦賀半島の北端、福井県美浜町丹生に建設されたこの施設は電力会社のものとしては日本最初の原子力発電所である。原子炉はウェスチングハウスの加圧水型軽水炉で、出力は三四万キロワット、この形式もまた日本最初である。コンサルタントはアメリカのギルバート社、日本側機器メーカーは三菱グループで、土木工事は前田建設と熊谷組が分担したが、建築工事いっさいは大林組に特命された。
「万国博に原子の灯を」を標語として、工事は「エキスポ'70」を目ざして進められたが、監理者がアメリカ人であること、設計図面の遅れ、責任分担の錯雑など、諸事情がすべて建築工事にしわよせされ、一時は工程が予定より十カ月も遅延したほどであったが、指定期日どおり昭和四十五年七月完成した。検査はきわめて厳重であったが、突貫作業にもかかわらず施工は優秀と評され、監理者を満足させた。鉄筋コンクリート造、地上三階、総面積二七三〇平方メートルの原子力ボイラー室、鉄筋コンクリート造、地上三階、地下二階、総面積七五三〇平方メートルの原子力ボイラー補機室、鉄骨造、地上三階、総面積八四三〇平方メートルのタービン室等の竣工後、特高開閉所その他関連諸施設の建設にも従事した。この一号機は八月八日初送電を行なった。
なおこの工事と並行して、昭和四十三年八月、二号機本館工事に着工、同四十五年夏には主体工事を終了した。二号機の出力は五〇万キロワットで、営業運転開始は昭和四十七年六月に予定されている。工事事務所長は安盛寿一、第一号機本館の請負金は一六億七五四〇万円である。
大阪三菱ビル〈昭和四十二年三月~同四十四年八月〉
大阪市北区堂島浜通の大阪三菱ビルは、東は御堂筋、南と堂島川に面する都心の中枢部にあり、三菱銀行、三菱商事の関西における本拠となっている。昭和三十九年(一九六四)建設計画が決定したが、用地は営業不動産部が斡旋したもので施工は特命された。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上一五階、塔屋二階、総面積三万七三六一平方メートル、高さ六七メートルの高層ビルである。三階以上には軽量骨材コンクリートが使用されたが外装は重量材で、四隅と東面バルコニーおよび低層部は稲田花崗石貼り、北、南、東はアルミカーテンウオール、西面はセラストンコンクリートパネル貼りで、建築基準法の容積制適用前の高層建築であったため、外装重量材については技術研究所で事前に慎重な試験をくりかえし、施工の万全を期した。
工事現場は交通量が多く、敷地に余裕のない立地条件であるため、土砂の搬出や資材の搬入が制約され、垂直運搬や高所作業にともなう飛来落下物の危険もあり、安全対策に苦心した。御堂筋において、歩道上構台の設置を許可されたのはこのときが最初である。堂島川に面しているため、地下湧水量も予想を越えて毎分一六トンにおよび、数次にわたって水替設備を変更した。掘削の敷付も容易でなかったが、これを克服できたのはOWS工法の優秀さによるものであった。
内装も三菱グループの関西本拠にふさわしく重厚と華麗を兼ねているが、特に豪華なのは銀行の営業室である。一、二階をこれに当て、中央エスカレータ部分を吹抜けとして、天井は練付ベニア、格子型光天井で、大壁にはユーゴスラビア産白大理石が用いられている。工事事務所長は永井義徳、請負金は設備工事別で二二億六九〇〇万円、主要資材は支給された。
一ツ橋総合ビル〈昭和四十二年四月~同四十五年九月〉
一ツ橋総合ビルは、電々公社と住友商事の共同発注により、東京都千代田区一ツ橋一の二、皇居の北側竹橋と、パレスサイドビルと、高速道路によって三方からかこまれる敷地に建設された。地下四階、地上七階、塔屋二階の中層棟と、地下四階、地上一六階、塔屋三階(地下三階以下鉄筋コンクリート造、地下二階と地上一階は鉄骨鉄筋コンクリート造、二階以上は鉄骨造)の高層棟から成り、両棟は地下で一体となり、総面積は七万三〇〇〇平方メートルに達する。中層棟は竹平加入電信局、高層棟は住友商事が使用しているが、公共体と民間企業がこのような形で共存することは、土地の有効利用をはかる上で都市建築に新しい例を開くものである。
高層棟はセンターコア方式をとり、執務空間はこれをとり巻く大部屋としてフレキシブルなものとし、使用材は軽量化、不燃化、規格化された。鉄骨は極厚H型鋼を柱材に、ハニカム鋼を梁材に用いて、部材構成の単純化と工数の低減がはかられている。コア部分にはH型鋼ブレースとダブルH型鋼柱を使用している。この敷地は皇居周辺の美観地区に当たるため、建築高度の関係から高層部の設計が遅れることが必至となったので、その完了期間を考え、中層棟は逆打ち工法を、高層棟には切梁オープンカット工法を採用した。床版は軽量コンクリートをスーパークイズPC一〇〇のポンプ打ちとし、一一階以上は定置式ポンプによって中継二段打ちとした。外装は中層棟がタイル打ちこみのショックベトン、高層棟はアルミカーテンウォール仕上げである。内装もプレハブ化され、モジュールは三・二メートル、照明、空調、スプリンクラーはセットとして配置されている。このビルは昭和四十七年度、第一三回BCS賞作品にえらばれた。工事事務所長は高屋猛、請負金は五五億二六〇万円である。
メゾン甲子園〈昭和四十二年四月~同四十三年七月〉
阪神間の中央、武庫川の清流に近いメゾン甲子園は、住友商事が建設した高級高層分譲アパートである。鉄筋コンクリート造、地上七階、塔屋一階の南北二棟から成り、総面積は二万二〇〇〇平方メートル余、戸数は一五三である。南棟、北棟の間には樹木と花壇を配した共同庭園を設け、ほかに一階の各戸にはそれぞれ一〇〇平方メートル以上の専用庭園がある。冷暖房、給湯の設備はもとより、停電用の自家発電装置や玄関ホールと各室をむすぶインターホンなど、あらゆる施設が完備し、エレベータは七基、建物内の駐車場と別棟ガレージには自動車一〇二台を収容できる。外装はしぶい色調の磁器窯変モザイクタイル貼りである。工事事務所長は岡本博介、請負金は一二億四三〇〇万円である。
このほか当時施工した同種建築をあげると、関西では野村不動産のコープ芦屋、日綿実業の御影グランドハイツ、京阪神不動産の夙川アンビロン、明和商事の西宮明和マンション等、関東では三井不動産の原宿パークマンション、住友商事の西船橋ハイム、日本開発の神宮前コーポラス、住友不動産の三田ハウス、青山日生ハイツ等がある。
八幡製鐵君津製鉄所コークス炉〈昭和四十二年五月~同四十四年七月〉
八幡製鐵君津製鉄所は、京葉工業地帯の重要な一環をなし、千葉県木更津市に隣接する用地面積一〇〇〇万平方メートルの埋立地にある。粗鋼年産一〇〇〇万トンを目標として建設されたが、第一期計画は高炉二基による五〇〇万トンで、これに要するコークス工場を設計施工とも受注した。コークス炉の建設については、すでに大阪ガスの西島、北港、堺の各工場、日本鋼管福山および川崎工場、川崎製鐵千葉工場等の経験があり、施工には十分の自信をもって当たった。
築造物は八八門の炉室をもつコークス炉三基をユニットとし、これに付帯して粉炭を配合する配合槽、配合炭をストックする装入炭槽三基、消火塔三基、副産物捕集設備基礎、コンベヤ、ガス管支柱基礎等であるが、このコークス炉三基によるコークスの日産は六三〇〇トンに達する。炉体基礎は幅員一六・七メートル、長さ五九三・四メートルで、装入炭槽は下部鉄筋コンクリート造四階建、上部鉄骨造で軒高四三メートル、コンベヤ基礎一一六二メートル、ほかに三槽の沈澱池、ガス排送場、水道、電管路等も施工した。工事事務所長は豊田栄造、請負金は二二億一四三五万円である。
大阪国際空港ターミナルビル〈昭和四十二年七月~同四十四年一月〉
この時代、航空事業の発達は目ざましく、ジェット機の採用、国際線の乗入れ増加等の新情勢によって、永い懸案となっていた伊丹の大阪空港拡張計画がついに実現をみるにいたった。戦前の木造施設に代わり、管制塔を含むターミナルビルの建設、三〇〇〇メートルの滑走路・誘導路の新設、エプロンエリアの整備、貨物ターミナルの建設等が拡張計画の概要である。ターミナルビルは、関西国際空港ビル会社の発注、大林組はその国内線旅客ブロックと付属棟の施工を担当した。
このビルは、年間の旅客取扱い数を国際線六五万人、国内線六〇〇万人と予測し、ワンハーフレベル型式(一階で接車、二階で搭乗)を採用したが、将来は前面道路を二層とし、ツーレベル型式(一階到着、二階出発)に移行することを考慮している。そのため増改築にそなえ、四階レベルの屋根架構を支持する主体と、二、三階レベルの床構を受けもつ副次的な柱を分離した。これは将来高架道路が新設された場合、道路側の吹き抜け部分に独立した構造床を設け、ツーレベル型式に改装するための配慮である。ビルの国内線ブロックは、鉄骨造、地上四階、総面積一万八四七〇平方メートルで、付属棟は同二階、総面積六一一七平方メートルである。工事事務所長は永井藤三郎、請負金は一一億九二四八万円である。このターミナルビルは、昭和四十三年九月竣工した名古屋大林ビル(大林組名古屋支店)とともに、昭和四十五年度の第一一回BCS賞受賞作に選定された。
このほか、同空港の滑走路とエプロン整備にも従事したが、当時施工した空港関係工事としては、全日空大阪第一号格納庫の新築および増築、宇部空港ターミナルビル建設、松山空港滑走路、同護岸築造等があげられる。
三井銀行事務センター〈昭和四十二年七月~同四十四年七月〉
三井銀行事務センターは同行の電子計算センターとして建設され、計算機械室、書庫等のほか一部は目黒支店が使用している。敷地は品川区上大崎二丁目、国電目黒駅の直前の放射三号線と権之助坂に接する三角形の地形で、大半が路線商業区域の第六種容積地区に該当した。したがって法規上は大型ビルの建設は不許可とされたが、建物の性格が一般の商業ビルではないこと、周囲に空地を確保し、建蔽率を五七・六%として駅前の混雑緩和をはかることを条件に特別許可を得た。しかし施工に際しては、北にはバス停留所、南には通学路があり、東西面の間に四メートルの高低差があるなど、作業条件はきわめて悪かった。また地盤は渋谷ロームとよばれる不良土質で、降雨時には湿地ブルドーザも稼働せず、掘削は人力にたよらねばならない難工事であった。
規模は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上一〇階、塔屋二階、床面積は一万七八九〇平方メートルである。平面計画ではセントラルコア方式をとり、パイプシャフトと空調機械室を両端において、有効幅九メートルの事務室がコアをかこんでいる。外装はショックベトンのカーテンウォールで、窓は採光に必要な最少限度とされている。これは計算機械室の温度条件によるものであるが、同時に飾りのない近代美を強調する効果をあげている。またこの工事では労働延時間一一四万九六〇六時間の無災害記録を樹立し、労働大臣の優良賞を受賞した。工事事務所長は板垣勇次郎、請負金は一七億八七〇〇万円である。
近鉄上本町ターミナルビル〈第一期―昭和四十三年二月~同四十五年二月〉
大阪上本町の近鉄百貨店上本町店は、近畿日本鉄道が大阪電軌当時の大正十五年(一九二六)、大林組が施工したものであるが、上本町地区の副都心化をはかる近鉄のターミナル整備計画の一環として建てかえられた。鉄骨造および鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上一二階、塔屋四階、高さは最高部六〇・五メートル、総面積は三万七三〇〇平方メートルである。建築工事は大日本土木との共同企業体で行なったが、地下工事はOWSソレタンシュ工法により大林組が単独施工した。
まず、深さ二三メートル、延長二〇七メートルの外壁兼用地下土留壁構築を先行させ、つづいて深礎三五基に着手したが、工区を平面四区に分割し、OWSと深礎を短時日の差で重複進行させた。これは工期の短縮をはかるとともに一日二五万人を越える乗降客と百貨店の客に安全な通路を確保するためで、この工事において最も重視されたのは第三者傷害の絶無を期することであった。直接工事関係者がこれに努力したのはもとよりであるが、近鉄企画室も安全パトロール班を組織して協力し、一体となって事故防止につとめた。これは幸いにして効果をあげ、駅、百貨店の機能を阻害することなく工事を進めることができたが、途中で予定より三カ月の工期短縮を要望された。これは百貨店の全館営業開始を昭和四十四年十一月、レストラン部を同年十二月、全工事の完了を同四十五年二月末という営業政策上の要請であったため、さらに突貫工事を強行してこの要望にこたえた。工事事務所長は黒川正三郎、請負金はOWS工事一億一九〇〇万円、建築工事二五億九二〇〇万円である。
なおこの工事を第一期として、昭和四十六年四月、隣接して新館増築に着手し、第二期工事が進められている。竣工予定は同四十八年六月である。
大同製鋼知多工場新線材工場〈昭和四十三年二月~同四十四年一月〉
特殊鋼業界で首位の座を占める大同製鋼は、戦前からの得意先であり、各地の工場工事を特命されてきたが、この新線材工場もそのひとつである。昭和三十六年(一九六一)十月、同社が名古屋市南部に隣接する臨海工業地帯、知多半島横須賀町(現・東海市)に進出するに際し、植村利一を総主任として製鋼工場を建設して以来、連続的に各種工場が設けられたが、そのほとんどが大林組の施工で、知多工場関係の請負金は一〇〇億円を越えた。
新線材工場は特殊鋼線材の生産を目的とするが、電気機械技術の粋を結集し、特に秒速三五メートルの高能率を誇る仕上げ圧延設備は世界最高とされ、二系列で月産二万五〇〇〇トンに達する。工場の規模は、鉄骨造平家建(一部二階建)、総面積三万七八六〇平方メートルであるが、全長五一五メートルの建家に高低差のはなはだしい機械台が断続的につづき、その間一五メートルごとに建家基礎がある。これを縫って空気、電気、油等のダクトが縦横に交錯して走るため、きわめて複雑な工事となった。また地盤が軟弱で、常水面はGLマイナス三~三・五メートルという湿地帯であるために掘削も難行したが、ウェルポイント工法によってこれを打開した。工事事務所長は花木長作、請負金は一二億八〇八七万円である。
三菱化成工業坂出工場コークス炉〈昭和四十三年五月~同四十九年三月(予定)〉
香川県坂出市の番ノ州工業地帯は、瀬戸内海国立公園の一画に二つの島の間を埋立てて開発され、本州と四国をむすぶ瀬戸大橋とここを通過する計画である。三菱化成工業はこの地帯にコークス工場、ガスタービン火力発電所、原油精製工場、アルミ精煉工場、同加工工場等のコンビナートを建設することとなり、その第一期工事として浚渫工事と並行して着手されたのがこの工事である。
工事は炉体基礎(鉄筋コンクリート造、地上三メートル、地下一・五メートル、面積九一〇平方メートル)二炉団、煙突(鉄筋コンクリート造、地上一〇〇メートル、地下六メートル、上部径四・二メートル)一基、バットレスウォール(鉄筋コンクリート造、地上一五メートル、地下一・五メートル)四カ所、消火塔(鉄筋コンクリート造、地上三五メートル、面積一五八平方メートル)一棟、コールビン(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、面積三五五平方メートル)一棟その他であるが、このコークス炉は六~七メートル炉で、従来のものとくらべ二倍の大きさとなっている。またコールビン(貯炭槽)も二〇〇〇トンの貯炭能力をもち、コンクリート造としてはわが国最大である。
コークス炉工事は土木的要素が強く、関連工事との相互関係に精度を要求される。また打放しコンクリートと直埋め金物によって構成される耐熱構造体であるから、曲りやふくらみは手直しができない。施工に当たってはこれらの条件を考慮し、基礎工事の段階から工事管理の正確を期した。
工期は三基に分かたれ、第一期工事は昭和四十五年三月完成したが、番ノ州工業地帯の安全モデル工場に指定されたため、重量物の取りこみや高所作業には特に留意し、完全に無事故、無災害を達成して労働基準局長賞を授与された。つづいて同四十六年十月第二期工事を終わったが、この工期中にアルミ電極工場をも施工し、現在第三期工事が進行中である。請負金は第一期、第二期と追加工事、電極工場工事を合わせて一八億八五〇〇万円であるが、最終的には二八億八八〇〇万円に達する予定で、工事事務所長は全期をつうじて田所英幸である。
帝国ホテル新本館〈昭和四十三年三月~同四十五年二月〉
明治二十三年(一八九〇)、わが国を代表するホテルとして建てられた日比谷の帝国ホテルは、大正九年(一九二〇)焼失し、米人ライトの設計により赤煉瓦と大谷石を用いて新築されたユニークな本館は国際的にも親しまれてきた。この建物は関東大震災、第二次大戦下の空襲にも被害を受けなかったが、三階建で客室数が少なく、また老朽化したことにより、大量輸送時代の要請にそぐわなくなった。そこで旧建物をとりこわし、万国博開催を目ざして新本館を建設したのであるが、名建築として文化財保存の見地から反対する声も強かった。そのため、正面玄関部分を愛知県の明治村に移築して残すこととし、またバーの入口に旧館の大谷石を用いるなどして、設計者ライトのおもかげをしのばせている。
新本館は低層部が地下二階、地上四階(一部五階)、高層部は地下三階、地上一七階、塔屋二階で、高層部の地上高は六一メートル、総面積は一二万一八三三平方メートルに達する。構造は低層部の地下一、二階は鉄筋コンクリート造、地上一~三階を鉄骨鉄筋コンクリート造とし、高層部は地下三階が鉄筋コンクリート造、地下二階~地上三階は鉄骨鉄筋コンクリート造、四階以上は鉄骨造である。施工に当たって、地盤が軟弱であること、周囲を日生劇場、東宝劇場その他大ビルでかこまれた立地条件や、地下鉄および重要地下埋設物の多いことなどから、地下工事に際し重要部分にはOWS工法が採用された。客室数は九〇〇であるが、戦後新築した別館と合わせると総計一四〇〇室のマンモスホテルとなった。
外装は自然発色のアルミカーテンウォールで、低層部の外壁にはインド産のサンドストーン五五〇〇個が用いられている。内装は豪華をきわめているが、防火設備には特に留意され、客室ごとに煙感知機、スプリンクラーをそなえ、階段わきには強制排煙装置がある。また耐震の安全度は関東大震災の三倍まで、風圧は秒速一〇〇メートルに耐えられる。設計は高橋建築事務所、施工は大林組、鹿島建設、清水建設三社による共同企業体が当たった。なお、帝国ホテル新本館は昭和四十六年、第一二回BCS賞を受賞した。大林組の工事担当者は寺師優、請負金は一一二億三〇〇〇万円である。
このころ、観光ブームにともなって各地にホテル建設が相次いだが、万国博の開催はこれに拍車をかけた。当時大林組が行なったこの種工事は、昭和四十四年から翌四十五年にかけて竣工したもののみでも、京都グランドホテル、同オリエンタルホテル、同都ホテル ガーデンウィング、大阪東洋ホテル、宝塚ホテル第二新館、大阪コクサイホテル、志摩観光ホテル増築、法華倶楽部福岡店等があるが、以下に東洋ホテルと京都グランドホテルについて略記する。
東洋ホテル〈昭和四十三年三月~同四十四年十月〉
東洋ホテルは、淀川の南、大阪市大淀区中津に建設されたビジネスホテルである。万国博の開催をひかえ、これを目標に工事は進められた。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上一六階、塔屋三階、総面積三万四三六三平方メートル、設計も大林組で、内外装とも過剰な装飾をはぶき、打放しボンタイル仕上げの格調高い清楚な外観である。OWS工法とパイルコラム工法を併用し、地下階、地上階を同時に施工して工期の短縮をはかった。客室数は六六三で一〇〇〇人を収容し、宴会場も大小数種あり、地下一階では地下鉄御堂筋線の中津駅に連絡している。請負金は四三億六〇〇万円、工事事務所長は橋爪謙介である。
京都グランドホテル〈昭和四十三年六月~同四十四年十月〉
京都グランドホテルは新大阪ホテルチェーンの一つで、国鉄京都駅から徒歩で五分、下京区東堀川にある。これも大林組の設計で、近代的な感覚のうちに古都の味わいを生かした意匠、清水焼きを思わせる青磁色タイル貼りの外装である。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上一〇階、塔屋三階、総面積は二万八〇〇〇平方メートルである。客室数は四三〇室、ガーデンラウンジからは窓越しに日本庭園をのぞみ、大宴会場の壁面には豪華なつづれ織を用いるなど、京都らしい雰囲気をつくる配慮がされている。塔屋には回転レストランが設けられ、眼下に東西両本願寺の塔や楼閣、遠くは東山、北山、西山を一望する。またボウリング場、プール、サウナバスなど、これまでのホテルにないリゾートホテルとしての設備がとり入れられている。請負金は三三億円、工事事務所長は岡部勝典である。
丸善石油中央研究所・商品研究所〈昭和四十三年六月~同四十四年四月〉
石油化学産業は早くも外国技術に依存する段階を脱し、自主開発の時代を迎えた。丸善石油中央研究所・商品研究所は、利根川に近い埼玉県幸手町権現堂に設けられた。建物は鉄筋コンクリート造二階建の中央研究棟、商品研究棟、事務棟、図書室・食堂棟、機器分析棟と、鉄骨平家建の特殊実験棟、エンジニアリング棟その他十数棟であるが、ほかに独身寮、クラブハウスなど総面積一万三〇〇〇平方メートルを施工した。外装はコンクリート打放し、砕石入りモルタルつつき仕上げである。また厚生施設として、テニスコート、野球場、サッカーグラウンドその他の工事にも当たった。工事事務所長は阪上晴夫、請負金は一六億三〇五七万円である。
船場センタービル七号館〈昭和四十三年六月~同四十五年二月〉
大阪市内を東西に貫通する幹線道路、築港深江線の建設にともなって船場の繊維問屋街の一部が撤去されることになったが、東区船場中央一丁目から五丁目間、東西一キロにわたる高架道路下の空間を利用して一〇棟のビルが建設されることになり、大林組はその第七号館の施工に当たった。ビル全体の規模は、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造の地下二階、地上二~四階、総面積一六万七二〇〇平方メートルにおよび、屋上は築港深江線と阪神高速道路東大阪線になっている。南北に走る道路と交差するため、各棟の間は分離しているが、地下および地上二階以上の各階は通路によって連絡され、一つのビルとしての機能をもつ特殊構造である。
地下一、二階は飲食店、地上一、二階は繊維関係の店舗を収容し、地上三、四階は事務所となっている。一号館の地下一階および四~八号館の地下二階は問屋の荷さばき場で、地下、地上に設けられた駐車場は五〇〇台の収容力がある。また地下二階では地下鉄の堺筋線および御堂筋線、地下三階では同中央線と連絡し、道路、ビル、地下鉄駅が一体となる構造である。このビルは交通混雑を予想される万国博開催を目標に工を急ぎ、同時に大阪の流通機構近代化に大きな役割を果たしたが、これまでの建築の概念をはなれたものであり、時代の要求によって生まれたものといえる。
大林組が担当した第七号館は、鉄筋コンクリート造、地下二階、地上四階、総面積は二万二〇八〇平方メートル、屋上の道路部分を合わせて請負金は十六億三〇〇〇万円、工事事務所長は河野正巳である。
興和一ツ橋ビル〈昭和四十三年六月~同四十五年七月〉
興和不動産一ツ橋ビルは南に皇居を望み、周囲に如水会館、学士会館、共立講堂等をひかえる神田一ツ橋に建設された。貸事務所ビルで、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上一二階、塔屋三階、最高部の地上高は五五・五メートル、総面積は三万一四三五平方メートルである。
着工当時、このビルの北側地下二七メートルの深さに都営地下鉄六号線工事が計画されていた。もしその完成を待って着工することとなればビル工事の大幅遅延は避けられなかったが、地下鉄工事も受注できたため、両工事を並行して進めることができたのは幸いであった。そのため掘削はオープンカットによって地下鉄底まで行ない、そこに仮の鉄骨柱を建て、上下同時に作業する計画としたが、両者の工程調整には少なからぬ苦心を要した。この地区は旧神田川跡の軟弱地盤であるため、東、南面および円形車路の外周部分はOWS工法による山留壁、西および北面の外周はH型鋼を親杭として横矢板工法を用いた。鉄骨工事では現場溶接に半自動溶接工法を採用した。外装はアルミのカーテンウォールとし、全面ブロンズ色の吸熱ガラスと、妻側にラフなボンタイルが使用されている。工事事務所長は丸山俊一、請負金は一六億二〇〇万円である。
タイム ライフ ビル〈昭和四十三年十二月~同四十五年七月〉
三菱地所が建設したこのタイム ライフ ビルは、アメリカの有力雑誌タイム ライフ社をはじめ、主として外資系企業をテナントとしている。所在地は東京都千代田区大手町二丁目、濃い茶色のカーテンウォールの外装と、神田川の彎曲に合わせた独特のデテールは、さながら軍艦のような重量感で周囲のビル群を威圧している。鉄骨および鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上一五階、塔屋二階、総面積は二万六五三六平方メートルである。
建物は高速道路に沿い細長く異形であるため、正面玄関を西側に設置し、全体の動線を縦につらぬく廊下に集中させ、ビルの機能を十分に発揮できるよう計画されている。床はコンクリートの直均し仕上げであるが、施工条件はきわめてきびしかった。そこでいったん見本をつくり、承認を得てから施工を行なっただけに、床仕上げは他に比類のないものとなった。工事事務所長は藪内吉一、請負金は一四億四六八六万円である。
大阪瓦斯千里エネルギーセンター〈昭和四十四年一月~同四十五年二月〉
温水管による地域暖房は欧米諸国では古くから行なわれ、地域冷房もある程度実施されているが、わが国でこの種施設をもったのは、昭和四十五年、万国博会場における地域冷房が最初である。このとき、会場内に東、北、南の三プラントを臨時に設け、各パビリオンの冷房を行なったが、北、南のプラントは電力、東プラントは大阪瓦斯のガス冷房装置によるものであった。ガス暖房は早くから利用されているが、同社は冷房についても研究を進め、パッケージ型や新吸収式による冷暖房両用機を開発した。千里エネルギーセンターは大阪府企業局の計画にもとづき、千里ニュータウン中央地区にガスによる本格的地域冷暖房を行なうべく建設されたものである。
プラントは鉄骨鉄筋コンクリート造、一部鉄筋コンクリート造、地下一階、地上五階、塔屋四階、クーリングタワー二階で、総面積は一万三二五〇平方メートル、うち七一九〇平方メートルは集中機械室、六〇六〇平方メートルはコンピューター室となっている。コンピューターは、顧客の異動状況を把握し、台帳に代わる異動票累積リストの作成に当たるものであるが、同社の入金処理業務等はすべてここで行なわれる。
ニュータウン中央地区は現に開発中で、昭和四十九年(一九七四)完成の予定であるが、地下鉄駅、中央商店街、阪急、大丸両百貨店、阪急ホテル等にはすでに冷温水あるいは蒸気が供給されている。第一期分の能力は冷房において四二五〇冷凍トン(一冷凍トンで二〇~二五平方メートルの広さを冷房可能)、暖房および給湯では毎時一三・七五ギガカロリーで、六畳の部屋約一万三五〇〇室を暖房することができる。第二期計画では、これが一万二七五〇冷凍トンとなり、さらに第三期で一万七〇〇〇冷凍トン、五五ギガカロリーに増大し、アメリカのハートフォード市街地の一万五〇〇〇冷凍トンを越えて世界第一位となることが予定されている。工事事務所長は玉井恒清、請負金は八億一九五〇万円である。
神戸製鋼所加古川工場〈製鋼工場―昭和四十四年二月~同四十五年八月/熱延工場―昭和四十四年十月~同四十六年三月〉
神戸製鋼所の加古川工場は銑鋼一貫工場として播磨臨海工業地帯に建設され、まず昭和四十三年(一九六八)三月、厚板工場が操業を開始した。つづいて高炉、製鋼工場、ペレット、発電所等の関連工事に着手し、同四十五年八月、一号高炉の火入れを行なったが、これら諸工事のうち、大林組は厚板工事の第二工区、工作工場、製鋼工場、熱延工場を受注した。製鋼工場は鉄骨造、地上六階、総面積二万一二九三平方メートルで、建家と受銑ピット、換気集塵装置その他諸機械の基礎工事等を受注したが、これと並行的に施工した熱延工場は鉄骨造平家(一部中二階、地下一階)、総面積は五万四〇〇〇平方メートル、工場建築としては最大級の規模であった。
工事の末期、昭和四十五年の梅雨期は六十年来といわれるほど雨が多く、六月中の日照時間は数十時間にすぎなかった。この悪条件下で進められた基礎工事や鉄骨建方は難行したが、工期を厳守するために残業、二交替制等あらゆる手段をつくした。そのため一日の最大稼動人員は熱延工場九〇〇名、製鋼工場五〇〇名に達したほどであった。工事事務所長は南戸又義、請負金は製鋼工場が九億五〇〇〇万円(ほかに支給材一八億円)、熱延工場は三一億七〇〇〇万円である。
札幌市庁舎〈昭和四十四年五月~同四十六年十月〉
昭和四十七年(一九七二)の冬季オリンピック開催にそなえ、札幌では道路、地下鉄、地下街等の大規模な整備事業が行なわれたが、市庁舎新築もその一つである。市の中央、大通公園に面しているが、建物南面に庭園を設け、隣接する市民会館前庭の緑地、公園との一体化をはかり、都市環境の整備に対する大きな配慮がみられる。アルミ鋳物によるカーテンウォール外装の庁舎は軒高八五メートル、東京以北における最高の超高層ビルであり、全国市庁舎第一の高さを誇っている。
構造、規模は地下階が鉄骨鉄筋コンクリート造、地上階は鉄骨および鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上一九階、塔屋二階、総面積は四万二二八九平方メートルである。躯体は柱と壁を鉄骨鉄筋コンクリート造、梁を鉄骨造、床版は鉄筋コンクリートデッキプレート捨型枠工法によった。施工は大林組、地崎組、岩田建設による共同企業体で、工事事務所長は山口功、請負金は二四億三〇〇〇万円である。
武田薬品工業研究所〈昭和四十四年六月~同四十六年六月〉
武田薬品工業の開発本部(研究所)は、大阪市東淀川区十三の大阪工場内にあり、第一棟は昭和三十三年(一九五八)、第二棟は同四十年(一九六五)、いずれも大林組が施工した。今回完成した第三棟は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上八階、塔屋三階、総面積は二万八四五二メートル、第一棟、第二棟を合わせた延面積は五万六〇〇〇平方メートルに達し、規模、設備とも東洋最大で、世界でも屈指の研究所である。
床は二重スラブ式で、すべての配管はここにおさめられている。したがって、配管工事を施工後、二重スラブの据付けを行ない、これが終わったのちに間仕切その他にうつるという複雑な工事であった。外装はクリーム色とこげ茶色のモザイクタイルと二丁がけタイル仕上げで、玄関の両側は加藤唐九郎氏作の陶壁画と大理石で飾られている。工事事務所長は渋谷伊三郎、請負金は一六億四五〇〇万円である。
武田薬品工業の工事は、大正十五年(一九二六)九月、当時の武田長兵衛商店倉庫を新築したのが最初である。つづいて同年十月、営業所本館工事に着手し、昭和三年(一九二八)六月に完成したが、鉄筋コンクリート造、地下一階、地上三階、総面積三四五四平方メートルの近代ルネッサンス建築(設計・片岡 安博士)は、道修町の薬品問屋街を圧した。その後満州、朝鮮および全国の支店や、各地の工場を建設した。大阪、猪名川、高槻、郡山、高砂、東京の高田各工場をはじめ、清水、湘南、徳山、光等の工場を次々に施工したが、京都試験農場、福知山農場等も施工している。また傍系会社である武田食品工業の東京多摩川、大阪伊丹、九州甘木、広島竹原の各工場や、大和不動産の東京武田ビル、札幌武田ビル、福岡武田ビル、大和道修町ビル等も、すべて大林組の施工である。
板橋トラックターミナル〈昭和四十四年十二月~同四十五年十二月〉
高速道路による都市間交通の発達にともない、貨物輸送も重点は鉄道から自動車にうつされたが、一方、都市内交通の混雑も増加し、これを解決するためのトラックターミナル建設が各地で行なわれた。昭和四十二年(一九六七)から翌四十三年にかけて大林組が行なったターミナル工事は、大阪府都市開発会社の東大阪ターミナル、特殊法人日本自動車ターミナル会社発注による京浜トラックターミナル自動車用施設、同京浜二区トラックターミナル荷扱場等がある。これにつづいて施工したのがこの板橋ターミナルで、発注は同じく日本自動車ターミナル会社である。
東京都板橋区三園町と大宮バイパスをむすぶオリンピック道路に沿い、笹目橋わきに鉄筋コンクリート造、地下一階、地上一階、塔屋二階の発着ホーム八棟を建設したが、総面積は六万一〇三六平方メートル、構内用地の全面積は一一万五〇〇〇平方メートルに達する。施工は大林組、鹿島建設、大成建設による共同企業体で、工事事務所長は安村新二、請負金は二二億一三〇〇万円である。
このほか同種工事として、昭和四十三年(一九六八)一月から同年十一月まで松山市伊予鉄道の伊予鉄バスターミナル、同年十月から翌四十四年八月にかけて東京都大田区平和島に、はとバスターミナルを施工した。
東京流通センタービル〈第一期―昭和四十五年二月~同四十六年十月〉
立遅れといわれた都市の消費者行政において流通機構の整備は特に重点とされたが、このビルもその対策の一つとして建設された。東京都大田区平和島の京浜第二区は、六二万七〇〇〇平方メートルの埋立地につくられた流通基地で、さきに大林組が施工した京浜トラックターミナルも、この施設の一部である。
センタービルおよび展示場は低層部と高層部から成り立ち、低層部は鉄筋コンクリート造、地下二階、地上二階で、高層部は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上一二階、塔屋一階、総面積は六万四六四〇平方メートルである。隣接する倉庫、冷蔵倉庫、トラックターミナルと有機的に連携し、すべての卸売業務は総合的にここで行なわれる。これとならんで他に一棟の物流ビルも建設され、その合計面積は二四万平方メートルに達し、規模において世界最大となった。発注者は株式会社東京流通センタービル、施工は大林組、大成建設、竹中工務店三社による共同企業体で、大林組の責任者は秋田親男、請負金は一八億四八〇〇万円である。
これに先立ち、昭和四十二年(一九六七)十二月、千葉県松戸市八ヶ崎に千葉県食品流通センターを施工し、同四十四年三月完成した。松戸市を中心とする首都圏東部の七二万世帯、二六〇万の人口に、水産物、食肉、青果物等の食品を供給する近代的市場である。建物は鉄筋コンクリート造、地上四階、総面積は二万八〇〇〇平方メートルで、冷蔵倉庫、問屋街、事務所、宿舎、大駐車場等の施設をもち、構内面積は五万平方メートルに達する。発注は株式会社千葉県食品流通センター、工事事務所長は森下祐良、請負金は二〇億八四〇〇万円である。