第二節 かちえた絶大な信任
軍を感激させた突貫工事―浜寺俘虜収容所
日露戦争の間を通じ、朝鮮進出のほかに内地の軍工事も多忙をきわめた。明治三十七年には第五師団(広島)厩舎(三月)、同予備病院第四分院(六月)、第四師団(大阪)予備病院天王寺分室(六月)、第五師団予備病院第六分院(八月)、第十一師団(善通寺)予備病院第二、第三分院(八月)、第四師団予備病院(八月)、陸軍被服廠大阪支廠(十二月)などがそれである。このうち大阪陸軍予備病院は、前年開催された第五回内国勧業博覧会の敷地跡に建設され、病棟一二〇棟、付属家一六〇棟におよぶ規模であったが、工期はわずか三カ月の突貫作業であった。
翌三十八年一月元旦、難攻不落といわれた旅順要塞が陥落し、二万四〇〇〇余のロシア軍俘虜が後送されることとなり、そのうち二万を大阪に収容することになった。同月八日、第四師団経理部は芳五郎を招き、収容所建設について意見を聞いた。軍の設計によると、敷地は府下浜寺海岸四キロ平方で、一棟長さ九七メートル、幅六・四メートルの平屋建廠舎(二〇〇名収容)一〇〇棟と、同規模の病舎(一〇〇名収容)一〇棟、哨兵舎、厨房など一五棟の計一二五棟である。柱は杉丸太、壁は杉板張り、屋根はラバロイドあるいはマルソイド葺のバラック建で、建築延面積八万平方メートルを工期二十一日で、という希望であった。
同月十一日、大林組、清水組、大倉組、北陸土木会社による指名入札が行なわれた結果、工期においては他の四十五日ないし六十日に対し、大林組は二十五日で、軍の希望に最も近かった。これをさらに協議のうえ、軍が要望する二十一日で引受けたため、工事の大部分は大林組に、一部を大倉組と北陸土木会社が受注した。しかし、大倉組は最初から、また北陸土木は途中から、施工を大林組に託したので、結局全工事は大林組の手によって、予定どおり二十一日間で完成をみた。
はじめ師団経理部から意見を求められた芳五郎は、所見をのべて帰ると、ただちに大阪市内の主要木材業者を招集して、既製材や原木の在庫高、製材能力などを調査した。そして工事内容を秘したまま、大規模な軍工事があることを予告し、可能なかぎり材木を調達するよう要求すると同時に、かたく暴利をいましめた。これは、いかなる業者が受注するにせよ、事前に必要な処置と考えたからである。
このとき大阪で供給可能な量は、所要数量のなかばにすぎなかった。芳五郎はただちに和歌山をはじめ四国、中国、九州の木材商に打電して、各地の量を調査した。また労力の面でも、昼夜交代制で大工三〇〇〇人、土工、手伝、人夫など二〇〇〇人を要するとみて、下請業者に彼らの移動を禁じ、待機させる手配を命じた。二十一日の期間で請負ったについては、芳五郎にこれだけの準備があったのである。また彼は、大林組に落札した場合は、大工の賃金に五割増しを約しておいた。
陸軍側の実測が終わり、工事が開始されたのは十六日で、入札決定後五日目であった。それにもかかわらず、労務者数は着工の前日すでに予定に達し、十六日早朝には木材を積みこんだ船が、汽艇にひかれて続々到着した。総主任には加藤芳太郎が当たったが、芳五郎自身も現場にとまりこみ、一時間ごとの報告によって、建物配置図に進行状況を記入した。このころ連日西北の季節風が吹き荒れ、運搬船が接岸できなかったので、芳五郎は船頭に命じて、材木を海中に投げ入れさせた。材木は波とともに岸に吹きよせられ、かえって荷役の能率をあげたという逸話が、彼の奇知として伝えられている。
この工事は予定どおり二月五日に竣工し、師団長以下当局を感激させたが、当時建築界の権威であった辰野金吾博士も、わざわざ現場を視察して激賞したという。その後なお病棟不足ということで、つづいて一棟一〇〇名を収容するもの一五棟の建増しと、パン焼き工場などの建築を下命された。これは二月八日に着工し、四月十八日に竣工したが、当時の工期はこの程度が標準であった。
こうして陸軍の絶大な信用を得た大林組は、四月に大阪砲兵工廠、八月に神戸和田岬の臨時検疫所を受注し、九月には海軍の呉工廠工事を請負った。
増設師団の半数を独力で施工
明治三十八年(一九〇五)九月五日、ポーツマス講和条約が調印され、日露戦争は終わった。日本は朝鮮に統監府をおき、駐屯軍を常駐させることとなり、大規模な兵営建設が必要となった。芳五郎は翌三十九年、技師長船越欣哉、白杉副支配人、小原伊三郎をともなって渡鮮し、各地視察を兼ねてこの工事入札に参加、七月に竜山、平壌両兵営工事を獲得した。その金額は五〇万円で、積算担当者の誤りから大きな欠損となったが、工事そのものは総主任小原伊三郎、副主任植村克己の献身的努力によって完璧なものであった。
このことは前年来の鉄道関係工事とともに、かえって軍当局の信任を博し、その後砲兵連隊、兵器支廠、駐屯軍司令部、同司令官官邸などの建設を特命で下命され、請負総額は二百数十万円に達した。小原はこれらの工事中、不幸にも客死したが、植村が後をうけて完成し、朝鮮進出の有終の美を飾った。
この駐屯軍は韓国併合ののち師団となったが、内地においても軍備拡充により、従来の一三個師団のほか、新たに六個師団が増設された。これにともなう諸施設のうち、大林組は二個師団の全部と六個連隊その他を請負い、実質的に三個師団半、すなわち師団増設のなかばを独力で施工した。明治三十九年七月以後、同四十二年九月までの三年間余に受注した陸軍関係工事は、内地、朝鮮を含め数十件におよび、その請負金総額は八百数十万円に達した。
これら軍工事は並行的に行なわれたものが多く、多忙をきわめた。なかでも豊橋第十五師団の場合は、新設師団施設の全部で、当時の大林組の請負工事中最大のものであった。
これは明治四十一年(一九〇八)二月、工期九カ月、請負金額一〇〇万円で受託したものであるが、歩兵連隊、兵器支廠などが八〇万円の追加工事として発注された。大規模な追加発注にもかかわらず工期はもとのままの九カ月で、しかもこれとほとんど同時に、徳島第六十二歩兵連隊と津歩兵連隊兵営工事を受注していた。
この工事の予算は最初からあまりにも少額で、工期的にも無理があったため、再三の入札にもかかわらず、いつも入札額が予算を超過した。当時の臨時陸軍建築部名古屋支部長中野廣大佐は、やむなく芳五郎を招き、その義侠心に訴えて懇請した結果、彼は既定予算額で請負ったのである。そうした事情で、欠損を見越しての請負だけに、彼は特に施工の万全を期し、みずから現地におもむいて指導し、期限どおりに完成した。これに対して師団から感謝状と金杯が贈られ、臨時陸軍建築部からは中野支部長の名をもって「其ノ施工最モ精確ヲ極メ一点ノ批難ナカリシハ本職ノ確認スル所」と賞状をよせられた。
東京進出の拠点―常駐事務所を設置
こうした軍工事の増大にともない、陸軍会計監督部と工事代金に関して常時折衝の必要を生じたため、明治三十七年六月、東京市京橋区金六町(現・中央区東銀座一丁目)に常駐事務所をおいた。最初の駐在員は内田正隆、伊集院兼良、金子弥兵衛の三名で、いずれも陸軍とは接触が深く、内田などは大臣室にまで自由に出入りできたといわれる。この事務所は、のちに大林組東京進出の拠点となり、やがて東京支店に発展した。
このように日露戦争中から戦後にかけ、主力はほとんど軍工事に傾注されたが、同時に少量の民間工事にも従事した。創業当初から縁故のある金巾製織の倉庫(明治三十七年十月)、社宅、食堂(同三十八年九月)、大阪硫曹鉛室その他増修築(同三十八年四月)、志方勢七氏経営の摂津製油工場(同年十月)などが戦中のものである。最後は明治三十九年二月、大阪市主催の戦勝記念博覧会、六月には大蔵省から東京浅草の第三煙草製造所貯蔵庫を受託したが、これが東京における最初の工事であった。
当時は戦争ブームで市況は活発をきわめ、新設会社の設立が相次いで、その資本総額は一〇億円を越えたといわれるが、明治四十年には早くも反動期にはいった。一月早々株式は暴落し、企業の倒産、銀行の休業など、経済恐慌が翌四十一年(一九〇八)にかけて全国をおそった。この恐慌により打撃を受けた建設業者も多かったが、軍工事を主とした大林組は幸いにしてほとんど影響を受けなかった。
このころの民間工事としては、明治四十年三月の神戸精糖、東洋製紙、九月の日本絹綿紡織(のち鐘紡に合併)京都工場、十月の日本醤油醸造尼崎工場などの工事があげられる。