大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 昭和恐慌―深刻な社会不安

第二節 世界恐慌の波及

不振打開に積極策―地方機構を強化

昭和二年(一九二七)三月、関東大震災により決済不能となった手形を救済するための震災手形問題に端を発して金融恐慌がおこり、多くの銀行が破綻し、政府出資の台湾銀行まで休業した。この問題が原因で、四月には若槻内閣が倒れ、政友会の田中内閣が成立した。新内閣は三週間のモラトリアムを実施し、恐慌はようやく収拾されたが、不況は慢性化した。

さらに同四年七月、浜口内閣に代わると、健全財政主義の井上蔵相は予算縮小、金解禁を行ない、景気は後退した。また同年秋のニューヨーク株式暴落による世界恐慌の波及とともに、わが国は空前の不況におそわれた。このため企業の倒産は相次ぎ、都市では失業者が街にあふれ農村では娘の身売り問題がおこるなど深刻な社会不安を招いた。

株式会社大林組は、不況に対処するため昭和二年七月、同四年三月、同五年三月の三回にわたり、新株式一株につき各一〇円の払込みを行ない、資本金五〇〇万円を全額払込済とした。また株主配当金も昭和三年以後、年一割二分に減じ、同六年には年一割、さらに同七年には年七分となった。

田中内閣時代には、景気振興のため、中小商工業者応急資金五〇〇〇万円、小農救済資金三〇〇〇万円などの特別融資が行なわれ、また建設関係にも公共工事、都市計画にともなう工事などがある程度実施されたが、浜口内閣の緊縮政策により、これらは縮小、くり延べ、あるいは中止となり、また不況を反映して民間工事は激減し、業界の受注競争は激しく、倒産者は続出して、大林組もかつてない業績不振に当面した。

これを打開するため、経費節減や合理化の施策が進められ、若干の人員整理を行なうとともに、さらに積極策として地方機構を強化し、工事の獲得につとめた。昭和三年(一九二八)一月には京城に、同六年一月には台北と大連に外地出張所を設け、同五年(一九三〇)二月には小倉支店を福岡市中島町五九番にうつし、福岡支店とした。また昭和五年から七年にかけ、金沢、静岡、広島、仙台に営業所を開設した。経費節減と合理化については、支店営業所(常設出張所)資金整理規程、出張所(詰所)資金整理規程、機械部資金整理規程、工事費予算統制規程などが制定された。

また昭和六年(一九三一)十月、製材部から発展した大林組工作所を分離独立させ、内外木材工芸(のちに内外木材工業)株式会社を設立した。社長はおかず大林義雄が取締役会長となり、富田義敬が大林組監査役から転じて常務取締役に就任し、経営の衝に当たった。資本金は一〇〇万円(払込金額二五万円)で、その後大いに業績をあげ現在にいたっているが、詳細は別項でのべる。

東津水利組合貯水池堰堤
〈朝鮮〉昭和2年10月竣工
東津水利組合貯水池堰堤
〈朝鮮〉昭和2年10月竣工

住宅産業の先駆―浜甲子園健康住宅地の開発

昭和四年(一九二九)五月、阪神電鉄沿線浜甲子園の健康住宅地開発に着手し、これを経営したのも不況対策の一つであるが、現代にみられる住宅産業の関西における先駆をなした。副社長大林賢四郎の発意によるもので、大正十四年(一九二五)、邸宅、旅館、社寺などの設計施工に当たるため設けられた住宅部がこれを担当し、住宅部長松本儀八がその衝に当たった。

浜甲子園一帯の海辺六万坪(約二〇万平方メートル)を宅地に造成することとして、道路、上下水道、緑地帯の造成を完了したのは昭和六年はじめであった。まず日用品を供給する店舗、居住者のためのクラブハウス、幼稚園が建設された。同時に大阪毎日新聞社と提携し、その紙上でここにふさわしい健康住宅の設計を懸賞募集した。その入選作十数戸のほか、大林組設計によるモデル住宅も建設し、同社後援のもとに「浜甲子園健康住宅展覧会」を開いて希望者を募った。

この宣伝は成功して、モデル住宅はたちまち売切れ、その後の申込みも相次いだ。土地は坪当たり三〇円ないし四〇円、一区画は一〇〇坪(三三〇平方メートル)内外が多かった。設計は無料で、大林組が施工に当たり、建築費は坪当たり一二〇円ないし一五〇円、支払いは三年または五年年賦であった。昭和四十六年(一九七一)現在の同地一帯の時価は坪当たり約二〇万円といわれる。建築費は、構造も設備も大きく変ってきているので、ひと口にくらべようもないが、地価は当時にくらべると約五~六〇〇〇倍となっている。

阪神電鉄はこの住宅地のため線路を延長し、停留所も二カ所設置し、居住者に対しては浜甲子園駅から大阪または神戸まで一年間の無料乗車券を発行した。不況時でもあり、また住宅事情がよかった当時のことで、約五〇〇戸の全区画を売りつくすのに五年を要したが、計画としては成功であった。大林組の経営は昭和十二年(一九三七)終了したが、クラブハウスと幼稚園は地域に寄付し、昭和十四年までその幼稚園経費を負担した。

浜甲子園健康住宅
6号型―木造瓦葺平家建
5室サンルーム付 建築面積
35坪57 分譲価格4,430円
浜甲子園健康住宅
6号型―木造瓦葺平家建
5室サンルーム付 建築面積
35坪57 分譲価格4,430円
モデル住宅を兼ねた案内所
モデル住宅を兼ねた案内所

新分野の開拓―外国航路客船の室内装飾

外国航路客船の室内装飾を試みたのも、新規事業開拓の熱意のあらわれであった。当時日本郵船のヨーロッパ航路には、箱根丸、榛名丸、白山丸などの国産優秀船が就航していたが、ロビー、ラウンジ、ダイニングサロンなどの公室は、外国の内装業者の手によって仕上げを行なうのが常であった。昭和四年(一九二九)二月、太平洋航路の浅間丸と龍田丸が新造されるに際し、副社長賢四郎は日本郵船および三菱造船長崎造船所と交渉して、大林組が請負うこととした。一等公室はすでにイギリス業者と契約済みであったので、試験的に二等公室のみを施工したが、請負金額は二一万円であった。設計は本店設計部の鈴木久、中村一秀、施工は本店工作所が担当し、工作所長富田義敬が総指揮をとった。

つづいて同年四月には、大阪商船の南米航路船「りおでじあねいろ丸」と「ぶえのすあいれす丸」の二船を、さらに六月と十二月には大阪鉄工所から日本郵船のアメリカ航路、平洋丸、平安丸の各一、二、三等客室その他を受注施工した。当時大林組工作所は木彫の名工安田父子をはじめ優秀技術者を集めており、また材料、工作機械の面でも他に比類をみなかった。これらの船内装飾は絶賛を博し、のちに工作所が独立して、内外木材工芸となってからも引継がれた。これは陸の建設業者が、海に進出した最初である。

昭和六年(一九三一)一月、外地進出のため台北に設けた出張所は、同年十月、台湾電力会社から日月潭水力発電所第二工区工事を八一万円で、さらに同十年十月、日月潭第二発電所第三工区工事を八八万五〇〇〇円で受注した。台北と同時に設けられた大連出張所も、満州事変を契機として、大陸に発展する重要な基地となった。

台湾電力株式会社
日月潭発電所
〈台湾〉昭和9年9月竣工
台湾電力株式会社
日月潭発電所
〈台湾〉昭和9年9月竣工
ぶえのすあいれす丸社交室
ぶえのすあいれす丸社交室
龍田丸社交室
龍田丸社交室
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