大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 きびしい試練

第一節 生駒隧道工事

予想以上の難工事―坑道東口で落盤事故

明治四十四年(一九一一)六月、東京中央停車場工事受託の直後、大阪では大阪電気軌道会社の建設工事を請負い、東西ほとんど同時に工をおこすこととなった。この電鉄は前年九月創立され、大阪、奈良を最短距離でむすぶもので、現在の近畿日本鉄道の前身である。岩下清周氏を中心に設立されたため、芳五郎も当初から企画にあずかり、彼自身は役員には就任しなかったが、創立委員一〇名のひとりであった。社長には加島銀行頭取広岡恵三、専務取締役七里清介、取締役に岩下清周、速水太郎、玉田金三郎、守山又三、金森又一郎(兼支配人、のちに社長)、監査役に野村徳七、森久兵衛、山沢保太郎の諸氏が就任、大阪の一流財界人を網羅していた。

この電鉄の建設の当たり、最大の難関は両地の中間にある生駒山の処置で、はじめケーブルを用いて山頂を越える案もあったが、岩下氏の決断によって隧道によることとなり、工事を大林組に託された。路線全長三〇キロのうち、山麓西口の日下から東口谷田にいたる三三八八メートルの複線広軌隧道は、当時笹子隧道に次ぐ長さであったが、笹子は単線狭軌であり、複線広軌としては他に比類をみなかった。

まずアメリカから最新式のライナー削岩機と、一五〇馬力エアコンプレッサー三台を購入し、東口は七月五日、西口は同九日から導坑掘削に着手した。技師長岡胤信、総主任有馬義敬が指揮に当たったが、職工たちが機械の使用に慣れるまで、岡技師長自身が坑内にはいり、これを運転した。彼は河川工事の権威として知られていたので、当時「陸に上がった河童」などと評する者もあり、それだけに特にこの工事には熱中したといわれる。

掘削が進むにつれ、次第に地質が悪くなり、岩石と粘土の混合した軟弱な部分が多く、また地下水の湧出に悩まされて、予想外の難工事となった。さらに電力の供給も不十分で、停電事故が頻発し、これも工事を遅らせる原因となって、はなはだしいときは一カ月に三〇センチという進行状態であった。そして、大正二年(一九一三)一月二十六日、全国を驚かせた落盤事故をおこした。

この日午後三時二十分、坑道東口から約七〇〇メートルの地点で、延長一八メートルにわたる陥没がおこり、作業中の一五二名が生き埋めとなった。必死の救助作業により、一昼夜ののち大部分を救出したが、そのうち監督一名、労務者一九名は不幸にも犠牲となった。芳五郎はこれを自己の責任として、数日間ひきこもって謹慎し、厚く彼らの霊をとむらうとともに遺族の援護に誠をつくした。

大阪電気軌道株式会社
生駒隧道
〈奈良〉大正3年4月竣工
導坑貫通(大正3年1月31日)
大阪電気軌道株式会社
生駒隧道
〈奈良〉大正3年4月竣工
導坑貫通(大正3年1月31日)
隧道内部
隧道内部
東口
東口

自己の苦境を語らず施主を励ます

工事の難航やこの事故などによって、世間には「大軌危うし」の声があがった。大阪電気軌道会社は資本金三〇〇万円、社債三〇〇万円で発足したのであるが、この生駒隧道工事費のみで出費は二七〇万円に達し、さらに多額の用地買収費、線路工事費、施設費を要した。

先に三〇〇万円の社債を発行することができたものの、建設費総額は当初の予算五七〇万円をはるかに超過して八二〇万円に達し、短期負債は一七〇万円にのぼり、数十万円の未払い金が残った。これら急を要する支払いに当てるため、大正三年春、四万株(二〇〇万円)の優先株発行を決定したが、百方たのみまわってようやく応募四〇〇〇株余というありさまで、あえなく失敗に終わったのであった。ただ一つの頼みの綱としてすがってきた開業後の運輸収入も意外にふるわず、多額の建設費に対する金利さえまかないかねる状態であった。

すでに初代社長広岡恵三氏は大正元年十二月辞任し、代わって二代目社長に就任した岩下清周氏も三年十一月職を退き、岩下社長をたすけて建設経営に当たってきた七里専務は、過労から病床に倒れ、創立以来ただ一人残った金森取締役支配人が難局を背負って悪戦苦闘、むなしい金庫の前で債権者に会社の実情を訴え、誠意を披瀝し、ひたすら支払いの猶予をこれ懇願するというありさまであった。(近畿日本鉄道「五十年のあゆみ」から)

大軌対大林組の関係は、単に施主と請負業者という関係ではなく、岩下氏と芳五郎のそれであった。以上のような苦境にあった大軌であるから、大林組に支払う工事費はほとんど手形であったが、この実状では手形に流通性はなかった。前にのべたように、このころ東京中央停車場工事が並行して進行中であったから、大林組の苦痛には容易ならぬものがあった。しかし芳五郎はよくこれにたえ、二年十カ月で工事を終わったが、金森又一郎氏は当時を回顧して次のように語っている。

この工事は実に血と涙との結晶に外ならなかつたのである。普通の請負者ならば、かうした難工事を引受けて、しかも代金の支払を受けないのだから、所謂足許に付込んで、如何なる難題を吹き掛けたかも知れず、実際あのとき会社の存亡は、故人(注・芳五郎)の態度次第でどうにでもなつたのである。
 しかるに故人は、会社の将来の為悪戦苦闘している私に対し『仕事の方は決して心配をせぬやうに。大林ある以上如何なることがあつても貫徹する。それよりも会社の窮地を切りぬけて下さい。開通さへすればこの軌道が有利なことは火を賭るよりも明かだから』と言つて、隧道工事の至難事業であることや代金未払のことなどは、曾て一言も口へ出されなかった。この故人の大人格と強い信念は、絶えず私達を指導激励して無限の慰安を与へたもので、我々当事者に対しどれだけ強い力となつたか知れなかつた。(「大林芳五郎伝」から)

こうした苦心の末、導坑は大正三年(一九一四)一月末貫通し、さらに四月には隧道工事と全線九工区の路線も完成して、大阪電気軌道会社は同月末営業を開始することができた。この隧道は昭和三十九年(一九六四)廃止され、いまは新隧道が使用されているが、この工事も大林組が施工した。新隧道については別にのべる。東に東京中央停車場、西に生駒隧道の二大工事は、ほぼ時を同じくして着工し、またほぼ時を同じくして終わったのである。しかしこの生駒隧道工事は岩下氏が頭取である北浜銀行取付け事件に波及し、さらに大林組存亡の危機につながった。

宇治川電気株式会社
大阪事務所
〈大阪〉大正2年2月竣工
宇治川電気株式会社
大阪事務所
〈大阪〉大正2年2月竣工
大阪合同紡績株式会社
神崎工場
〈尼崎〉大正2年9月竣工
大阪合同紡績株式会社
神崎工場
〈尼崎〉大正2年9月竣工
山陽紡績株式会社味野工場
〈岡山〉大正2年8月竣工
山陽紡績株式会社味野工場
〈岡山〉大正2年8月竣工
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