第二節 機構の整備と海外技術の導入
受注体制の強化―営業調査活動を整備充実
大型景気の到来は大林組にいちじるしい業績の上昇をもたらしたが、ますます増大する建設需要に対処するためには、さらに受注体制を強化し、社内機構を整備充実しなければならなかった。そのため、このころ多くの部課が新設され、あるいは機構改革が行なわれた。また、海外技術の導入により、ショックベトン ジャパンが創立され、一方ソレタンシュ工法との一体化によってOWS工法がさらに効率を高めるなど、技術面でも大きな発展がみられた。
コンピューターの活用が本格化し、事務、技術の両面に偉力を発揮したのもこの時代である。また今後発展すべき産業を予測して、先行的にいくつかの部室の新設も行なわれた。このころ行なわれた土木建築の代表的工事については後段でのべるが、とりあえず、大型景気に即応して業績の飛躍を可能ならしめた社内体制を以下に概観する。
まず営業活動強化の方策として、昭和四十年三月、本店土木本部に営業調査課、同建築本部営業部と東京支店営業部に調査課を設置し、同年九月には、本店建築本部の調査課を営業調査部に昇格させた。次いで翌四十一年二月、横浜、神戸、岡山の三支店について母子店制度をとった。これは工事の獲得と人員の配属に関し、横浜は東京支店の、神戸は本店の、岡山は広島支店の指示を受けることとし、業務処理の迅速化と効率化をはかったものである。これにともない、従来横浜支店に属した静岡県における業務は一部を除いて名古屋支店の所管となった。
人事管理の刷新―職能給制度の採用・若年職員の計画的配置転換
昭和四十年(一九六五)四月、職務遂行能力に応じた職能等級制度を設け、これに給与面で対応する職能給制度を採用した。職能等級制度は、高度の経営者的識見と業務処理能力を有し、あるいは専門的分野において特に優秀な技術、知識、経験をもつ一級職職員から、ほとんど技能、経験を必要とせず、定型的な業務処理に当たる九級職職員までの九段階に分けたものである。これによって、能力ある者に対しては年功にとらわれず、昇進、処遇の道が開かれ、適切な人事配置が行なわれることとなった。職能給は、この制度と給与面において対応するものである。戦後の年齢を中心とした生活給的給与は逐次整理され、昭和三十四年(一九五九)四月、本人給である本給に一本化し、その後も能力に見合う本給に修正を重ねてきたものが、ここにおいて明白に職務遂行能力に応じた能力給の導入となった。これは賃金体系として一歩前進し、時代に即応したことを示すものであった。また、同四十年十月には人事考課規程を全面的に改正整備し、昇給、昇進、賞与、配置、任免その他の基準を明らかにした。
一方、従業員の教育については、昭和三十七年(一九六二)九月教育課が設置され、各階層別教育、専門業務教育を行ない、また、海外の研究機関、社外講習会への職員派遣、自己啓発に対する援助等を行なってきたが、同四十二年(一九六七)五月には、若年職員について入社後一定期間に計画的配置転換を行なう制度を設けた。これは職員各自の適性を把握し、幅ひろい知識と技能の修得をはかるための措置であった。
翌四十三年四月制定された人事調査制度は、自己申告制度ともよばれ、入社後一定期間内にある一定年齢層の職員が、毎年四月、調査表を提出するものである。この制度は、職員各自に自己啓発の機会を与えるとともに、所属長に効果的な指導を行なわせ、能力の向上をはかるのが目的であるが、配置転換等の場合にも参考とされる。当時産業界の経営合理化が進行するにつれ、多くの企業で人事管理面の改正がみられたが、建設業界では大林組が最も早く、かつ理想に近い改革と評された。
停年制を改正・理事任用制度を設く
昭和四十四年(一九六九)八月、停年制を改正し、これまで全職員の停年が満五十五歳であったものを、一級職ないし四級職にあるものについては満五十八歳、五級職ないし九級職のものは満五十五歳と改めた。同時に停年に達した職員のうち、引きつづき業務に従事させる必要のある者を特別職員として採用する道を開いた。特別職員は採用の日から二年に達した日に退職するが、業務上さらに会社が必要と認めた場合は、この期間を延長することもある。なおこのとき、一級職にある職員のうち三〇名以内を、理事に任用する制度を設けた。これは会社経営について高度の識見、手腕を有し、もしくは専門的分野において優秀な技術を有する職員に対し役員に次ぐ処遇を与えるもので、他企業における準重役待遇等に類するものである。理事の停年は満六十歳であるが、必要ある場合は延長することもあり、理事報酬を支給され、出張旅費、退職金等についても優遇される。
福利厚生施設を充実―健康管理と居住施設に重点
福利厚生施設も強化され、従業員の健康管理と住宅を中心にいちじるしい改善をみた。健康保険は全国土木建築国民健康保険組合に加入しているが、昭和二十三年(一九四八)本店に独自に開設した医務室は、同三十四年(一九五九)四月、大林組診療所に拡充され、同三十九年十月、大阪機械工場にも診療所を設けた。支店関係も昭和三十六年末に東京、同四十三年(一九六八)九月に名古屋、翌四十四年六月には東京機械工場に各診療所を開設し、その他の支店でもそれぞれ医師を委嘱して従業員の健康管理を進めた。検診の対象も結核から成人病にうつり、昭和三十八年から人間ドック制度、高血圧の定期検診、さらにX線による消化器検診へと範囲をひろげた。
住宅関係では、単身者寮三五棟一五七〇室、家族社宅二八〇棟八二四戸の施設をもつが、単身者寮では昭和三十四年六月大阪本店に花壇寮、翌三十五年四月東京支店に花輪寮を、また家族社宅では大阪に豊津寮、東京に三軒茶屋寮、名古屋に宮の腰寮を、それぞれ耐火構造として新築して以来、全国の施設についても不燃化を進めた。ことに家族住宅については、社宅増設よりは自家保有を援助する方針をとり、昭和三十六年(一九六一)五月、住宅資金貸付規程を制定し、同四十三年四月には貸付金額の限度額、貸付資格の大幅な拡張を行なった。住宅資金の貸付残額は昭和四十六年九月末現在で一四七五件、総額一一億一一九七万円である。
レジャー施設も、それまで熱海市に熱海寮があったが、昭和四十三年(一九六八)五月には長野県木曽高原に「木曽駒高原・山の家」を、同四十六年七月には軽井沢千ケ滝に軽井沢寮を増設して、従業員にいこいの場を与え、明日への英気を養う一助とした。
下請業者の指導育成と技能工の養成
このころ、建設業における労務者不足は慢性化したのみならず、いよいよ増大する傾向にあり、昭和三十八年度の全産業における技能労働者不足数約一一〇万人のうち、建設技能労働者のそれは一二万五〇〇〇人を占め、不足率も全産業の平均一八・一%に対して三〇・三%と最高を告げていた。すでにのべたように、大林社長は全国建設業協会の会長時代、その対策をもとめて熱心に努力した。しかしこの問題は労務を直接管理する下請業者と不可分のものであり、下請業者自体の問題として検討しなければ解決できない課題であるため、昭和三十九年(一九六四)五月、社内に設けられた下請技術改善委員会に対し、さらに本質的に研究することを指示した。その結果、この問題も含め下請業者の体質改善をはかるため、同委員会を下請対策委員会に拡大改組し、委員長に専務取締役荒川初雄、副委員長に取締役添田正一、同赤野豊が就任して新たな検討に着手した。
下請対策委員会では、技術等指導専門委員会(主査 取締役谷口尚武)、機械化等指導専門委員会(主査 取締役赤野豊)、幹部育成専門委員会(主査 取締役懸山良雄)、経営指導専門委員会(主査 取締役岡田正)、制度研究専門委員会(主査 取締役添田正一)が、それぞれ分担して研究を重ね、昭和四十一年二月成案を得て、翌三月、「下請対策」が正式に決定された。土木本部と建築本部はこの対策にもとづいて、労務管理を含めた下請業者の指導育成に当たることとなり、関係各部門の協力を得て、実施可能なものから順次着手して成果を積み重ねた。その一つのあらわれが、昭和四十三年四月、箕面市に開設された大林組建設工大阪研修所(昭和四十五年、大林組建設工大阪高等職業訓練校と改称)である。
この研修所は大林組が敷地と施設を提供し、下請業者が組合を結成して、職業訓練法にもとづく認定事業内共同訓練を自主的に行なうもので、職種は建築大工である。訓練生の資格は、組合員である下請業者に雇用された中学新卒の男子で、定員は五〇名、全寮制を採用し、食費、宿泊費、授業料、教材費は組合と組合員が負担するが、訓練期間中は給料を支給する。訓練は、一週間のうち一日は訓練所で学科の講義を受け、五日間は雇用主である下請業者の工場現場で実技の訓練に当たるが、普通学科(社会、数学、国語、体育)のほか、専門学科には、建築工学概論、設計製図、建築構造、構造力学、材料、施工法、計画、設備、積算の各科目がある。期間は三カ年で、学科の講師には府下高校の教師を委嘱し、大林組職員も一部の型枠工事について指導するなど協力している。すでに訓練を終了して職場の戦力となっている者も多く、勤続報償金制度を設ける等の施策を講じて訓練生の定着につとめ、着々成果をあげつつある。
そののち昭和四十四年(一九六九)二月、大林社長は下請協同組合の結成、労働組合運動の展望など当面の問題について下請対策委員会に検討をもとめた。委員会は、これまでのように問題を専門委員会ごとにとりあげる方式を改め、同年三月新設された労務部を中心に、建築本部技術部、土木本部工務部と合議して総合的にあらゆる問題を検討、対策案を作成してこれを各専門委員会に付議、対策委員会がとりまとめることにし、社長の諮問に対しては同年五月に答申を行ない、下請対策の改正案については翌四十五年四月、下請対策委員会の審議を経て正式に決定をみた。
昭和三十八年(一九六三)一月、工作所を機械工場と改め、本店機械部の管下においたことは先にのべたが、同四十二年十二月、大阪機械工場の重機部門を府下枚方市招提一〇五五番地の新築工場に移転した。東京機械工場も翌四十三年二月、川崎市南台一丁目に一一万平方メートルの敷地を購入、新工場を建設して全面的に移転した。新工場は事務所、職員社宅、工務員寮等の施設を含めて総面積は一万九〇〇〇平方メートルである。いずれも重機械類の保有増加にもとづく拡張移転であるが、同時にこのころから工事機械のリース制が発達し、トラッククレーン、レッカー、発電機等はリースも利用するようになった。
また、昭和四十一年(一九六六)八月、本店および東京支店に仮設機材課が新設され、これまで機械部が所管したパイプ支柱等の鋼製仮設機材はすべて仮設機材課に移管された。これら仮設機材の取得価格は約一二億四八〇〇万円であった。なお、機械部保有の工事機械の取得価格は、昭和四十五年(一九七〇)三月末決算で九九億四五八八万円に達した。
ソレタンシュ工法の導入―「OWSソレタンシュ工法」として一体化
この時期に行なわれた海外技術の導入は、OWS工法と併用してこれを高度化させるためのソレタンシュ工法の導入と、高密度、均質の理想的PCコンクリート技術をもつショックベトン社との提携であった。
ソレタンシュ工法はフランスで開発されたもので、地下連続壁を構築する有効な工法として早くから注目されていた。大林組では大阪桜橋の東洋ビル、東京大手町の電電ビル工事にOWS工法を採用した当時からこの工法の導入を考慮し、昭和三十九年(一九六四)三月、取締役河田明雄が渡欧したとき提携を申し入れた。その後折衝を重ね、約一年で協定が成立し、同四十一年九月、ソレタンシュ掘削機CIS五八型第一号が輸入され、オペレーター二名が派遣されてきた。これが試験的に使用されたのは内幸町の新霞ガ関電話局工事で、本格的に活動しはじめたのは東京新宿の地下変電所工事からである。この工事ではOWS掘削機一一台が六五%を施工したのに対し、ソレタンシュ機は一台で三五%の成果をあげ、ソレタンシュ工法の固い地盤に対する偉力を示した。この工法の導入は、振動騒音による都市公害が問題化した当時であるだけに、きわめてタイミングがよく、OWS、ソレタンシュ両工法は一体化してその後多くの工事に用いられている。このソレタンシュCIS五八型機は、現在フランス本国よりも大林組の保有量が多いといわれるが、これと同時にベントナイト泥水の管理法も発達し、昭和四十三年八月には、「OWSソレタンシュ工事施工指針」が刊行された。
ショックベトン社と技術提携―株式会社ショックベトン・ジャパンを設立
オランダのショックベトン社との技術提携も、圓堂政嘉氏の紹介により前記河田が渡欧の際に成立した。ショックベトンは在来の強制振動方式のバイブレーションによるものとはことなり、ショックを与えられたコンクリートが、自重によって自由振動をおこし、締め固まるものである。したがって均質、高密度で強度が高く、精度がすぐれ、デザインが自由であること、長さ一二メートル、幅三・五メートルにもおよぶ大きな部材がつくれるなど、さまざまのすぐれた特性をもっている。
この工法によるPCコンクリートの製造、販売ならびに取付工事を行なうため、昭和四十年(一九六五)一月、大林組の全額出資による資本金一億円の株式会社ショックベトン・ジャパンが設立された。社長は大林組の大林社長であるが、専務取締役宮原渉が代表取締役に就任、本社と工場を埼玉県川越市南台一丁目に、東京事務所を東京大林ビルに、大阪事務所を大阪市東区石町二丁目においた。この製品が最初に用いられたのは、同年七月、大林組技術研究所に取付けた外壁であったが、その後カーテンウォール工法にPCコンクリートの採用が進むにつれ、すぐれた特性をもつショックベトンに対する評価は急速に高まった。大林組が施工した住友商事美土代ビル、東京造形大学、大阪化学繊維会館、パレスサイドビル、電通本社ビル、同恒産ビル、名古屋商工会議所ビル、大阪国際空港ターミナルビル、三井銀行事務センター、ヤンマーディゼル中央研究所等はショックベトンを用いた代表的なものであるが、山之内製薬焼津工場(清水建設)、富士宮市大石寺納骨堂(大成建設)、神戸市三宮市街地住宅(竹中工務店)、東京新宿の国立医療センター(熊谷組)、奈良農協ビル(奥村組)、日本ヴォーグ社(鹿島建設)等、他業者の間にもひろく採用された。このほか、超高層のホテルパシフィック(鹿島建設、東急建設共同企業体)にも、タイル打ち込みのショックベトンが使用されており、今後の超高層ビルに多くの需要が見込まれるほか、土木工事でも地下鉄隧道のセグメントとして用いられている。
「大林トラスH-1」および「大林トラスP」
以上のごとく、この時期には画期的というべき海外技術が導入されたが、同じころ、大林組自身も注目すべき立体トラスを開発した。「大林トラスH-1」および「大林トラスP」がそれである。
大量生産、大量消費の上に立つ近代産業は、必然的に工場の大型化を促し、機械配置や作業の合理化には柱なしの大空間を要求する。この要求を満たすものとしては、各種の大スパン構造が考えられるが、立体トラスもその形状の一つで、蜜蜂の巣の構造にみられるような立体格子によって形成されるパターンは建築空間を構成する最も合理的な形といえる。平面を等しい多角形で隙間なくおおうことのできるのは、三角形、四角形、六角形にかぎられ、したがって立体トラスの基本パターンもこの三種となるが、「大林トラスH-1」は下面に六角形の基本パターン、上面は三角形と六角形の組合わされたパターンであり、これに斜め材を加え、力学上も施工上も合理的、かつ経済上も有利なものとした。
「大林トラスH-1」の特性は、まず接合部の構造が単純で、加工が容易なことがあげられる。従来の立体トラスは、ほとんど八本ないし九本の部材が接合部に集まったが、このトラスは六本であるため、接合は簡便で施工しやすい。部材接合部は立体的で、一般の鉄骨構造とことなるが、接合部の強度については、大林組技術研究所で精密な実験を行なった結果、十分な耐力が確認された。また一般の立体トラスにくらべ、パターンの組合せが効率的で、最小の部材数で一定空間をおおうことができるが、単位部材の長さは短く、挫屈に対する耐力の低下はない。三方向が等方性であることも、トラス面の剛性を高め、平面計画が円形であると多角形であるとを問わず、無理なく適応できる。
立体トラスの応力解析はこれまで難解とされてきたが、「大林トラスH-1」については、大型コンピューターによって、応力およびタワミの精解を得られるようにプログラムが用意されている。このように多くのすぐれた特性をもち、経済性も高いため、工場、体育館、講堂等の建設に適し、昭和四十二年(一九六七)四月完成した宇部興産堺工場のラクタム倉庫で採用され、リフトアップ工法で施工されたが、その後、関西電力高砂特高開閉所、広島ノートルダム清心学園体育館などに相次いで採用された。
「大林トラスP」は、これにつづいて翌四十三年開発された。「トラスH-1」が主として平板状に用いられるのに対し、折版あるいはシェル状に用いられるものである。このトラスは、上面を三角格子形に組み、下面は一方向材のみとし、この上下面をプリズム型に斜材でつなぎ合わせたものを構成の基本としている。「大林トラスP」は、のちにのべる関西電力美浜原子力発電所工事で、特高開閉所に採用されている。
大型PC版組立工法を開発―枚方にPC版製作所を設置
年々増大するマンション、アパート等の中高層集合住宅の分野では、工費の低減、工期の短縮をはかるための省力化が要求された。建設省も昭和四十年、「住宅建設工業化の基本構想」および「中層共同住宅建設の工業化の促進要領」を発表し、建設部材の工場生産による住宅量産計画を推進した。昭和四十年六月、本店に集合住宅部を設けてこの部門に進出したことは前にのべたが、大林組は専用メタルフォーム工法(MF工法)および大型PC版組立工法(PC工法)を開発、実用化した。MF工法による集合住宅工事は、同部発足の直後、日本住宅公団の発注で大阪千里ニュータウン北町団地に一四棟四〇〇戸の建設に着工、同四十二年に竣工した。これがこの工法による全国最初の工事であるが、引きつづき大阪府下の金剛、高槻西面、富田団地等で施工し、昭和四十五年(一九七〇)までに一五五〇戸を建設した。
また、昭和三十九年(一九六四)、ジグザグジョイントによる大型プレキャスト版組立工法と、建起し式自動脱型装置を開発し、東京都清瀬町に四階建八戸の試作住宅を建設、また関西では改良型建起し機三台を使い、大林組瑞光社宅(五階建一〇戸)を建設したが、同四十二年十一月、枚方市の大阪機械工場内にPC版製作所を設置、この製作所は住宅公団の認定工場となった。その後、同公団枚方中宮団地のPC共同住宅を建設したが、つづいて大阪府、市の住宅供給公社、民間等の集合住宅を、昭和四十五年までに一四六二戸を施工した。関東では同四十三年、千葉市幸町に移動工場を設け、同年七月から生産を開始して、住宅公団花見川団地、幸町団地に七九〇戸、川越市に社宅二〇戸を建設した。
その後もこの分野における需要はいよいよ増大しつつあるため、昭和四十五年からX・Y・Zの三型式による高層、超高層共同住宅の設計技術について開発に進められ、Y型はいまや実用化されようとしている。以上にのべた海外技術の導入や、工法の開発・実用化について、建築技術改善委員会が果たした役割は大きかった。
NEAC二二〇〇/五〇〇を導入―全支店に端末機を設置
電子計算機の導入については、技術、事務に共用し得る汎用コンピューターの採用を検討するため、業務機械化委員会を設けたことは前述したが、この委員会は、機器、PERT、原価、営業、事務、予実算の六専門委員会に分かれ、それぞれ対象業務について研究を重ねた。また技術機械計算準備室は、この間、各メーカーのコンピューターで試用可能なものについては積極的に試用し、開発中のものについても同系統の代替機器を用いて採用機種の比較研究を行なった。この準備室は昭和四十一年(一九六六)八月、機械計算部門を統合した機械計算室東京分室の設置によって廃止された。
昭和四十一年十二月、本店のユニバックU-一〇〇四型に対し、東京支店には日本電気の大型汎用コンピューターNEACシリーズ二二〇〇モデル五〇〇を導入することを決定、同四十三年四月、設置された。また各支店および大阪、東京の両機械工場と倉庫に端末機器を設備、全店をむすぶ機械化も行なわれた。機械工場には日本電気の小型コンピューターNEAC一二一〇型とテープさん孔加算機アドパンチャーが設置され、工器具の送戻材振替、修理材料、雑品振替、会計の下請払いや内訳簿等の事務処理が機械化された。支店には紙テープさん孔機リコータイパー標準型とアドパンチャーをおき、各支店で発生するデータをさん孔し、これを本店のU-一〇〇四にインプットして、下請定時払い、請負工事内訳簿等の機械化をはかった。これらの機種や端末機器、伝送機器は別表のごとくである。
NEAC二二〇〇の設置とともに、昭和三十九年以来社外機使用によって蓄積された技術計算、事務計算のプログラムをこれに移す作業と、それまでU-一〇〇四で処理してきた業務を新しいシステムに移行するためのプログラム作成が急速に進められ、全社的なコンピューターの活用が真剣に検討された。PERT専門委員会では工程管理部門の作業管理を、原価専門委員会では土木工事の原価計算や建築工事の概算見積り、仮設見積り、設備の見積りなどを、予実算専門委員会では土木建築を統合して会計データとむすびつけて期間損益計算をも行なう予実算対照業務を、それぞれ機械化するシステムの研究を進めた。また営業専門委員会では営業情報を、事務専門委員会では会計や人事等の事務関係について機械化を検討した。これらはいずれも業務機械化委員会に付議され、実施にうつされた。