大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 高度経済成長期

第五節 東京大林ビルを新築

本店に機械部を設置―飛躍的な工事機械の充実

先にのべたようにこの時期における工事の増加は、土木、建築ともに飛躍的なものがあり、施工の機械化もいよいよ本格的なものとなってきた。そのため、昭和三十五年(一九六〇)九月決算における工事機械保有高は、取得価格で五〇億二二四七万円にのぼり、五年前の約五倍に達し、次のような新鋭工事機械が続々と購入されている。

米国製トラッククレーンP&H三五五BTC、宮地製二〇トン大型ガイデリック(マスト六五メートル、ブーム五五メートル)、小川製〇・五立方メートル二連式スキップホイスト、ル ターナーD型モータースクレーパ、ターナードーザ、D―九型ブルドーザ、ル ターナーC型(九立方メートル)モータースクレーパ、一五トン吊走行式三脚デリック(マスト一五メートル、ブーム三〇・五メートル)、日立U―〇六型バックホウ、いすゞ五九年型アジテータートラック(三立方メートル)、渡辺製WP―一五型タイヤローラ、D―二二型斜杭打用回転式ディーゼルハンマ、日特NTK四型湿地用ブルドーザ、デルマックPZ―五型矢板抜きハンマ、小川製OT―三〇三〇型ブーム起伏型タワークレーン(国産第一号機)、ソ連製VP―一型バイブロハンマ、加藤一五H型クローラーアースドリル、その他

この増勢はその後もつづき、モーターウインチ、移動軽便デリック(オーストリッチ)、ウインド リフト コンベヤ、各種エアコンプレッサ、タワークレーン、ディーゼルハンマ、鋼製仮設機材、鉄矢板等は保有量を倍増した。また、加藤二〇H型クローラーアースドリル、三菱M四〇型リバースサーキュレーションドリルおよびディーゼルハンマ、三菱HF―四〇型杭打機、コンウエイ式KR―六Z型ロッカーショベル、高層用人貨エレベータ(小川製一五〇〇キロ、九〇メートル)、高層用高速油圧式コンクリートエレベータ(〇・六立方メートル、九〇メートル)、小川製OT―五〇三〇型タワークレーン(マスト八〇メートル、ブーム三九メートル)、バケットホイールエキスカベータその他も加わり、昭和四十年三月末決算における機械保有高は、取得価格で九九億五一二二万円に達し、昭和三十五年の購入額にくらべてほとんど倍増した。

これら機械類の購入および保守、管理は、それまで本店工務部と本店および東京支店の工作所が分掌していたが、機械化時代の到来とともに組織を強化し、昭和三十四年(一九五九)七月、本店に機械部を設置して業務を統一した。さらに同三十八年一月には工作所を機械工場と改めて、本店機械部の管轄下におき、西に名古屋、広島、高松、福岡、東には仙台、札幌に機械分工場を新設した。

経済活動の中央集中化―高まる東京支店の役割

このように工事量の増大と業績の上昇にともない、昭和三十一年(一九五六)から同三十五年にかけて、高松出張所を支店に昇格し、熊本と高知に出張所を新設するなど、組織の整備拡充が行なわれた。東京支店は昭和三十二年一月、丸ノ内三菱仲二十八号館から中央区新富町三丁目に移転していたが、業務が繁忙となるにつれ、事務所が狭隘をつげるようになった。移転当初二三〇名だった人員は、三年後には三〇〇名を越え、工事現場数も四五カ所から九二カ所と、ほとんど二倍近くなった。また、このころになると経済活動が中央に集中する傾向がいよいよ強くなり、東京支店の役割は従来に増して重要となってきた。

そこで、大林組の東方拠点として東京大林ビルを新築することが決定した。場所は、千代田区神田司町二丁目三番地、国電、地下鉄の神田駅から徒歩五分、地下鉄淡路町駅から三分の位置で、丸ノ内オフィス街にも近い。昭和三十五年(一九六〇)三月一日着工、翌三十六年九月十五日竣工した。敷地は一四九七・九平方メートル、建築面積一一九六・四平方メートルで、延面積は一万一一八七平方メートル、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上九階、塔屋四階である。

外装柱型は一階がステンレス、二階~九階がアルミニュームで、スパンドレル、マリオン、サッシュもすべてアルミを用い、窓ガラスは防音、断熱のグレーペン二重ガラスが使われている。設計は、オフィスビルとしての機能に重点をおき、天井高は各階とも二・五八メートル、柱間隔は両方向各六・六六メートルに統一し、階高も一定とした。これにより、外壁カーテンウォール、内壁可動間仕切り、建具等は完全に規格統一され、これら二次構造材や仕上げ材はプレハブ化が可能となった。照明、空調その他に建設業者の自社ビルとして誇るにたる諸設備が整えられたことはいうまでもない。

大林ビルには、東洋鋪装(現・大林道路)本店、内外木材工業の東京支店分室、浪速土地(現・大林不動産)の東京営業所等がおかれたが、このビルは昭和三十八年、大林組が施工した大阪の興銀ビル、富山市の北陸銀行本店とともに第四回BCS賞を受賞した。

東京大林ビル
(昭和36年9月竣工)
東京大林ビル
(昭和36年9月竣工)

企画室と弘報課を新設

昭和三十六年(一九六一)三月、トップマネージメントを補佐するスタッフ機構として、本店に企画室が新設された。科学的経営は、これまで大林社長がしばしば説いてきたことであるが、経営計画の立案、そのために必要な統計や資料の収集と整理、経営情報システムの立案、事務の合理化方策の立案、関係会社の資料の収集、分析などを行なう企画室の新設によって、高度経済成長時代に処する社内体制は一段と強化された。これによって、全社的視野による経営計画の立案、事務の合理化等がより精密に行なわれるようになった。

またこれと同時に、本店総務部に総務課と弘報課が設置された。総務課はそれまで庶務課が担当した請負契約や、法務、株式関係等をひきつぎ、分離独立したものであるが、弘報課の新設にはより積極的な意味があった。

広報活動―社業の対外宣伝は、すでに昭和六年(一九三一)から行なわれていた。毎年一回「工事画報」を刊行し関係方面に広く配布しており、昭和十三年から同二十七年までの間は写真撮影の規制や用紙事情等のためにやむなく休刊していたが、二十七年(一九五二)復刊して今日にいたっている。

また同二十九年からは、「大林グラフ」(昭和四十一年以後「グラフ大林」と改題)を季刊または隔月刊として発行し、通巻七六号を数えている。これらはいずれも写真を主とし、大林組の活動を株主ならびに一般関係先にタイムリーに伝えることを目的としたものであるが、昭和三十八年(一九六三)一月には、社内報「マンスリー大林」を創刊し、社内の動向や業界の情勢を従業員に伝えるとともに、社内の連帯感を強めている。

また、OWS工法、パイルコラム工法等大林組が開発した技術紹介のパンフレットを随時刊行、これらの一つである「超高層建築シリーズ」六編は一部の学校で教材に使用された。昭和四十六年二月、ロサンゼルス地震の実地調査のため、技術研究所次長中川恭次を団長とする調査団が派遣された際には、同調査団の現地調査を「ロサンゼルス地震災害報告」としてパンフレットにまとめ、いち早く内外の関係方面に配布した。

このほか、弘報課では映画製作、新聞雑誌広告、放送宣伝等も担当、映画は工事記録や技術紹介を主とし、主要作品に「四天王寺五重塔」、「日生日比谷ビル」、「帝国劇場・国際ビルヂング」をはじめ、海外工事や万国博工事等いろいろあり、万博工事のドキュメンタリーとして制作した「お祭り広場建設工事記録」は昭和四十六年度の産業映画コンクールの奨励賞を受賞している。

工事画報 創刊号
工事画報 創刊号
大林グラフ 創刊号
大林グラフ 創刊号
マンスリー大林 創刊号
マンスリー大林 創刊号
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